薄金色の雨と白いソース
クローディアは屋内で泥まみれの外套を脱がされ、侍女たちに手早く着替えさせられていた。
袖口についた土を名残惜しそうに指で摘まみ、「やっぱり、いい土ね」と笑ってから、髪を整える。
一方ツチダは、粉挽き小屋の脇に小さなかまどを据え、薄金色の油を浅鍋に落としていた。
火は強すぎず弱すぎず――“待つ理”。鍋底から静かな泡が立ち上る。水にさらして水気を切った芋を棒状にし、布でさらに拭ってから、そっと油へ。
ぱち、ぱち。
泡が細かくなり、芋の角がうっすら色づく。網杓子で持ち上げ、岩塩を指先ひとつまみだけ、祝いの分だけ散らす。仕上げに畦から摘んだ香草を揉み込み、木皿に高く盛った。
着替えを終えたクローディアが戻ってきて、鼻先をくんと動かす。
「……いい匂い。これは?」
「フライドポテト。芋の“腹の理”を、そのまま軽くした料理です。今日は“送別会”の分を、少しだけ」
彼女は一本摘み、歯を当てた。さく、ほく。
「美味しい〜!」
途端に周りの子どもたちの目がもう一度輝く。
村長ハンスが遠慮がちに一本齧り、思わず「うまい」と漏らして恥ずかしがる。兵士まで列に並び、油の香りに喉を鳴らした。
ツチダは「もうひとつ」と、木鉢と卵を取り出した。
「とっておきです。今すぐ食べる分だけ、新鮮な卵で作ります」
卵を割り、黄身だけを木鉢へ。そこへ塩をひとつまみ――やはり“祝い”の分だけ。さらに酸い汁(自然に発酵させた酢)を少量。
「卵が橋になります。油と酸を繋ぐ橋。だから、最初は塩と酸い汁で黄身を“練る”」
乳棒でていねいに円を描く。黄身がなめらかに光り出したところへ、薄金色の油を糸のように垂らし、絶対に急がず混ぜ続ける。
見る間に、鉢の中で白が立つ。
「おお……」子どもが背伸びをする。
「急ぐと分かれる。待つと繋がる。畑と同じ理です」
最後に、刻んだ香草をひとつまみ。白に緑の星が散り、香りがふわりと立ち上がる。
「名は――マヨネーズ」
「まよ、ね……?」クローディアが言いにくそうに真似る。「変な音だけど、可愛い」
ツチダは笑い、「理は独占しない。レシピも独占しない」と木鉢を差し出した。
フライドポテトの端を白いソースにそっと浸す。
口へ。
――さく、とろ、ふわ。
芋の甘さが一段引き立ち、酸が輪郭をつけ、油が全体を軽くまとめる。塩は最後の一押しに徹している。
クローディアは目を丸くし、次の瞬間、少年みたいな笑顔になった。
「これ、ずるい!油が軽い。酸が歌って、芋が踊る!」
「卵が指揮者なんですよ。橋を渡らせる」
「帝都で流行ります。……いえ、流行らせます」
彼女は次の一本を子どもに手渡した。
「塩は祝い、でも今日は祝い。皇女が泥に落ちた記念日に」
畦の向こうで笑いが弾け、さっきまで張っていた緊張が、白いソースみたいに柔らかく溶けた。
村長が恐る恐る尋ねる。
「この白いの、どうやって覚えれば……」
ツチダは木鉢の縁に三行で書いた小札を括りつけた。
1. 黄身+塩+酸い汁=よく練る
2. 油は糸、混ぜは止めない
3. 今すぐ食べる分だけ(新鮮な卵/道具は清潔)
「誰が読んでも同じ意味で動く言葉に。これが“台所の条文”です」
クローディアが満足そうに頷く。
「台所の条文、気に入りました。帝都でも、その言い方で通しましょう」
風が変わり、堆肥小屋から甘い匂いがまたひと筋。粉挽き小屋の水車がゆっくり回り続け、薄金色の新しい生活が一滴ずつ、村に落ちていく。
今日、この村の心の中にはひとつの火が灯った。
理を繋ぐ灯――白と金の、やさしい火だった。
日が傾き、レイト村の屋根が琥珀色に縁取られる頃。
広場の真ん中で、クローディアは村長ハンスに向き直った。青銀の外套は新しいものに替えられたが、袖口にはあえて薄く泥の跡が残されている。
「ハンスさん。改めてお伝えします。――ツチダを帝都へ連れて行きます。帝国は“理と法の国”です。彼の畑の理を、言葉と条にして全土に分けるために」
周囲の村人たちがざわめいた。ハンスは一度目を伏せ、唇を引き結ぶ。迷いはある。村を守る者としての迷い、ひとりの老人としての寂しさ。やがて彼は顔を上げ、いつものしわの深い穏やかな目で頷いた。
「わしはのう、ツチダ殿から“理は独占しない”と教わった。この村の周辺だけで持っていては、理が濁る。帝国全体に分け合えれば、この国はきっと変わる。……ならば、行ってきなされ」
ツチダが口を開きかけると、ハンスは手で制し、少し照れくさそうに笑ってみせた。
「心細いがの。腹の理は畑に置いていってくれた。“七か条”も“台所の条文”も、子どもが読める言葉で板にしてくれた。わしらは回せる。どこかが飢えたら、助ける。……忘れはせんよ」
クローディアが満足げに微笑む。
「帝都で、条を耕します。戻る時は、あなた方の板切れを法の言葉に磨いて返すつもりです」
その時、村の外れから、背に荷を負った人影が次々と現れた。
グロースフェルト、フロイデン、ヴァイツェン――周辺の集落から、噂を辿って学びに来た面々だ。手には縄綴じの薄冊子、写した“七か条”、そして今日覚えた白いソースの三行札。
「ツチダさんを見送りに来ました!」
「理は独占しない、って約束の見送りです!」
「台所の条文、もう覚えました!」
子どもの弾む声に、笑いが広がる。
粉挽き小屋の水車は、夕の弱い流れを受けてゆっくり回っている。臼の横には、交代使用の表――夕刻の短い借用時間が、各村の名で埋まっていた。
ツチダはそれを確かめ、黒炭で小さく「急がせない」と端に書き足した。
「これが、俺の置き土産です」
ハンスが目を潤ませて笑う。
「これだけあれば、春が来る」
クローディアが合図すると、巡検隊の馬が並んだ。彼女は鞍に足をかけ、ふと振り返る。
「――農村では、あなたたちこそが君主。君主の務めは、分け合うこと。守ること。続けること。帝都で、その務めにふさわしい法を用意します」
「皇女様ー!」と、さっきマヨネーズを覚えた子が板を掲げる。
板の端には拙い絵――白いソースに芋を浸す手、畝に立つ“七か条”、そして“ツチダ”の看板。
ツチダは馬に乗る前、看板の前で一瞬だけ立ち止まった。〈ツチダ〉の文字の下、誰かが新しい小板を打ち付けている。
〈理は独占しない。泥も独占しない〉
クローディアが吹き出し、袖の泥跡をつついた。
出立の号令。蹄が石を叩く。見送りの列が自然に畦の両側に分かれ、道が開く。
「字は続けて!」
「続けます!」
「堆肥の棒、毎朝抜けよ!」
「毎朝!」
「油は糸、混ぜは止めない!」
「止めない!」
夕風がふっと変わり、堆肥の甘い匂いがもう一度だけ村を包んだ。
水車が回る音、子どもの笑い声、鍋の遠いぱちぱち。すべてが薄金色の薄明に溶け、背に遠ざかっていく。
街道へ出る直前、ツチダは振り返って、両の手で口を囲い、短く叫んだ。
「春にまた播け!腹の理を痩せさせるな!」
「おう!」と幾百の声が応える。畦が震え、板切れが風に鳴った。
ツチダは前を向き、手綱を握り直す。
青銀の一行は西へ。背には、分け合う理を掲げた村々の灯。
レイト村の夕空は澄み、明日のための冷えが、静かに降り始めていた。




