石壁の問答、法の名において
伯爵邸は、石灰岩の薄い光をまとっていた。
城というほどではないが、高い塀と見張り塔が二つ。門をくぐると、朝の靄が中庭の噴水に溶け、濡れた石畳が冷たい匂いを放っている。
縄を外されたあと、俺は「査問室」と呼ばれる狭い部屋に通された。
机と椅子がひとつずつ。壁には帝国法典を模した装飾額。けれど、紙の匂いは薄く、蝋と鉄の匂いが濃かった。
やがて、徴税監吏ハルトマンが入ってくる。後ろに書記官、隅に執事。
「座れ」
すすめられた椅子に腰を下ろすと、足元の石がひんやりと体温を吸っていった。
「名と出自」
「ツチダ。漂着者。出自は……うまく語れません。記憶が曖昧で」
ハルトマンは鼻を鳴らし、巻物を広げる。
「異端嫌疑、油の無許可製造、賦課基準攪乱、住民教唆。疑いは四条。――否認か、肯認か」
「まず、事実の方なら肯認します。油は搾りました。芋は三つの掟を守って“腹”に回した。紙も配った。隠してはいません。全部、畑の上で話したことです」
ハルトマンの口角が、わずかに上がった。
「よし。ならば“罪”は固い。次は“意図”だ。なぜそれをした」
「みんなが腹いっぱいになれば、よく働けます。春に倒れず、夏に持ちこたえ、秋に刈り取りの腕が上がる。そうすれば、あんたらの税収も増える。――なにが不都合なんです?」
机の上の羽根ペンが、一瞬だけ止まった。
執事の視線がぴくりと揺れ、書記官が顔を上げる。
ハルトマンは椅子に浅く寄りかかり、指で机の縁をとんとんと叩いた。
「順序が逆だ。税が先だ。腹は、そのあとで整える」
「逆じゃありません。腹が先です。腹が痩せれば、畑が痩せる。畑が痩せれば、来年の税が痩せる。……数字の理が欲しいなら」
俺はゆっくりと手を引き、掌に残しておいた畑の泥を見せた。
「この泥は全部を語ります。匂いを嗅げばわかる。甘い。堆肥は生きていて、土は呼吸している」
「無礼者!」
叱咤が石の壁を打ち返す。執事が一歩進み、俺の掌を払い落とそうとしたが、ハルトマンが指を上げて止めた。
「よかろう、田夫の芝居はもう良い――本題だ」
巻物の下から、もう一枚の紙が現れる。伯爵家の印璽が押された命令書だ。
「油は都市商会の専売に近い。勝手搾りは秩序を乱す。芋は賦課の基準を乱す。お前の紙束は民心を乱す。……“乱し”の三段だ。理の国には、理を乱す者に法が下る」
「なら、法で裁いてみてください」
俺ははっきりと言った。
「“理と法の国”だと言うなら、法で。貴族の気分じゃなく、条文で。俺のしたことが“乱し”なら、どの条に、どれだけの罪の要件があるのか、順に示してください。畑の段取りみたいに、ひとつずつでいい」
部屋の空気が、少しだけ乾いた気がした。
ハルトマンは薄く笑う。
「……よろしい。気骨だけは、収穫並みに揃っている。条なら示そう。“地方専売の保護”に基づき……」
彼は淡々と条文をなぞっていく。文言は整っている。
けれど、その行間に土の匂いはない。
俺は聞きながら、ひとつひとつ、畑の作業みたいに頭の中でひっくり返す。
(“専売の保護”――油が灯と食の両方で使われることが前提の条。なら、村での香り付けや灯の補助は、“専売の核心”に触れていない。
“賦課の基準”――芋は飼料。俺たちは飼料の“味見”をしているだけだ。
三つの掟を守り、量を抑え、記録を残した。賦課に触れる“交換”(売買)はしていない。
“民心の乱し”――字を教えた。板を立てた。“理は独占しない”と書いた。秩序を崩したか?違う。秩序を作ったんだ)
「反論は」
「あります。全部」
執事が鼻を鳴らし、書記官が小さくため息をつく。
俺は言葉を選ばず、順序だけを守って話した。
土に線を引くみたいに、一本ずつ。無礼と言われても構わない。無礼は土の知らない言葉だ。
「油――“灯の補助”と“香り付け”として家の中で使いました。売買なし。搾りかすは堆肥行き。
芋――飼料芋を試験区画で少量、三つの掟を守って、記録を残した。これも売買なし。
紙――嘆願の雛形と七か条。役所に嘘はつかない。角が立たない言葉に直して、来年の数字を守る準備をした。
どこに“乱し”がありますか。来年の数字を守るための段取りです。畑の法ですよ」
沈黙。
ハルトマンは机の端を、指で三度、こつこつと叩いた。
「……お前の“法”など、法ではない。法とは、印璽と署名だ」
「違います。法は、誰が読んでも同じ意味で動くための言葉です。印璽は、その責任を示すためにある。逆じゃない」
「無礼者!」
今度は執事の声が鋭かった。「貴族相手に――」
「貴族相手じゃなく、法相手に話してます」
俺は遮った。
「“理の国”だと言うから、俺は理を出しました。農の理です。もし“法の国”だというなら、法で返してください。気分や面子じゃなく」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
ハルトマンの目が冷え、笑みが消える。
「――よろしい。お前の望みどおり、法で処す。査問の手続きに付し、留置とする。期間は三日。帝都への報告を上げる。お前の言う“理”が帝都で通るか、見物だな」
兵が二人、扉口に立つ。手枷は出されない――その配慮が“法の体裁”のつもりなのだろう。
立ち上がる瞬間、俺はもう一度だけ口を開いた。
「……畑は、待ってくれます」
「なんだと」
「あのあたりの畑は、もう俺がいなくても回るように耕しました。法で裁くなら、裁いてください。俺は逃げません」
ハルトマンは答えず、ただ顎を引いた。
廊下は冷たく、窓は狭く、石の匂いが強い。
留置部屋は地下の一角。乾いた藁束と木桶、水差しがひとつ。格子の向こうに、小さな明かり。
兵が鍵を回す音が、土を打つ雨のように乾いて響いた。
扉が閉まり、静けさが落ちる。
俺は壁に背を預け、掌の泥を見た。霧灰の朝に握り込んだ、あのひとかけ。
鼻先へ持っていくと、ほんのわずかに甘い匂いがした。
(堆肥は生きてる。畑は呼吸してる。――理は外にある)
「ツチダ」
格子越しに、若い兵が囁いた。
さっき、目を伏せたやつだ。
「……“根は呼吸する”って、ほんとうか」
「本当です。水に道を作ってください。雨の前に溝を一本。お前の家の畑にも」
兵はこくりと頷き、足音を忍ばせて離れていった。
石壁の冷たさは変わらない。
けれど、胸の奥は不思議と温かかった。
(法で来るなら、法でやろう。土みたいに、順序で話せばいい)
遠く、上階の廊下で靴音が止まり、低い声が交わる。
「帝都へ報せを」
「巡検が近い。万一、街道で殿下に……」
言葉は壁に吸われ、砕けて消えた。
俺は藁に身を横たえ、目を閉じる。
暗いまぶたの裏に、七か条の板がゆっくりと立ち上がった。
1.土は急がせない――三日。
2.水に道をつくる――道はもう付けた。
……そうだ。道はもう、土にも、人にも。
格子の外で灯が揺れる。
霧灰の朝は終わり、ゆっくりと、次の色へとほどけていく。
理と法の間に挟まれたこの石壁で、俺はまた、次の耕し方を考え始めた。




