街道にて、青銀の巡検
砂利を噛む蹄の音が、朝の冷えた空気を細かく砕いていく。
街道を北へ。先頭を走る騎馬のたてがみが風を裂き、青銀の外套が背中で大きくはためいた。
クローディア・フォン・アーネンエルベ。
アーネンエルベ帝国皇女にして、帝都から派遣された巡検隊長である。
まとめられた金髪、きりりと結ばれた口元と、晴天を映したような青く澄んだ瞳。
鍛えられた体つきはしなやかで、騎乗姿勢には無駄がなかった。高貴さと、鍛えた兵士の気配が同居している。
霧灰季――ネーベルグラウ。
空はまだ薄く白く、遠くの森や畑の輪郭は、墨を水で伸ばしたようにぼやけている。
「クローディア殿下!少し、速度を落としていただけると……!」
副官のヴァルトが、控えめに声をかけてきた。
真面目なのはよいことだけれど、少し心配性すぎるところがある。
「急ぎます」
私は短く答えた。
「土と話す旅人の噂――今、聞きに行かなければ意味がありません」
先触れに出していた斥候が、前方から馬を返してくる。
霧を切るように、声が届いた。
「報告!アルベルスベルク伯爵領、レイト村周辺にて“炭の字の紙”が広がっております!
内容、『理は独占しない』と――」
「……『理は独占しない』」
私はその言葉を、胸の内でそっと繰り返す。
理は、本来、支配の道具ではない。
誰もが触れていい“流れ”を、少しわかりやすくするための言葉のはず。
(理を割って、自分だけのものにしようとする者は多い。その反対側――“分ける”側に立った者がいるということですね)
馬の歩調を少しだけ落とし、並走してきたヴァルトに問いかける。
「拘束された者の名は」
「ツチダ、と。出自不明の漂着者にございます。『色が見える』と吹聴し、油を搾り、芋を人に食わせた嫌疑」
「“吹聴”か、“説明”かは、聞き方で変わります」
私は淡々と返す。
「油の件は?」
「粉挽き小屋の水車を転用し、防風林の実から搾油を。都市商会の専売に触れる恐れありと」
「芋は」
「本来、家畜の飼料と定められたものを人に――とのことです。ただ、三つの掟とやらで少量・慎重・記録を徹底していた、という風聞も」
私は外套の留め具を指先で押さえながら、小さく息を吐いた。
「……法の言葉と、畑の言葉が、すれ違っているわけですね」
(理を分け合う、謎の男。紙に書き、板に刻み、言葉を配っている。それは“惑乱”か、“秩序の組み直し”か――)
「殿下。伯爵家は『査問権の行使』を宣言しております。介入には、理屈の準備が必要かと」
「もちろんですわ」
思わず、少しだけ口調が柔らかくなる。
「刃は抜きません。抜くのは“条”です」
ヴァルトが苦笑した。こういう言い方は、父上にはあまり好まれないのだけれど。
鞍袋から、薄い紙束を取り出す。
各地で集めた、村々の嘆願書の写し。字は拙いが、誰にでも読める言葉で書かれている。
『麦→豆→芋→麦』
『塩は祝い、平日は香草と酸』
『水に道をつくる』
そして、端に小さく――
〈油は川と林の恵み。塩は祝いの恵み。〉
「……なるほど」
私は目を細めた。
(試し方が良い。危険は避け、量は抑え、記録を残す。“理を試す”というのは、本来こういうことです)
「殿下、前方にアルベルスベルク伯爵邸の外柵。旗が掲げられております」
「門でいきなり争うつもりはありません」
私は馬首を少し横に振り、随員たちを見回した。
「まずは街道で“風”を聞きます。粉屋、兵士、子ども。――現場の言葉が先です」
「畏まりました」
ちょうどそのとき、対向から粉で腕の白くなった若い男が、荷車を押して上がってきた。
私は馬を寄せ、外套の襟を少し緩めて、声をかける。
「粉屋さん。ひとつ、お尋ねしてもよろしいかしら」
男は目を丸くしたが、青銀の紋章を見ても怯えるより、むしろほっとしたような顔をした。
「ツチダという男を、知っていますか」
「知ってます。うちの粉挽きが終わった夕刻に、水車を借りる人です。臼をゆっくり回して、布袋をじわっと押す。焦らない。待つ。……変な人でしたけど、嘘は一度も言わない。危ないことは、ちゃんと『やめる』って決めてる人でした」
私はうなずく。
「芋のことは」
「三つの掟です。緑は捨てる、暗いところで保管、少量・慎重・記録。うちの婆さまが、壁に貼ってます」
「油は売りましたか」
「いえ。『家で使え』って。麦粥に一さじで体が温まるから、岩塩は“祝い”に取っておけって」
ありがとう、と礼を言い、軽く手綱を引く。
(“専売侵害”というより家内使用。“賦課攪乱”というより、来年を守る輪作。“住民教唆”というより、手順の共有――)
「条文は“乱れ”と読むかもしれませんが、実際には“整え”ている。さて、どう料理しましょうか」
つい独り言が口から漏れると、ヴァルトが小声で問う。
「殿下のご裁断は」
私は小さく息を吸い込んだ。
「理は試します。法も、試します」
懐から細長い封筒を取り出した。紫の封蝋に、双頭の鷲の印。
「地方査問への“臨検通知”。『巡検隊長は、現地の安全と秩序に関わる案件について、暫定保全のため、当事者の身柄引き受けを命じることができる』――」
ヴァルトが目を細める。
「条文としては、やや薄い橋ですが」
「現場の必要が太いときに使う橋です」
私は微笑んだ。
「ツチダさんには、そうですね。三行で説明してもらいましょう」
「三行、ですか」
「ええ。
『油――家内の灯と香り付け。売買なし』
『芋――三つの掟、少量・慎重・記録。賦課に触れず』
『紙――来年の数字を守るための段取り』
――誰が聞いても同じ意味で届く言葉にしてもらう。それができたら、帝都で正式に聴きます」
丘を下ると、伯爵邸の外柵が大きくなってきた。
門前には槍を持った兵が二列。旗が風に鳴り、石の狭間から、こちらをうかがう視線がいくつも刺さってくる。
私は馬を止め、声量を落として随員たちに告げた。
「刃は抜かないこと。声は出しても、荒げないこと。理と法を、順番に並べます」
「了解」
ヴァルトの返事は短くて、少しだけ頼もしい。
私は一呼吸おき、空を仰いだ。
霧灰の名残は薄れ、淡い光が街道を照らし始めている。
(――話してみたいわね)
理を“独占しない”と言った男が、どんな顔をしているのか。
どんな声で、畑のことを語るのか。
馬腹に軽く脚を当て、ゆっくりと門へ進む。
「帝国巡検、クローディア・フォン・アーネンエルベ。――臨検に参りました」
自分でも驚くほど、声は静かで澄んでいた。
その響きが石壁に跳ね返り、内側の動きを、静かに、しかし確かに急がせていく。
中庭の奥、石階段の陰で、誰かの靴音が止まる気配がした。
ツチダ――土と話す百姓。
彼の言葉を、法の場所で、畑の順序で聞こうじゃないか。




