芋と油と、腹の理
収穫季――
空は高く、陽は傾きながらもまだ力強い。
麦の海は風にゆれ、鎌が鳴り、束ねた穂が畦に積まれていく。
ツチダは列の端で、汗をぬぐいながら声をかけた。
「株元は深く刈らないで。もっと上、そうそう。根は残して、納税しない草や根は畑に戻す。人の腹に入らないぶんは、土のごはんに戻すんだ」
村人たちは最初こそきょとんとしていたが、すぐに頷き、刈り方を調整していく。
刈り株と雑草を別の山に集め、戻す人、運ぶ人――作業の流れが、少しずつ“理に沿った形”に変わっていった。
収穫の合間、ツチダは堆肥場へ向かう。
「藁はこっち。家畜の糞はその上。灰と落ち葉も重ねて……はい、水を少しだけ」
藁 → 家畜の糞 → 灰 → 落ち葉 → 少しの水。
層を重ねるたび、足でぐっと踏み固める。
山の真ん中に棒を一本突き刺すと、子どもたちが目を丸くした。
「おじさん、それ、何してるの?」
「明日の朝、この棒を抜いたときに教えるよ。
棒があったかかったら、“発酵は生きてる”って合図だ」
「生きてるの?」
「そう。目に見えない小さいやつらが、ここでごはん食べて、働いてるんだ」
その日の夕方、畑には黄金色の束が並び、堆肥場には新しい山ができていた。
「焦って畑に入れない。しっかり発酵させてから戻す。匂いが甘くなったら合格です」
ツチダがそう言うと、周りの大人たちも真剣な顔で頷いた。
納める穀は納める。
それは、この国の“数字の理”だ。
だが、土の回復は待ってくれない。
ツチダは、暮れなずむ畑の真ん中で、次の一手を考えていた。
小麦も雑穀も課税対象。
豆も六公四民。家畜の飼料に回す分ですら、軍馬の餌として数えられる。
(ならば――税のかからない“腹の分”を探すしかない)
頭の中で、前の世界の作物が次々と浮かんでは消えていく。
米はこの寒さではつらい。サツマイモは土と気候が合わなそうだ。
(いも類はどうだ?この世界の芋は……あれ?)
ツチダは、ここに来てから一度も「ジャガイモ」を食べていないことに気づいた。
その夜、村長の家。
収穫のささやかな打ち上げの席で、ツチダはさりげなく尋ねた。
「そういえば、この村では“芋”って、どんな種類を育ててるんです?」
「芋か。山芋と、すこしばかりの根菜くらいじゃな。あとは……家畜の餌にする“ジャガイモ”くらいかのう」
村長ハンスの眉が、わずかに寄る。
「ジャガイモは毒がある。食うのは家畜だけじゃ」
(やっぱり、そういう認識か)
ツチダは静かにうなずき、指を一本立てた。
「たしかに、芽と、緑色になった皮には毒があります。でも、白い身は“処理次第で食べられる”んです」
囲炉裏の火がぱち、と弾ける。
村人たちが、湯気越しにツチダの顔をじっと見ている。
「やるなら、こうです――
① 暗い場所で保管。光に当てない。
緑になったものは、その時点でぜんぶ捨てる。
② 厚めに皮をむいて、芽を深くえぐる。
苦かったり、変な匂いがしたら食べない。
③ まずは少量をゆでて、大人が味見。
違和感があれば、その場で全部捨てる」
ツチダは、言葉を選びながら続けた。
「水にさらしたり、火を通したりしても、“全部”は消えません。だからこそ、緑や苦みは“危険の合図”だと思ってください。そこだけ守れば、食べられる芋も増えます」
しばし沈黙。
命の話だ。誰も軽々しく頷かない。
最初に口を開いたのは、村長だった。
「家畜の餌なら税はかからぬ」
ゆっくりと言葉をかみしめる。
「……食うぶんは、“餌の味見”ということにしておこうかのう」
部屋の空気が、少しだけ和らいだ。
くすりと笑いが漏れ、しかし真剣な雰囲気は消えない。
「いきなり広く作るのはやめましょう」
ツチダは念を押した。
「まずは小さい一角を試しの畑にして、そこでだけやってみる。
“少量・慎重・記録”。これは守りましょう」
翌日、ツチダは北東の畦を切り分けた。
土を高く盛り上げ、芋に光が当たらないように土寄せ(培土)を厚くする。
これまで家畜の餌として放り出されていた芋の中から、苦味の少ない株を選び、タネ芋に回した。
「ここは“芋専用”です。……看板、立てときますか」
冗談めかして言うと、子どもたちが笑いながら板切れを持ってくる。
観察ノートには、新しいページが増えていく。
ジャガイモ:暗い場所で保管/緑になったら捨てる/芽は深くえぐる/少量ゆでて味見。
※“腹を壊した者が出たら、その場で中止”。
その隣には、来年の作付けの順番が書き込まれた。
麦 → 豆 → ジャガイモ → 麦。
豆で土を肥やし、芋で税を逃し、麦で帝国に“数字”を出す。
数字と理の両方を満たすための、細い綱渡りだ。
夜、ツチダは堆肥の山に手を差し入れた。
指先に、じんわりとした温かさが伝わる。
「……よし。生きてるな」
発酵の温度だ。
目を閉じると、土の下で緑と青の帯がゆっくり巡るのが見える。
刈り株と根、腐葉と糞がほどけ、また“土”に戻っていく光景が、頭の内側に広がった。
(来年のために、今年を食いつぶさない)
それが、ツチダの理だった。
◆◆◆
数日後。
芋専用の区画を見に行く途中で、ツチダはふと足を止めた。
「その葉、裏が白いな……」
畑のはしの防風林を見上げる。
灰色まじりの細い葉が、風で裏返るたびに白銀にきらりと光る。
枝の先には、“指先ほどの黒紫の実”がびっしりついていた。
子どもが一つ、面白半分に踏みつぶす。
足の裏がべたつき、黒い汁がじわっとにじんだ。
(このべたつきは、脂だな。葉の裏の銀色、硬い種、小さい実、強いえぐみ……)
ツチダは実をいくつか拾い、紙切れで包んで川へ持っていった。
水の中でもみ込むと、紙のまわりに薄い虹の膜が広がる。
胸の中で、何かがカチリと噛み合った。
「村長さん、この木の実、食べたりします?」
呼ばれてきた村長ハンスは、木を見上げて首を振る。
「生で噛むと苦うてのう。薪や杭には使うが、実は鳥まかせじゃ」
「これ、多分――しぼれば油になります」
ツチダは、この国の油事情を簡単に聞いていた。
油と言えば、菜種のような種からとるものか、
南の国から来るヤシの油。どちらも高くて、村の口にはほとんど入らない。
それに、この帝国は内陸の国。
塩も山から運ぶ岩塩が主で、高い。
ひとつまみが、家計を揺らす。
――油も塩も、どちらも“足りない国の味”だった。
「でも、この村には川と水車があります」
川辺には粉ひき小屋の水車がある。
昼間は粉ひきで忙しいが、夕方以降は止まっている。
「粉ひき小屋に頼んで、夕方だけ石臼を借りましょう。片方の石を実つぶし用に変えて、歯車でゆっくり回るようにします」
収穫は、木の枝を棒で叩き落とさない。
下に布を広げ、枝を「なでる」ように揺らして、実だけ落とす。
葉と小枝はふるいで分け、川水でさっと洗う。
石の槽に実を入れ、水車の回転で棒が引かれ、
重たい石臼が、ゆっくりと果実をつぶしていく。
種が割れ、つぶれた果肉から、青い香りが立ちのぼる。
「ここからは、“待つ理”です」
つぶした果肉を浅い鍋に移し、囲炉裏のそばに置く。
人肌より少し温かいくらいを保ち、火を強くしすぎない。
木べらでゆっくり混ぜ、果肉同士がなじむのを待つ。
少し粘りが出てきたところで、布袋に詰めた。
袋を板の上に並べ、上から古い梁と石のおもしで押す。
さらに、水車につないだテコで、じわじわと力を足していく。
袋の口から、薄い金色の筋が、ぽたぽたと流れ落ちた。
「……出た」
桶の中で、汁と油が二つの層に分かれていく。
夕方までそっと置いてから、上の層だけをすくって、陶器の壺に移した。
香りは青く、くどすぎない。
村人たちは、信じられないものを見るような顔で壺をのぞき込んだ。
搾りかすは捨てない。
堆肥に混ぜれば土のごちそうになり、
灯り用の油に少しまぜると、芯がよく燃える。
「……これなら、村でも続けられる」
ツチダは、小さくうなずいた。
◆◆◆
さて、油が手に入った。
次は――芋だ。
「まずは、さっき話した“芋の掟”を守ります」
ツチダは、家の土間で芋を並べながら言う。
「緑になった皮と芽は、ぜんぶ深くえぐって捨てる。
白い身だけを暗い場所で置いておく。
切ったら一度ゆでて、必ず少しだけ味を見てから」
芋を棒状に切り、水気をふき取る。
銅鍋に、昨日しぼった薄金色の油を少し注ぎ、火にかける。
「塩は“祝い”の日に。
ふだんは、香草と酸っぱさで味を作りましょう」
ツチダは畦で摘んだ香りの強い草と、すっぱい草を刻み、
少しを油に入れて、香りを移した。
油が温まるころ合いを見て、芋をそっと入れる。
ぱち、ぱち――と、みずみずしい音がした。
しばらくすると泡が細かくなり、芋の端がきつね色に変わっていく。
網杓子で持ち上げて、油を切る。
岩塩は、指でひとつまみだけ。家族みんなで分け合う。
残りの芋には、刻んだ香草をもみ込む。
子どもが一本かじった。
――さく。
「……あまい!」
つられて大人も口に入れ、思わず顔がほころぶ。
外はうすくカリッと、中はほくほく。
塩が少なくても、油と芋の甘みで、ちゃんと「ごちそう」になっていた。
村長ハンスは一本かじり、しみじみと言った。
「油の欄は、徴税の帳面にない。芋は“飼料”のまま。
つまりこれは……腹のための理じゃな」
ツチダは笑ってうなずいた。
「でも、広げるときは“少量・慎重・記録”で。
どこかで危ない感じがしたら、その時点でやめます」
観察ノートのページが、また一枚埋まっていく。
芋:暗い場所で保管/皮が緑なら捨てる/芽は深くえぐる/少しだけゆでて味見。
油:防風林の木の実 → 石臼でつぶす → あたためてなじませる → 布袋でしぼる → 上の層だけ取る。
油の使い道:芋の揚げ物/野菜のあえ物(香り油)/麦がゆにひとさじ/灯り用。
数日のうちに、夕方の村には新しい合図が生まれた。
油のはねる音。芋の揚がる音。野草の泡立つ音。
それを囲む笑い声。
「菜種油もヤシ油も、町まで行かねば買えん。わしらの口には、ほとんど入らなんだ」
若い父親が、壺の薄金色を見つめながらつぶやく。
「けど、これはここで採れる」
「木がくれた力です。川と風が押してくれました。俺たちは、“つなぎ方”を少し覚えただけですよ」
ツチダは、壺の口に布をかぶせながら答えた。
水車は夜も小さく回り、石臼はゆっくり果肉を練り、
梁は静かに布袋を押し続ける。
陶器の壺にたまった油は、月の光を飲み込んで、うっすらと輝いていた。
畑の柵に立つ、拙い帝国文字の看板――〈ツチダ〉。
その下に、新しい板が打ちつけられる。
〈油は川と林のめぐみ。塩は祝いのめぐみ〉
鍬が土を変え、水車が木の実を変え、油が芋の価値を変えた。
そして、油は遠く、塩は高い――そんな帝国の当たり前だった食卓が、
少しずつほどけていく。
“足りない国の味”は、静かに、
“知恵でつないだ村の味”に変わり始めていた。




