霧灰の朝、土を背に
早いもので、この世界に来て二度目のネーベルグラウが来た。
霧灰季――空は底の見えない灰でふさがれ、音は柔らかく丸まって返ってくる。夜明け前の村はしっとり濡れ、粉挽き小屋の水車だけが、暗がりの中でゆっくり息をしていた。
囲炉裏の脇で、昨日積んだ堆肥に手を差し入れる。ぬくい。生きている温度だ。
三日後に切り返し――と指折り数えてから、観察ノートに一行書き足す。
堆肥:今朝も甘い匂い。切り返し予定=三日後
ページを閉じかけたとき、外で蹄の音が霧を裂いた。
――来たな。
戸板が強く叩かれる。
「開けよ。アルベルスベルク伯爵家、徴税監吏ハルトマンだ」
俺は火に蓋をしてから立ち上がった。戸を開けると、灯籠の明かりに濡れた槍の穂先と、墨のように黒い目がいくつも並んでいる。書記官が一歩出て、巻物を開いた。
「ツチダと名乗る者。偽奇跡の嫌疑あり。油の無許可製造、賦課基準攪乱、住民教唆――拘束の上、査問に付す」
言葉はよく通る。霧ごしでも、刃物みたいに意味が切れて届いた。
背後で、子どもが小さく息を飲む音がする。
「抵抗すれば連座を適用する」
兵が一歩前へ出る。霧の縁で、村長の肩がわずかに震えた。
俺は掌を上げて、皆を制した。
「行きます。ただ、ひとつだけ」
視線が一斉に集まる。俺は土間に膝をつき、靴底の泥を親指で丁寧に払い落とした。
「畑の土を、館の床に落とすのは嫌なんで」
誰かが、小さく息を呑んだ。
笑いじゃない。胸の奥に落ちる、重たい音だ。
縄が差し出される。冷たい。けれど、俺は顔を上げた。
「村長」
「……おう」
「堆肥は三日待ってから切り返し。芋は“三つの掟”――緑は捨てる、暗い所、少量・慎重・記録。油は人肌で“待つ理”。塩は祝いにだけ使う」
「承知した」
「溝は雨の前に一本、深く。根は呼吸する。粉屋とは“夕方交替”を続けてください。水車は喧嘩しないから」
村長の横で、若い父親が泣きそうな顔をしていた。
俺はその男の方を向く。
「香り油は焦がさない。酸い汁は欲張らない。……腹の理を痩せさせないこと」
「……はい」
外套の下から、観察ノートを取り出す。
表紙には炭で大きく「畑観察ノート」。最後のページは、昨日のまま拙い字で止まっていた。
理は、独占すれば濁る。分ければ澄む。
俺はノートを閉じて、村長の孫の手にそっと押しつける。
「持っててくれ。写しはもう村に広がってる。でも、これは“最初の畑”の記録だ。火のそばに置くなよ」
「う、うん……」
ハルトマンが短く咳払いをした。
「無駄口はそこまでだ」
俺は頷き、戸口を振り返る。
柵の向こう、拙い帝国文字の看板――〈ツチダ〉が霧ににじんで見えた。
その下の小さな板、〈油は川と林の恵み。塩は祝いの恵み。〉も白く浮かんでいる。
指先に残った泥を握って、そっと胸にしまった。
縄が手首に回る。
「色が見える、という噂――」ハルトマンが俺を値踏みするように見た。「神聖国の魔術師ではないのか」
「魔術は使えません。土の“機嫌”が見えるだけです。……それを、見えなくてもできる手順に直して配った。それが罪なら、俺より先に土を捕まえてください」
兵の一人が、わずかに目を伏せた。
ハルトマンは鼻で笑う。
「口が回るな。道中で舌の根が乾かぬよう、祈ってろ」
外に出ると、霧の冷たさが一気に頬に刺さった。
視界の端で、七枚の板切れ――“七か条”が畦ごとに立っているのが見える。
(去年のネーベルグラウは、知らない天井で目を覚ました。今年は、置いていくものがある)
馬車へ向かって歩く。
村人たちが道の両脇に並び、誰も声を荒げない。誰かがすすり泣き、誰かが歯を食いしばる。
俺は一人ひとりに、短く頷いた。
「字は、続けてください」
「うん!」
「堆肥の棒は、毎朝抜いて温度を見る」
「やる!」
「油はゆっくり。焦らない」
「わかってる!」
足をかける前に、もう一度だけ振り返る。
霧の中で水車が小さく軋み、薄金色の油壺に布が掛けられているのが見えた。
(鍬はここに置いていく。代わりに、言葉を握る)
馬車が軋んで動き出す。霧を切る音と、蹄のリズム。
村長が一歩前に出て、兵の間から声を飛ばした。
「ツチダ殿――春に、また種を播けるようにしておく」
「頼みます」
胸にしまった泥が、ほんの少しあたたかい。
村の角を曲がる。看板の〈ツチダ〉が見えなくなる直前、子どもの甲高い声が霧を突き抜けた。
「ツチダさーん!“理は独占しない”だよねーっ!」
「そうだ!」
馬車が霧の向こうへ出る。道は湿り、草は伏し、空はまだ白んでいない。
――去年の俺は、ここで終わっていた。
今年の俺は、ここから始める。
耕す相手が、土から人へ変わるだけだ。
俺は目を閉じて、霧の匂いを深く吸い込んだ。
胸の奥に、畑の脈が、まだ確かに打っている。




