耳を塞ぐもの、覆うもの
聖都アウルム・カテドラ 聖断の間
黄金樹を模した天蓋の下で、鐘の音が三度鳴った。
聖断の間の扉が開き、土埃まみれの伝令騎士が、よろめきながら膝をつく。
「――第一陣、アジール平野にて……敗北」
その一言で、空気が変わった。
ざわめき。
低い祈りの声。
怒りに満ちた舌打ち。
十一の椅子のうち、今ここにいる枢機卿は七名。
黄金と白と紅の法衣が、円卓の周囲で濁流のように渦を巻く。
クロエ・ベネディクトは、その一角で静かに目を閉じた。
(――負けた、か)
「詳報を述べよ」
重い声が落ちる。
神聖国正規軍を率いる軍権省。剣の枢機卿、ベリアル・サルマティウス。
屈強な体躯。
他の枢機卿とは違う、戦場の匂いを纏った男。
「はっ……!
アジール平野に前進した兵は、五万前後。
山での十日間の消耗により、正規兵は戦列に立てた数が落ち、
代わりに贖罪兵団が前に押し出されました。
その贖罪兵団が――多数、壊滅。
半数以上が戦死、ないし行方不明。
神聖騎士団・浄化師団も前線部隊が大損害を受け、
現時点で“まともに戦える”戦力は一万を割ります……!」
「五万をもって異端の一軍すら下せぬとは!」
「まだ後続はある! 数で押し潰せばよいものを!」
怒声と祈りの言葉が入り混じる。
クロエは指先で椅子の肘掛けを軽く叩いた。
耳の奥で、黄金樹の根から流れる魔素の“音”がざわついている。
(土が、血を吸いすぎている。
帝国側の“理”が、西の大地に爪を立てている音がする)
「ユリウス・マグナデリウスは?」
老枢機卿が問う。
伝令は、顔をこわばらせた。
「……生きて戻りました。
帝国の『魔力砲』とやらの初撃で、御輿を破壊されましたが……
命に別状はなく」
「ならば敗北の責もまた、生きて負うことになる」
鎖の枢機卿が冷たく言い切った。
「ユリウスはその任を解く。
異端審問庁へ引き渡し、浄火の儀に付すべし」
円卓の空気が、一瞬だけ軽くなる。
誰かを火にくべれば、失敗そのものが消える――そう信じたい者たちの顔だ。
だが、クロエの胸の奥では、何かが小さくきしんだ。
(ユリウスを焼いたところで、
帝国の『理』という計算式が消えるわけではありませんのに)
「では、次は誰が行く」
鎖の枢機卿の問いが落ちる。
その瞬間、ベリアル・サルマティウスが椅子を押し、立ち上がった。
「このベリアルが行こう。
帝国とやらの“理”――その正体を、この目で見ておきたい」
ざわめきが、別種のものに変わる。
「枢機卿自らが出陣するのか?」
誰かが、半ば信じられないという声で問うた。
ベリアルは、笑わなかった。
ただ、剣のように言葉を抜く。
「他に誰が行く。
本陣で震えて祈るだけの置物なら
――もう足りている」
円卓の何人かが、息を呑んだ。
そして同時に、ほんのわずかな安堵が混じる。
“あの男が行くなら、勝てるかもしれない”。
だが、その安堵の裏に、別の計算も走る。
――ベリアルが勝てば。
剣の枢機卿が、次の座を欲しがらぬと誰が言える。
「私が必要とするのは、
私自身の手で選んだ“命令が通る精鋭”五千のみだ。
前線の兵は、私が立て直す。
贖罪兵団も、残存兵も――私が使いこなしてみせよう」
鎖の枢機卿が、指を組んだ。
しばし沈黙。
そして、許可の言葉が落ちる。
「――よかろう。
剣の枢機卿ベリアル・サルマティウスに、
前線指揮の権限を与える。
帝国を裁け。
神の名の下に、“勝利”を持ち帰れ」
賛同の声が、遅れて波のように広がった。
クロエは黙ったまま、黄金樹の根から上がってくる魔素の“音”を聴く。
帝国の砲声。
贖罪兵団の悲鳴。
山脈を越えて交わる“理”の衝突。
そのすべてが、聖都の理を蝕み始めていた。
(ベリアル……
あなたは敵の強さを理解している。
けれど、帝国は――あなたが知る“異端”とは根底から違う存在ですよ)
ユリウスの失脚。
そして「剣の枢機卿」の出陣。
神の名の下に積み上げられた「勝利の予言」が、
帝国という異質な“計算”に、少しずつ食われ始めていた。




