平野に響く咆哮
黒い帯が、平野を埋めていく。
アルメル山脈の麓から、神聖国軍第一陣がアジール平野へと雪崩れ出てくるのを、グライフェンタールは土塁の上から黙って見ていた。
先頭は薄汚れた麻布をまとった群れ――贖罪兵団。
槍と呼ぶにも心もとない棒切れを握りしめ、裸足で土を踏みしめながら進んでくる。
その背後には、黄金と白銀に光る騎士団の列が続いていた。
「敵先頭、距離八キロ」
測量係が、魔導測距器から顔を上げる。
「……推定、贖罪兵団三万。騎士・歩兵あわせて二万です」
「山を抜けるまでに、よくもまあこれだけ残したものだ」
グライフェンタールは低く呟いた。
十日間の山岳戦で日鴉猟兵隊に削られたはずの軍勢は、それでもなお黒い絨毯のように広がっている。
だが、山と違い、ここは平野だ。削る手段はこちらにもある。
「魔力砲、装填完了しております」
背後から砲兵隊長の声。
「前進してくる敵に対し、いつでも斉射できますが――」
「まだだ」
グライフェンタールは首を振った。
「撃つ前に、奴らは必ず“何か”をしてくる」
神聖国が、黙って兵だけを前に出すことはない。
必ず、神の名のもとに宣言し、自分たちの行いに“祝福”の形を被せたがる。
それは彼の知る神聖国の戦い方であり、同時に、帝国にとって利用すべき隙でもあった。
黒い波はじわじわと近づき、五キロほどになったところで、ふっと止まった。
前列の贖罪兵団が二、三歩後ずさる。
代わりに、その中から奇妙な一団が前へ出てきた。
「……御輿だと?」
隣にいたオイゲンが、目を細める。
贖罪兵団の男たちが八人がかりで担ぐ黄金の御輿。
その上に、丸々と肥えた男が乗っていた。
全身を黄金の法衣で包み、手には同じく黄金の錫杖。
遠目にも、息が荒いのが分かる。
御輿はふらふらと揺れながら、じりじりと前に進んでくる。
距離にして、およそ二・五キロ。帝国軍の土塁から見れば、十分に「見える」距離だ。
「測距」
「はい。対象まで二千四百――」
グライフェンタールは手を上げて遮った。
あとは目視で十分だ。
肥えた男は、御輿の上で錫杖を喉元に当てた。
次の瞬間、声が空気を震わせる。
『――聞け、異端の徒どもよ!
我は枢機卿ユリウス閣下が名代、神聖なる意志を運ぶ者である!』
錫杖に仕込まれた増幅魔術が、男の声を何倍にも膨らませて平野に響かせた。
後方の贖罪兵たちがざわめきを止め、黄金の騎士たちが一様に頭を垂れる。
『ここに告げるは、神聖黄金国枢機卿団からの神託である』
胸を張った体が、法衣の腹をたぷんと揺らす。
『武器を捨てよ。
穢れた火と、穢れた種族(日鴉)を引き渡せ』
日鴉の子どもたちの顔が、グライフェンタールの脳裏をかすめる。
『さもなくば――』
使者の目がぎらりと光る。
『帝国全土を、その土、その民、その穢れた理までも――
すべて浄化し尽くす、世界浄化を行う!』
背後で、神聖騎士団が一斉に盾を叩いた。
金属音の嵐が、アジール平野にこだまする。
信徒たちの熱狂が波のように広がる。
「浄化せよ!」という純粋なまでの殺意の声が、黒い津波となって帝国軍の土塁に押し寄せた。
グライフェンタールは、一度だけ目を閉じた。
そして、短く息を吐く。
――予想通りだ。
こちらに選択肢を与えるふりをして、実際には「服従か滅亡か」の二択しか差し出していない。
それはもはや交渉ではなく、宣戦布告だ。
彼は副官に顔だけ向けて、静かに命じた。
「――撃て」
一言だった。
副官の顔がぴんと張り詰め、背後の丘に旗が振られる。
次の瞬間、帝国軍背後の魔力砲陣地が、唸りを上げて魔力を収束させた。
重い、鈍い爆ぜる音。
空気そのものが震え、土塁の上に立つ兵たちの胸を打つ。
砲弾は放物線を描き、断崖の陰をかすめて、まっすぐに黄金の御輿のそばへと落ちていった。
使者が何か言葉を続けようと口を開いた、その瞬間――
白紫の閃光。
地鳴りのような爆音。
御輿の真横の地面が、直径十メートルほどの穴を穿って弾け飛ぶ。
土と砂利と、人の体が、混ざり合って空に舞い上がった。
担ぎ手の贖罪兵たちは、悲鳴を上げる間もなく吹き飛んだ。
御輿は横転し、黄金の箱のようなそれがごろごろと地を転がる。
ユリウスの名代たる使者本人も、中身の詰まった袋のように転がされ、真っ白な法衣を泥で汚しながら地面に叩きつけられた。
帝国側の土塁の上で、兵たちの息が一瞬止まる。
次の瞬間――
「やったぞ!」
「いいぞ、魔力砲!」
あちこちから笑いと歓声が上がった。
グライフェンタールは、泥にまみれて錫杖を探す使者の無様な姿を冷ややかに見下ろした。
(……聖なる威光も、土煙の前ではこの程度か)
彼は、兵たちのざわめきを押し上げるように声を張る。
「全軍、聞け!
神聖国は、今の一撃で何を悟ったと思う?」
誰も答えない。
彼は、ゆっくりと言葉を続けた。
「――ここは帝国だ」
短く、それだけ。
その一言の中に、「ここから先は通さない」という意思と、「日鴉を渡す気はない」という宣言を込める。
槍の石突きを地面に打ちつける音が、一人、また一人と重なっていく。
カン、カン、カン――。
「来いよ!」
「ここまで来い!」
「来たれ――!」
魔法で増幅された声ではない。
兵士たちの生の声が、土塁から平野全体を包み込む。
「来たれ!
来たれ!
来たれぇ!!」
それは、自分たちの理を世界に刻みつけるための咆哮だった。
グライフェンタールは、その声の中で静かに息を吸い込む。
(さあ――来い。
帝国の牙が、どれほど鋭く研がれているか。
その身で確かめるがいい)
アジール平野を挟んで、帝国と神聖国の戦争は、真に始まりを告げようとしていた。




