よく知る土の匂いと、身知らぬ空
――誰か、流されてる!
――おい、まだ息があるぞ!
――しっかりしろ!
――運ぶんだ!
遠くでそんな声が聞こえた気がした。
冷たい水の中を漂いながら、ツチダ・コウヘイは薄れゆく意識の中で思った。
――ああ、俺、やっぱりやらかしたな。
台風の日に畑を見に行くなんて、馬鹿の見本だ。死亡フラグだ。
目を覚ましたとき、見知らぬ天井があった。
木で組まれた梁、土壁、かすかに藁の匂い。
粗末だが、どこか温かみのある部屋だった。
体を起こそうとすると、全身が痛む。包帯が巻かれている。
「目、覚めたか!」
戸口に立つ若い男が笑っていた。
浅黒い肌に、麻布の服。腰には木製の短剣のようなものがぶら下がっている。
「川を流れてきたんだよ、あんた。あれから三日も寝てたんだ」
ツチダは戸惑いながらも礼を言った。
「……助けてくれたのか。ありがとう」
「へへ、まあな。放っとけなかったんだ」
聞いたことのない響きの言葉だった。だが、不思議と意味が分かった。
どうやら“通じている”らしい。頭がぼんやりしているせいか、それすらもすんなり受け入れてしまう。
窓の外から風が吹き込み、光が揺れた。
視界の端で、何かがきらめく。
空気の中に、微かな粒のような光――赤、緑、青。
草や土の表面から、淡く立ちのぼっている。
ツチダは思わずつぶやいた。
「……なんだろう、色が、見える」
青年がきょとんとする。
「色?……どんな色だ?」
「空の中に、赤とか緑とか。光が漂ってるみたいな……」
青年は一瞬、目を見開いた。
「おい、まさか……“色を見る人”なのか?」
「色を見る?」
「滅多にいねぇんだ。魔術師でもねぇのに、色が見える人間なんて」
意味は分からなかった。
けれど、青年の目が本気だったので、冗談ではないのだとわかる。
ツチダは再び、窓の外に目を向けた。
丘の向こうの畑は、黄金色に波打っていた。
風に乗って流れるその光が、まるで大地の呼吸のようだった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
懐かしい――けれど、知らない匂いだ。
土が生きている。風が回っている。どこかで水が循環している。
「……いい土地だな」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
青年は不思議そうに笑う。
「へんな人だな。命拾いしたばっかで、畑の話かよ」
ツチダも笑い返した。
生きている。それだけで十分だった。
そして心のどこかで、確信していた。
――この世界でも、きっと“耕すこと”に変わりはない。
土田耕平、二十七歳。
北海道の農家だった男は、理の大地に、その身を根づかせ始めた。




