石の広間、青銀の裁き前夜
石の扉が開くと、先に立っていた伯爵が平身低頭で進み出た。
「皇女殿下、ようこそ……巡検の栄、痛み入ります」
クローディアは小さくうなずくだけで受け、視線を広間に滑らせた。
「拘束中の者を。ここで話を聞きます」
俺は兵に伴われて広間へ出る。青銀の外套の人物が、こちらを振り向いた。
(……皇女?おえらいさんだな)
その瞬間、胸の奥で小さなざわめきが立った。
彼女の周囲で、魔素が静かに循環している。川みたいに騒がず、風みたいに途切れず、一定のリズムで青と銀が行き来している。
(……きれいだ)
だが今は、見るより言うほうが先だ。俺は一歩前へ出た。
「ツチダです。畑の話しかできませんが」
伯爵が咳払いを挟む。
「その者は――」
クローディアが手を上げて制した。
「まず当人の三行から。あなたは何をし、なぜしたのです?」
俺はうなずき、順番で置く。
「一つ。油――家の灯の補助と香り付けに、家の中だけで使いました。売り買いはしていません。
二つ。芋――三つの掟(緑は捨てる・暗い所・少量・慎重・記録)を守って、試験区画だけで。これも売り買いはなし。
三つ。紙――来年の数字を守るための段取りです。堆肥・排水・輪作の手順を、誰でも読める言葉に直して配りました」
クローディアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「面白い。畑の理を、手順と言葉に変えたのですね」
ハルトマンが割って入る。
「しかし法は――」
クローディアは首を傾げた。
「法は『なぜ』の器です。伯爵、いくつか由来を確認しましょう」
彼女は石机の上に、指先で三つの点を打つ。
「一点目。芋が家畜飼料になったのは、人が安全に食べられなかったから。毒の扱いと選抜の知が足りなかった。ならば、安全側の手順が確立され、量が制御されるなら、条の読み替えは可能か。
二点目。油が専売なのは、大きな畑と設備が要り、品質と流通を統制するため。ならば、家の中だけの小さな搾りが流通を乱さず、灯と食の最低限を支えるだけなら、専売の核心には触れないのではないか。
三点目。文書の配布。『理は独占しない』は秩序を壊す言葉かしら?危険を避け、量を抑え、記録を残す――やめ方まで書いてある。これはむしろ、秩序の言葉です」
伯爵は額の汗を袖でそっと拭い、「も、もちろん殿下のご高説は……」と歯切れ悪く言葉を濁す。
クローディアは視線だけで追い詰めはしない。落ち着いた声で続けた。
「法の目的は三つ。安全・統制・財政。この男の手順は、安全に資する。家内使用の限定は、統制を乱さない。腹を痩せさせない工夫は、長い目で見れば財政を助ける。――この法も、宰相判断が必要ですわね、伯爵?」
伯爵は背筋を伸ばし、さらに低く頭を垂れた。
「……宰相府のご裁可に従いましょう。暫定の取り扱いは、殿下のご判断で」
クローディアはうなずき、今度は俺のほうへ向き直る。
「いま言った三行に、『なぜ今できるのか』を、もう一行ずつ足してください」
俺は短く息を吸った。
「芋――『食べられなかったから飼料』だった。でも今は、三つの掟で危険を前で止める手順が村に根づいた。だから、少量・慎重で腹を補える。
油――『専売だから遠いもの』だった。でも今は、水車でゆっくり、家の範囲で搾る術がある。売らない。灯と香りで冬を越すだけ。
紙――『難しい言葉で書くもの』だった。でも今は、子どもが読める言葉に直した。だから誰がやっても、同じ意味で動く」
クローディアは満足そうに目を細めた。
「よろしい。誰が読んでも同じ意味――法にとって、いちばんの栄養です」
伯爵が最後の抵抗を試みる。
「しかし、殿下。人夫の供出が滞れば、我が……」
「人は腹で歩きます」クローディアは穏やかに遮った。
「腹が先、税はそのあと。来年の数字が欲しいのでしょう、伯爵。ならば、痩せさせない冬を、今年だけでも許すこと。宰相府へ上申します。件のツチダは暫定保全として、巡検隊が身柄を引き受け、帝都で正式聴取とする」
ハルトマンが唇を噛み、伯爵は観念したように深く頭を下げた。
「……御意」
場がほどけ、兵が近づく。手枷は出ない。
クローディアが一歩寄って、小声で言った。
「理は試す。法も試す。――帝都で、続きの話をしましょう」
彼女の周りの魔素の循環が、少しだけ速くなったように見えた。青と銀が一拍、俺の胸の鼓動と重なる。
広間を出る直前、伯爵が再び平身低頭で見送った。
クローディアは振り返らない。ただ、石の廊下に短く告げる。
「伯爵。専売の核心を守ることと、腹の理を守ることは、敵ではありません。
条文の言葉が古びているようなら――宰相に研ぎ直してもらいましょう」
帝都へ戻る前に、とクローディアは馬の鼻先を谷へ向けた。
噂に聞いた炭の字の紙と七か条、そして腹の理――すべてを、現場で確かめておきたかったのだ。暫定保全となった俺も、護衛の列の中にいる。
レイト村に入るや、道の両側で人々が一斉にひざまずいた。年寄りも、子どもも、粉で白くなった手も。
クローディアは馬を降り、外套の裾をつまんで微笑む。
「顔を上げて。農村では、あなたたちこそが君主なのよ。畑が王冠で、労苦が勲章。今日は、私が勉強に来たの」
お茶目な言い回しに、張り詰めていた空気がふっと緩む。
村長ハンスがぎこちなく笑い、誰かが「皇女様なのに畑へ?」と呟いた。
「もちろん」クローディアはうなずく。
「理は試す。紙と口だけでは足りません」
彼女は自ら畑に入った。俺が先導し、畦の手前で立ち止まる。
「ここが試験区画です。芋の三つの掟を、壁に貼ってあります。『緑は捨てる』『暗い所で保管』『少量・慎重・記録』」
クローディアは掲げられた板をじっと読み、側にいた子どもに目線を合わせた。
「読める?」
「よ、読めます!『みずにみちをつくる。ねはこきゅうする』」
「えらい」彼女は素直に手を打った。「誰が読んでも同じ意味――法の第一条件を満たしているわ」
堆肥小屋に移る。俺が棒を抜くと、湯気のような暖かさが立ちのぼった。
「甘い匂いがします」クローディアは手袋越しに温度を確かめる。
「未熟の刺す匂いではない。三日後に切り返し、で良いわね」
俺がうなずく。彼女の横顔を見上げた村人が、そっと誇らしげにうなずき返した。
排水の溝ものぞいた。幅と深さが等間で、緩い勾配で水を誘っている。
「根は呼吸する、だから水に道を――理屈と形が一致している」
クローディアは感心したように指で溝の縁をなぞり、続いて粉挽き小屋へ。
夕刻の借用時間が黒炭の線で記され、臼は減速歯車で「ゆっくり」回るように組み直されている。
「急がない装置まで備えてあるのね」
「待つ理です」俺が応じる。「急ぐと、えぐみになります」
最後に、畝の走る麦の区画へ。輪作の札に「麦→豆→芋→麦」と炭字が踊る。
「まさに理に適う……」
クローディアは感嘆を漏らし、つい一歩、畝間に踏み込んだ――。
ずぶっ。
柔らかく起こしたばかりの土に足を取られ、青銀の外套が弧を描く。
次の瞬間、皇女は見事にダイブした。頬に土、袖に土、王家の紋章にまで土。
周囲が凍りつく。俺は慌てて手を差し出した。
沈黙のあと、クローディアが大笑いした。
「ははっ……!土は急がせない――わたしの足も、ね」
安堵の笑いが連鎖する。彼女は差し出された手を取り、泥だらけのまま立ち上がった。
「いい土。甘い匂いがする。これなら麦は応えるわ」
袖を払おうとした俺に、「そのままで」と手を振る。
「理は独占しないし、泥も独占しないの」
村人たちが一斉に吹き出し、緊張が完全に溶けた。
クローディアは外套の泥を少しだけ拭い、真顔に戻る。
「確認したいのは三点。安全・統制・財政。
芋は、安全側の手順で危険を前で止めている。
油は、家内使用に限ることで統制を乱さない。
腹を痩せさせない工夫は、来年の財政に資する。
――法の目的に、合致します」
村長が目を丸くする。
「こ、このやり方を……続けても?」
「暫定許可を出します。売買は不可、家の中だけで使うこと。油の圧搾は夕刻の水車使用で、『急がせない装置』を維持すること。芋は三つの掟を守り、記録は紙に残すこと。違反があれば即停止。……伯爵?」
いつの間にか背後に来ていた伯爵は、平身低頭で頭を垂れた。
「宰相判断に上申のうえ、殿下の暫定を遵行いたします」
クローディアは満足げにうなずき、俺のほうを向いた。
「あなたの『畑の法』は、すでに言葉と段取りになっている。帝都で条文に翻訳しましょう。理と言葉は、民と法の橋になります」
俺は短く礼をした。
「畑は待ってくれます。村には順序を置いてきました」
「ええ、見ましたわ」
彼女は泥のついた掌で畝をぽんと叩いた。
「順序は、ここにある」
帰り際、子どもが勇気を出して声を張る。
「こうじょさま!『塩は祝い』だよ!」
クローディアは振り返り、泥のついた頬でにっこり笑った。
「塩は祝い。普段は香草と酸。忘れません」
青銀の外套に土の色を残したまま、皇女は馬へ戻る。
帝都への道は長い。だが、理と法は同じ方向を向いた。
村の風下で、堆肥の甘い匂いがもう一度だけ、彼女の鼻先をくすぐる。
(よし。次は帝都で――条を…国を耕す番)
黒い炭の字で書かれた小さな理が、のちに帝都の石畳と法の言葉を動かす“種”になることを、この日まだ、誰も知らなかった。




