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異世界転生農家  作者: 今無ヅイ
農家漂着編
23/44

権威という鍬、階級という畝

さてやるべきことはもう定まった。

問題は――どう動かすか、だとリヒャルトは思っていた。


帝国は広い。皇帝の手がそのまま届く直轄領なら、布告ひとつで畑の回し方を変えられる。

だが、貴族領は別だ。そこでは、法と権威と階級が、土よりも強く物を言う。


長卓の上の地図に、色とりどりの石が置かれている。そのひとつを指先でつまみ上げ、ナイトハルトが唸った。


「うーん……しかし、初動は鈍りそう。この国は上からの“形”がないと動かないところがあるからね。残念だけど、ただの農夫のツチダさんには、まだ実績も権威の裏付けもない」


事実なので、ツチダも否定はしない。

土の機嫌は読めても、人の機嫌はまだよくわからない。


沈黙を割ったのは、リヒャルトのペン先だった。

紙の上で小さく音を立てて止まり、そのまま顔を上げる。

「……ふむ。室を作ろう。宰相府・農政改善室だ」


宰相の声は淡々としているが、決まったことだけを告げる硬さがあった。

「室長はクローディア。ナイトハルトは学術参。そして――ツチダ殿には、“帝国農政顧問”に就任してもらう」


「わ、私が室長!?」


クローディアが、ぱちくりと目を瞬かせる。

普段は冷静な青銀の瞳が、素で驚いていた。


「それが一番、反感を招かない」

リヒャルトはいつもの調子で言葉を継いだ。


「興味が無い貴族どもは、どうせ“皇女の権威づけ”だと解釈する。ならば、その解釈を利用すればいい」


ナイトハルトが、ひらひらと手を振って賛同した。

「いいね、それ」


ツチダは、思わず苦笑しながら頭を掻いた。

「顧問……とは大仰ですが……畝は、まっすぐ割ってみせます」


土に入れる鍬と違って、これは紙と印章の鍬だ。

それでも、畝を割るという意味では同じだと、彼は自分に言い聞かせる。

「配備と運用を定める。――権威、命令、誘因、検見、記録。五つでいこう」

紙の上に、五つの小さな丸が並ぶ。


「実行五具」とナイトハルトが楽しそうに笑う。「鍬・鋤・鎌・桶・帳面って感じ?」

「そういう比喩なら、農夫相手にも分かりやすい」


リヒャルトは丸のひとつを指で叩き、順に説明していく。


「ひとつ目は“権威”だ。青銀双鷲の室印を作る。農政改善室専用の印だ。クローディア署名と私の副署で、布令の正当性を担保する。ツチダ殿には、“帝国農政顧問”の証牌を与える。土色の楯に青銀の麦をあしらったものだ。門前通行権、公用水車の使用権を明記する」


権威というが目に見える形で用意される。


「ふたつ目、“命令”だ」

リヒャルトは、地図の直轄領部分を軽く叩いた。

「直轄領での条、家内油除外、芋三掟、三書式――これは明日付で施行だ。貴族領には“通達+委嘱”にする。各伯に、模範州委嘱状を送る。“自領内に試験農場をひとつ用意せよ”と命じ、農政改善室の受け入れを要請する」


「“委ねて命じる”か。やるね、兄上」とナイトハルトが口笛を噛み殺す。


「みっつ目、“誘因”――飴ですね」

クローディアが、室長の顔で引き継いだ。

さっきまでの驚きはもう消え、仕事の表情になっている。


「試験農場で余剰が出た作物は、国が優先的に買い上げましょう。室印を掲げた貨車には、関門での迅速通行権を。さらに、達成基準を数字で示した上で“翌年の税軽減枠”を付けましょう。腹を先に、税はそのあと――と先に書いてしまうのです」


「名誉も忘れずに」

リヒャルトが別の紙を引き寄せる。


「達成領主には“青銀の穂章”を授与し、宮廷で披露する。父上……皇帝にも協力を仰ぐ。皇帝から直々に賜ったとなれば良い。ああいう者たちは名誉に弱い」

腹の足しにはならんがな、と苦笑。


よっつ目、とナイトハルトが指を立てた。

「“検”だね。計画倒れで終わらせないため。四旬――四十日ごとに、室の巡検隊を回す。堆肥が“甘い匂い”になっているか、溝の傾きは適切か、板札はちゃんと立っているか、その三点を必ず見る。虚偽報告が出たら、うーん。専売の優遇枠停止と関門迅通の剝奪?かな。効くよ」


最後に、リヒャルトが五つ目を指で弾いた。

「最も重要なのが、“記録”だ。板札版、紙版、口唱え版――三層を揃えて、“誰が読んでも同じ意味”を徹底する。室には、耕況図を集積する。伸びた条、枯れた条をひと目で分かるように。次回会議のとき、“どこを太らせ、どこを抜くか”判断できる形にする」


説明がひと区切りついたところで、クローディアが小さく息を吸い込んだ。

「初動は南西、私の直轄領から始めますわ。“模範州”を立てて、見せて動かす。貴族は損得の匂いには敏いですもの」


その言い方に、ツチダは内心で苦笑する。

土の機嫌も、人の機嫌も、どこか似ている。


リヒャルトは、さらに薄紙を一枚添えた。

「反発の矛先を和らげる緩衝策も要る。“農政改善室は皇女の御稽古事”――そう、わざと軽く見せる噂を流そう」


「私の“御稽古事”ですか、ふふ」

クローディアは苦笑しつつも、否定はしなかった。


「刃を鈍らせる擬装は、政治の基本だ」

リヒャルトが肩をすくめると、ナイトハルトが楽しそうに笑った。

「内実は学と畑の本気。端から見たらお行儀の良い稽古。化けの皮みたいものだね」

ツチダがつられて笑う。


「化けの皮が剥がれる頃には、畝と実りが残ります」


そのとき、扉の外で足音がした。

侍従が恭しく現れ、室印の試作と、ひとつの小さな証牌を盆に載せて運んでくる。

土色の楯に、青銀の麦の意匠。

まだ光沢の新しいその証牌を、クローディアが手に取った。


「これが、帝国農政顧問の証です」

紐を通し、彼女はそっとツチダの首にかける。

胸の上で、小さな楯がひやりとした重みを主張した。


「これでツチダ殿は、“ただの農夫”ではございません。――畑の代表です」

「土の代表でもありますね」

ツチダが冗談めかして言うと、クローディアは口元に笑みを浮かべた。

「条の代表でも、ございますわ」


リヒャルトが最後の紙に、さらさらと決定文を走らせる。

「布告は明日付だ。――宰相府・農政改善室を設置。室長クローディア。農政顧問ツチダ。学術参与ナイトハルト。初動は南西直轄四郡。四旬後に第一次耕況評を行う。権威という鍬で畝を割り、数字という苗を植え、法という支柱で支える」


窓の外で、ちょうど鐘が鳴った。

その音を合図にするかのように、布告の写しが、次々と伝令の懐に抱えられて廊下に消えた。


「――刃は抜かず、条を抜く」


リヒャルトの言葉に、クローディアが静かに頷く。

ナイトハルトは、「さあ忙しくなるよ」と楽しそうにペンを振った。


ツチダは、胸元の証牌を指先でそっと押さえ、深く息を吸い込む。

鼻先をかすめるのは、レイト村で嗅いだ、あの甘い堆肥の匂いの記憶だった。


(権威という鍬は、重い。だが――重い鍬ほど、畝はまっすぐになるはずだ)

帝都の石の上に、新しい畑の線が引かれようとしていた。

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