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異世界転生農家  作者: 今無ヅイ
農家漂着編
21/47

宰相、誤解して条を噛む

宰相府の白大理石の廊下に、規則正しい靴音が近づいてくる。

角を曲がって現れたのは、整えられた金髪に涼しい眼差し、薄い青の外套を纏った男――リヒャルト・フォン・アーネンエルベ。帝国宰相にして、クローディアの兄である。

(「会っていただきたい方がいる」。クローディアの要件はいつも簡潔、だがいつもより筆圧は強め。さて――誰だ)


思案顔のまま歩いていった先、廊下の向こうで元気よく手を振る妹と、その隣に並んで歩く農夫が目に入った瞬間、リヒャルトの足が半拍だけ止まった。


(……妹の隣。私の妹の隣。純朴そうな農夫。――いや、いやいやいやいや)

こめかみに指を当てて呼吸を整える。背後の書記官が心配そうに様子を窺うのを、指先一つで制した。

クローディアは満面の笑みで駆け寄ってくる。


「お兄様!お久しぶりです!」

隣の男――ツチダが深く頭を下げた。胸元の泥は落としてあるが、どこか畑の匂いがする。

(畑の匂い……健全だ。だが……健全だからこそ……いや、待て、落ち着け)


リヒャルトは眉間をひとしきり寄せてから、結論を最悪の方向に早合点した。

「……そうか。そうか。妹が選んだのであれば――反対はすまい。どうか、よろしく頼む」


廊下が一瞬、静止画になった。

クローディアの笑顔が石像のように固まり、次の瞬間、全力で首を横に振る。


「お兄様っ!?違います!そういうのではありません!」

背後の衛兵が盛大にむせ、書記官が咳払いで笑いを誤魔化す。


リヒャルトは額を指で押さえ、短く息を吐いた。

「……誤解か。いや、誤認だな。失礼した……」


クローディアは胸に手を当て、仕切り直すように息を整える。

「紹介いたします、コウヘイ・ツチダ殿。帝国の腹を痩せさせないための“畑の理”を、言葉と条に直してくださる方です」


ツチダも姿勢を正した。

「ツチダと申します。漂着者ですが、本職は農家です。“誰が読んでも同じ意味”を整え、動く手順として腹から帝国を支えるお手伝いをできればと」


リヒャルトの表情から、先ほどまでの動揺と冗談の気配がすっと消える。瞳が、宰相としての色に澄んだ。


「…要点を三行で」

妹にそっくりだ、とツチダは思った。

いや、この兄あってこの妹ありなのだろう。


「一、油は家の灯と香り付けに限り、家内使用のみ。

二、芋は三つの掟(緑は捨てる/暗所/少量・慎重・記録)で試験区画のみ。

三、紙で手順を共有。堆肥・排水・輪作を、読み書きのできる者なら誰でも真似できる形にしました」


淀みのない、理路整然とした言葉。

「よろしい。四行目を」

「“腹の理が先、税はそのあと”。来年の数字を守るための順序です」


リヒャルトは小さく頷き、廊下の壁に掲げられた審議項目へ目を向ける。

『専売範囲』『人夫配当』『雑穀課税見直し』――粉字の三行。

(項目は揃っている。今の帝国に欠けているのは、“腹を先に置く”という視点だ)


「……よろしい。会議室では刃ではなく、条を抜く」


宰相は端的に言った。

「クローディア、君は要点を整理してくれ。安全・統制・財政、この三つ。ツチダ殿、君は手順とことばを用意する。この台所の条文とやらで構わない」


クローディアが嬉しそうにうなずく。

「台所の条文、正式採用ですね」


ツチダは苦笑した。

「台所から会議の場に持ち込んで良いものですかね……」


そこで、先ほどの誤解の残り香がふっと戻ってきたのか、リヒャルトが咳払いをひとつ。

「念のため確認しておくが――妹は仕事の相棒として君を連れてきた。よろしいな?」

「え?あ!もちろんです!」


クローディアとツチダが同時に答え、顔を見合わせて照れ笑いする。

廊下にいた全員が、ようやく肩の力を抜いた。

リヒャルトは口元だけで笑い、掌で扉を示す。

「では――帝国の条を耕しに行こう。第一歩だ」


重扉が開く。


紙とインクの匂い、羽根ペンのさざめき、法服の衣擦れ。

さっきまで結婚式場の入口に見えかけた扉は、いまや畑の入口にしか見えない。

ツチダは胸の内でそっと呟いた。


(急がない。――順番に、耕す)


長卓の上に、地方ごとの税収・作付・収量が地図と重ねて広げられた。

窓外の鐘が一つ鳴ると、書記官たちの羽根ペンがいっせいに走り出す。

席順は中央にリヒャルト、右にクローディア、左にツチダ。


まず確認から始まる。クローディアと侍女隊の巡検報告により、ツチダの現場能力と安全性は実証済み――この前提に、特に異論は出なかった。


リヒャルトはうなずき、地図の四隅を指で押さえる。

「方針は三つ。安全・統制・財政。この順に置く。……ツチダ殿、地域ごとに“最初の一手”を」

ツチダは立ち上がり、地図の上に簡潔な印を入れていく。


東部(レイト村方面)

「気温が安定して低い。冬小麦・ライ麦・ジャガイモの帯にします。排水が要なので、等高線に沿ったコンター・ディッチを導入。防風樹列はスギ系ではなく、根の浅い在来広葉樹で。手順は“水に道/堆肥は甘い匂いまで待つ/輪作は麦→豆→芋→麦”」


南部(丘陵)

「等高線畝と段畑で、雨による土の流出を止めます。豆科エンドウ・ルピナスを間に挟み、土を休ませる。収量は緩やかな増加ですが、崩れない畑になります。運搬が課題なので、共同牛車と水車の共有表を“夕刻交替制”で回す形に」


北部(寒冷・山脈麓)

「夏は十五度を超えにくく、冬はマイナス二十度。穀物は大麦・エンバク、畑はカブやビートなど根菜中心です。根菜貯蔵穴ルート・セラーを規格化して、冬の食い扶持を確保。牧草を厚くし、家畜で冬を越す比率を上げる。人夫の代替は干草納付に振り替えを」


西部(最肥沃・大貴族領)

「直接指導は難しい。なら、“見本で動かす”ほうが早いです。南西の殿下直轄領を“模範州”にして、油の家内使用除外・芋三掟・嘆願雛形を暫定条として実装。買上保証と輸送優先権を紐付けて、“真似したほうが得”だと貴族領にも見せる」


クローディアがすかさず拾う。


「直轄で“台所の条文”を“郡令”に翻訳、ですね。――兄様、条名はどういたしましょう?」


リヒャルトは短く考え、三件を紙に起こした。


1. 家内油使用除外令(暫定)

――灯と香味に限り、家内少量圧搾を専売侵害から除外。販売禁止/“急がせない装置”の維持を条件とする。

2. 芋三掟試験栽培許可(限定)

――緑は廃棄/暗所保管/少量・慎重・記録。試験区画のみ。違反時は即停止。

3. 嘆願・報告書式(農政第一〜第三)

――第一:水と溝/第二:堆肥経過/第三:輪作計画。読み書きの得意な者が“誰に読まれても同じ意味”で書ける定型。読み書きが難しい村には板札版を併用。


宰相は印璽を押し、印璽係に渡す。

「南西直轄領にて先行施行。四旬(四十日)後に成績を集計し、東・南・北へ順次拡張」


続いてリヒャルトが発言を促す。

「現在帝都含む市場にて流通している食料が薄い件、即効策を」


ツチダは三本指を立てる。

「即効は三つです。

――ひとつ、雑穀の“腹留め”。

エンバクやキビを配給用の粥に回し、パン用小麦の奪い合いを少しでも和らげます。香草と酢を配って、満足度を補います。

――ふたつ、揚げ油の軽量化。

屋台に“薄金の一さじ”の手順札を配ります。低温でゆっくり、二度揚げは避け、水切りを徹底。油の消費を三割減らしつつ、満足感は保てます。

――みっつ、共同水車の夕刻交替制。粉→油→粉の順に、急がせない運用で。黒板に共有表を置いて、誰でも順番が分かるようにします」


クローディアが補足する。

「農村では読み書きはどうしても障壁になります。“七か条”や“台所の条文”は、絵記号つきの板札版と、口唱えできる短句版を併用しましょう」


リヒャルトは地図の北へ視線を移す。

「では次。人夫の配当だ。北部の酷寒地で人足を抜くと、村が折れる」


ツチダが頷いた。

「人夫の“干草化”をお願いします。“干草の束=人夫一名/月”に換算して納付できるように。兵站の糧秣が厚くなりますし、村も身を削らず、安全と財政が一度に立ちます」


「……よろしい」

宰相は羽根ペンを置き、率直に言った。


「私は知識はあるが、現場に疎い。現場は君たちに任せて、君たちが得た経験を条にする。宰相の立場をフルに利用してな」


そこでクローディアがさらりと告げる。

「あら、ではお兄様、現場を見る稽古も必要ですわ。直轄領に三日同行していただきます。条件は……そうですね、泥を一掴み」


場が小さく和んだ。リヒャルトは肩をすくめ、しかし頷く。

「……まあ、泥は洗える。良いだろう」


最後にツチダが、長卓の端に黒炭で三行を書きつけた。

〈本日の耕し〉

1. 腹が先、税はあと(安全)

2. 家内は守り、流通で揃える(統制)

3. 来年の数字を太らせる(財政)


「四旬後に……畑と市場、両方の“芽具合”の見回りを。育ち方には差があります。育った芽には肥料を、育たぬ芽は先に抜くべきでしょう」


クローディアが微笑む。

「畑の言い方で会議を回すの、私は好きです」


リヒャルトは印璽を押し終えると、短く結んだ。

「――決定だ。南西直轄領でまず試験的に導入する。四旬後、第二回“耕盤会議”で、条の芽の伸び具合を判定する」


扉の外、魔導灯が一段明るくなる刻。書記官たちが布告の写しを抱えて走り出す。


クローディアは席を立ち、ツチダと視線を合わせた。

「次は現場へ――芽吹きを確かめに参りましょう」


ツチダはうなずき、掌を軽く握る。

帝国の“条の畑”は、いまようやく、開墾が始まったばかりだった。

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