権威という鍬、階級という畝
さてやるべきことはもう定まった。
問題は――どう動かすか、だとリヒャルトは思っていた。
帝国は広い。皇帝の手がそのまま届く直轄領なら、布告ひとつで畑の回し方を変えられる。
だが、貴族領は別だ。そこでは、法と権威と階級が、土よりも強く物を言う。
長卓の上の地図に、色とりどりの石が置かれている。そのひとつを指先でつまみ上げ、ナイトハルトが唸った。
「うーん……しかし、初動は鈍りそう。この国は上からの“形”がないと動かないところがあるからね。残念だけど、ただの農夫のツチダさんには、まだ実績も権威の裏付けもない」
事実なので、ツチダも否定はしない。
土の機嫌は読めても、人の機嫌はまだよくわからない。
沈黙を割ったのは、リヒャルトのペン先だった。
紙の上で小さく音を立てて止まり、そのまま顔を上げる。
「……ふむ。室を作ろう。宰相府・農政改善室だ」
宰相の声は淡々としているが、決まったことだけを告げる硬さがあった。
「室長はクローディア。ナイトハルトは学術参。そして――ツチダ殿には、“帝国農政顧問”に就任してもらう」
「わ、私が室長!?」
クローディアが、ぱちくりと目を瞬かせる。
普段は冷静な青銀の瞳が、素で驚いていた。
「それが一番、反感を招かない」
リヒャルトはいつもの調子で言葉を継いだ。
「興味が無い貴族どもは、どうせ“皇女の権威づけ”だと解釈する。ならば、その解釈を利用すればいい」
ナイトハルトが、ひらひらと手を振って賛同した。
「いいね、それ」
ツチダは、思わず苦笑しながら頭を掻いた。
「顧問……とは大仰ですが……畝は、まっすぐ割ってみせます」
土に入れる鍬と違って、これは紙と印章の鍬だ。
それでも、畝を割るという意味では同じだと、彼は自分に言い聞かせる。
「配備と運用を定める。――権威、命令、誘因、検見、記録。五つでいこう」
紙の上に、五つの小さな丸が並ぶ。
「実行五具」とナイトハルトが楽しそうに笑う。「鍬・鋤・鎌・桶・帳面って感じ?」
「そういう比喩なら、農夫相手にも分かりやすい」
リヒャルトは丸のひとつを指で叩き、順に説明していく。
「ひとつ目は“権威”だ。青銀双鷲の室印を作る。農政改善室専用の印だ。クローディア署名と私の副署で、布令の正当性を担保する。ツチダ殿には、“帝国農政顧問”の証牌を与える。土色の楯に青銀の麦をあしらったものだ。門前通行権、公用水車の使用権を明記する」
権威というが目に見える形で用意される。
「ふたつ目、“命令”だ」
リヒャルトは、地図の直轄領部分を軽く叩いた。
「直轄領での条、家内油除外、芋三掟、三書式――これは明日付で施行だ。貴族領には“通達+委嘱”にする。各伯に、模範州委嘱状を送る。“自領内に試験農場をひとつ用意せよ”と命じ、農政改善室の受け入れを要請する」
「“委ねて命じる”か。やるね、兄上」とナイトハルトが口笛を噛み殺す。
「みっつ目、“誘因”――飴ですね」
クローディアが、室長の顔で引き継いだ。
さっきまでの驚きはもう消え、仕事の表情になっている。
「試験農場で余剰が出た作物は、国が優先的に買い上げましょう。室印を掲げた貨車には、関門での迅速通行権を。さらに、達成基準を数字で示した上で“翌年の税軽減枠”を付けましょう。腹を先に、税はそのあと――と先に書いてしまうのです」
「名誉も忘れずに」
リヒャルトが別の紙を引き寄せる。
「達成領主には“青銀の穂章”を授与し、宮廷で披露する。父上……皇帝にも協力を仰ぐ。皇帝から直々に賜ったとなれば良い。ああいう者たちは名誉に弱い」
腹の足しにはならんがな、と苦笑。
よっつ目、とナイトハルトが指を立てた。
「“検”だね。計画倒れで終わらせないため。四旬――四十日ごとに、室の巡検隊を回す。堆肥が“甘い匂い”になっているか、溝の傾きは適切か、板札はちゃんと立っているか、その三点を必ず見る。虚偽報告が出たら、うーん。専売の優遇枠停止と関門迅通の剝奪?かな。効くよ」
最後に、リヒャルトが五つ目を指で弾いた。
「最も重要なのが、“記録”だ。板札版、紙版、口唱え版――三層を揃えて、“誰が読んでも同じ意味”を徹底する。室には、耕況図を集積する。伸びた条、枯れた条をひと目で分かるように。次回会議のとき、“どこを太らせ、どこを抜くか”判断できる形にする」
説明がひと区切りついたところで、クローディアが小さく息を吸い込んだ。
「初動は南西、私の直轄領から始めますわ。“模範州”を立てて、見せて動かす。貴族は損得の匂いには敏いですもの」
その言い方に、ツチダは内心で苦笑する。
土の機嫌も、人の機嫌も、どこか似ている。
リヒャルトは、さらに薄紙を一枚添えた。
「反発の矛先を和らげる緩衝策も要る。“農政改善室は皇女の御稽古事”――そう、わざと軽く見せる噂を流そう」
「私の“御稽古事”ですか、ふふ」
クローディアは苦笑しつつも、否定はしなかった。
「刃を鈍らせる擬装は、政治の基本だ」
リヒャルトが肩をすくめると、ナイトハルトが楽しそうに笑った。
「内実は学と畑の本気。端から見たらお行儀の良い稽古。化けの皮みたいものだね」
ツチダがつられて笑う。
「化けの皮が剥がれる頃には、畝と実りが残ります」
そのとき、扉の外で足音がした。
侍従が恭しく現れ、室印の試作と、ひとつの小さな証牌を盆に載せて運んでくる。
土色の楯に、青銀の麦の意匠。
まだ光沢の新しいその証牌を、クローディアが手に取った。
「これが、帝国農政顧問の証です」
紐を通し、彼女はそっとツチダの首にかける。
胸の上で、小さな楯がひやりとした重みを主張した。
「これでツチダ殿は、“ただの農夫”ではございません。――畑の代表です」
「土の代表でもありますね」
ツチダが冗談めかして言うと、クローディアは口元に笑みを浮かべた。
「条の代表でも、ございますわ」
リヒャルトが最後の紙に、さらさらと決定文を走らせる。
「布告は明日付だ。――宰相府・農政改善室を設置。室長クローディア。農政顧問ツチダ。学術参与ナイトハルト。初動は南西直轄四郡。四旬後に第一次耕況評を行う。権威という鍬で畝を割り、数字という苗を植え、法という支柱で支える」
窓の外で、ちょうど鐘が鳴った。
その音を合図にするかのように、布告の写しが、次々と伝令の懐に抱えられて廊下に消えた。
「――刃は抜かず、条を抜く」
リヒャルトの言葉に、クローディアが静かに頷く。
ナイトハルトは、「さあ忙しくなるよ」と楽しそうにペンを振った。
ツチダは、胸元の証牌を指先でそっと押さえ、深く息を吸い込む。
鼻先をかすめるのは、レイト村で嗅いだ、あの甘い堆肥の匂いの記憶だった。
(権威という鍬は、重い。だが――重い鍬ほど、畝はまっすぐになるはずだ)
帝都の石の上に、新しい畑の線が引かれようとしていた。




