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異世界転生農家  作者: 今無ヅイ
農家漂着編
14/41

伯爵の机上、薄金の野心

マクシミリアン=エルンスト・フォン・アルベルスベルク伯爵は、羽根ペンを指先で転がしながら、上から三枚目をもう一度めくる。


――納税、滞りなし。


小麦七公三民、雑穀六公四民。数字は美しい。

美しいが、肝心の欄が一つ、ぽっかりと空白だった。


「人夫、供出数……未達、か」


伯爵は舌打ちを飲み込み、鼻で息を吐いた。

戦そのものは今、膠着している。だが、膠着しているからこそ“後ろの働き”が数字になる。

後方で土を運ぶ人夫も、塹壕を掘る人夫も、台帳の端では同じ黒い小さな○で表される。


その○が一つ増えるだけでいい。

その一つが、自分を内乱後の「冷や飯食いの席」から押し出す足がかりになる。


――理は支配者のためにある。


父の言葉が、頭の底でゆっくりと反芻された。

扉を叩く音がする。


「入れ」


徴税監吏ハルトマンが恭しく入ってきた。肩章の金糸が、わずかに揺れる。

「伯爵閣下。件のレイト村の件、追加の聞き取りが整いました」


伯爵が顎で続きを促すと、ハルトマンは一歩進み、手短に報告した。

「領民の納税は、現状問題ございません。数字の上では、美しい限りです。ただ――人夫を出せぬと口を揃え、供出枠が埋まりませぬ」

「理由は」

「問いただしましたところ、『村の腹を守るために芋を作り、油で食わせる術を教わった』と」


伯爵は片方の眉をわずかに上げた。

「誰に」

「ツチダ、と名乗る男です。漂着者。『色が見える』などと言い、村々に炭の字で書いた紙を配っております」


伯爵は羽根ペンを止めた。


「色、だと」

ハルトマンは淡々と続ける。

「『魔素』『色元素』などが見えると申し、『ぴーえいち』『リン』『窒素』などと唱え、民を惑わせている様子。偽奇跡の嫌疑、十分かと。加えて――」


「加えて?」


「油の無許可製造。粉挽き小屋の水車を転用し、防風林の木の実から油を圧搾しております。油は都市商会の専売領域。村レベルの勝手搾りは、前例がありません」


「ふむ」


伯爵は顎に手を当て、短く唸った。


「芋はどうだ」

「家畜飼料と定められた芋を、人に食わせております。『掟を守れば毒は避けられる』と。……賦課基準を乱す行為、であります」

「賦課が乱れれば、来年の数字が立たぬ」


伯爵は小さく言い、薄く笑った。

「私の数字も、だ」


ハルトマンが机の端に、一冊の薄汚れた紙束を置いた。

縄で綴じられ、炭の字がぎっしり並んでいる。村から没収したという“ツチダの冊子”だった。


『麦→豆→芋→麦』

『塩は祝い、平日は香草と酸』

『理は独占しない』


伯爵は最後の一行で手を止めた。

「……くだらん。理は独占するから理だ」

吐き捨てるような言葉。

だが、冊子を机に叩きつけることはしない。激情は数字を狂わせる。


彼は静かに紙束を伏せると、顔を上げた。

「ハルトマン」

「はっ」

「まず、噂を止めろ。炭の字の紙は集めて炊け。畦に打たれた板はすべて剥がせ。ただし、先に『配り歩く口と足』に縄をかけるな。頭を押さえろ。レイト村の男、ツチダ――夜明け前に拘束しろ」


ハルトマンの目がわずかに光った。


「罪状は、いかほどに」


伯爵は新しい紙を引き寄せ、羽根ペンで滑らかに文言を書き連ねていく。

――偽奇跡の嫌疑(色を見るなどの奇説をもって民心を惑乱)

――油の無許可製造(専売権侵害)

――賦課基準の攪乱(家畜飼料の人用転用、輪作による収穫調整の企て)

――住民教唆(炭書文書の配布による秩序撹乱)


「これを査問状として読み上げろ。抵抗があれば、連座を匂わせよ。村全体にだ。ただし、刃傷は避ける。血は台帳を汚す」

「はっ」


ハルトマンの声はよく通った。伯爵は、ふと口元を歪める。


「縄をかける前に、村長の前で炭の字の束を掲げろ。そして言え――『これは異端文書だ』とな」

「……異端、でございますか」


「神聖国の猿真似で構わん。あやつらは“色を見る”巫女だの何だので愚民を縛っている。『敵国の魔術師の嫌疑』をひとつ乗せてやれば、民は勝手に口を閉じる」


ハルトマンの頬が、わずかに持ち上がった。

「御意」


伯爵は椅子にもたれ、指先で机を二度、軽く叩いた。

「それと、人夫の件だ。ツチダを引き立てる折、村に“餌”も置いてこい。『今年の人夫納付は一部猶予する。代わりに、十五から五十の男女の中から十名を後方へ出せ』――と」

「恩と恐れを、同じ皿に、でございますな」

「そうだ。恩だけでは舐められる。恐れだけでは背を向けられる」


ハルトマンは短く笑い、すぐに表情を消した。


「街道の検問はいかがいたしましょう」

「通行証を出す。……ただし」

伯爵はほんの少しだけ言い淀む。


「帝都からの巡検が近い。皇女クローディア殿下が地方視察に出ていると聞く。街道で鉢合わせしたら、条文で立てよ。『地方専売の侵害』『賦課基準の攪乱』『領主査問権の行使』――理の言葉を並べれば、殿下も簡単には刃を抜くまい」

「承知しました」


ハルトマンが踵を返しかけ、ふと振り向く。

「……僭越ながら、閣下。これは、小さな功績に?」

伯爵は、口だけで笑った。目は冷えたままだ。

「お前の台帳にも○が付く。私の台帳にも、だ」

徴税監吏が去ると、執事が黙って窓を開けた。

夏の名残を含んだ風が入り込み、紙の端をさらさらと揺らす。


伯爵は一人になり、塔の最上階から遠くを眺めた。

レイト村の方向に、薄金色の海が広がっている気がする。

麦の色ではない。噂という名の、軽くて燃えやすい光だ。


「火は油でよく燃える」


彼は小さく独り言を落とした。

「ならば、その油をこちらで持てばいい」


再び羽根ペンを取り、今度は領内回覧用の短い命令文を書く。


――粉挽き小屋の管理権、当面のあいだ伯爵家に一時移管。

――防風林の実の採取権、許可制とする。

――油壺の売買、市壁内の指定商会に限定。

――芋の作付け、試験区画申請制。未申請分は家畜飼料扱いとみなす。


「理は支配者のためにある」


もう一度、心の中でゆっくりと繰り返す。

理想や祈りは、民の器に入れておけばよい。

為政者が握るべきものは、数字と印章と、時。

伯爵は印璽を押し、蝋を垂らし、封をした。


夜が、静かに深くなる。

机の端の薄冊子――ツチダの炭の字を、彼は最後にもう一度手に取った。

『理は独占しない』の行を親指で押さえ、しばし黙する。


やがて、冊子を引き出しの中にしまい、鍵をかけた。


「独占しない理は、法が独占する」

小さな呟きは、厚い扉に吸い込まれて消えた。

塔の下では、石畳に蹄の音が集まり始める。

夜明け前の冷たい空気の中、ハルトマンの一隊が門を出た。


伯爵は窓辺で目を細めた。

薄闇の向こう、村の方角に小さな灯がまたたく。

それが役所の灯か、ただの農家の灯か――彼にとっては、どちらでもよかった。


今、必要なのはただ一つ。査問へ向かう灯だけだった。

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