夏の査察(ゾンカム)
日頂季――。
陽は高く、空はどこまでも白く眩しい。
風は乾き、土の表面をさらさらと撫でていく。
畑の麦は光を吸い込み、青から淡い黄緑へ、そして乳熟へと向かっていた。
「ツチダ」の看板が立つ柵の内側では、穂が揃い、畝は真っ直ぐ。
風が吹くたび、一面に同じ方向へと波が走る。
「……よし、出穂は悪くない。穂数も、株の力も十分」
ツチダは、一本の穂を手に取り、指先で軽く撫でた。
籾の膨らみ具合、茎の太さ、根元の色――
それらを確かめるたびに、彼の目には土の下を流れる光の帯がちらりと見える。
(冬を越えた微生物の層も、ちゃんと働いてる。あとは、収穫まで天気が大きく崩れなきゃ……)
その朝、村はいつもと違う音で目を覚ました。
――ドドドドド。
村道の方角から、馬の蹄が土を叩く重い音。
しばらくして、青銀の軍外套を羽織った一団が土煙を上げて現れた。
先頭の男が馬から降りる。
革表紙の台帳を脇に抱え、靴底で土を払う仕草が妙にゆっくりしている。
肩章には伯爵家の紋――二本の角を模した意匠が銀糸で縫われていた。
「マクシミリアン=エルンスト・フォン・アルベルスベルク伯爵家、徴税官ハルトマンだ。収穫見込みの査察に来た」
広場に集まった村人たちの前で、男は淡々と名乗った。
その声音には高慢さも怒気もない。ただ、冷たい事務処理の気配だけがある。
村長が慌てて前に出て、深々と頭を垂れた。
徴税官は、ごく自然な足取りで畑へ向かっていく。
柵をくぐり、地面を一巡し、穂数と株間を確かめ、土の表面をつま先で押し、鼻で笑った。
「ふむ。ここは豊作だな。……とりわけ、この“ツチダ”という区画。揃いが良い」
村人の胸が、少し誇らしく膨らむ。
冬の間、雪かきの合間に堆肥を運び、春先には皆で畝を刻み、種を播いた。
それを認められたような気がして、誰かが小さく笑い声を漏らす。
ツチダは黙って土に指を差し入れ、根の湿りを確かめていた。
指先に伝わるひんやりとした感触。
土の中をめぐる緑の帯は、まだ枯れていない。
(……よく育ってくれてる。だけど、これが今から“誰かの数字”に変わるのか)
徴税官は台帳を開き、さらさらと羽根ペンを走らせた。
やがて顔を上げ、村人たちを見渡す。
「戦況は芳しくない」
その一言で、空気がぴんと張り詰めた。
「西部山脈の向こうで、神聖国とさらに激戦が続いている。ゆえに帝国軍は兵糧を増やす必要がある」
(また戦かよ……)
誰かの心の声が、その場の全員の胸の内で共鳴したようだった。
「今年の小麦は、従前どおり七公三民」
――ざわり、と小さな波紋が走る。
村人たちは顔をしかめたが、その数字は覚悟していたものだ。
ひどいが、今さら驚きはしない。問題は、その先だった。
「加えて、雑穀――粟・稗・燕麦、豆類も六公四民で課す。家畜飼料に回す分も含む」
その場にいた全員の喉が、同時に凍りついた。
冬の寒さではなく、夏の日差しの中でぞわりと背筋が冷える感覚。
「ま、待ってくだされ」
村長が一歩前に出る。
足が小刻みに震えているのを、ツチダは横から見て気づいた。
「豆は、土を肥やすために輪作に組み込んでおりまして……それまで税で取られてしまっては、来年の麦が……」
「帝国法は畑の都合を問わぬ」
徴税官ハルトマンは、感情の欠片もない声で返した。
「納められぬ家は、人夫を出せ。戦場後方――輜重と築城に従事。男女を問わず、十五から五十まで」
広場のどこかで、小さなすすり泣きが上がる。
子を抱いた女の腕が、きゅっと強く締められた。
「こんな……」
若い父親が拳を握りしめる。
怒鳴り出したい衝動を、歯を食いしばって飲み込んでいるのが分かった。
ツチダは、一歩前に出た。
「査察官殿」
革靴の先が、わずかにこちらを向く。
ハルトマンの灰色の瞳が、初めて真正面からツチダを捉えた。
「この畑は、土を立て直して、ようやくここまで来ました。豆を削れば、来年は麦が痩せます。帝国の兵糧も、先細りになる」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
胸の中では、別の理が静かに燃えている。
「お前がツチダか」
ハルトマンは興味なさげに肩をすくめた。
「先のことは宰相府の計算が決める。わたしの台帳に必要なのは“今年の数”だ。理想や祈りではなく、数字だ」
(数字の理、か)
ツチダは短く息を吐いた。
この国が“理の国”と呼ばれる、その片側の顔が、今目の前にある。
「では、数字で話しましょう」
彼は一歩、ハルトマンに近づく。
村人たちの視線が、一斉にツチダの背中に集まった。
「六公四民で豆を削れば、輪作が崩れます。土の呼吸が浅くなり、微生物の層が痩せる。結果として、来年の収量比は――少なく見積もっても二割は落ちます」
「根拠は」
「この半年、毎日土を見てきました。雪の下の温度、解氷季の水の流れ、春の根張り。……あなたには見えないでしょうが、俺には“見えたもの”があります。それを言葉と数字にしただけです」
徴税官の眉が、わずかに動いた。
沈黙。
後ろに控えていた兵たちも、ちらりとこちらを見る。
やがて、ハルトマンは小さく息を吐き、視線を台帳へ戻した。
「――嘆願は受理した。記録には残す。だが、法はすぐには動かぬ。納期までに“数”が揃わねば、人夫だ」
それだけ言うと、ペン先をカチリとインク壺に戻した。
蹄鉄が鳴り、一団は踵を返して来た道を戻っていく。
残されたのは、夏の眩しさと、ひどく冷たい通達だけだった。
村長が膝に手をつき、空を仰ぐ。
「……すまぬ、ツチダ殿。わしには、あれ以上、なにも……」
「謝ることじゃありません」
ツチダは首を振った。
握りしめていた拳をほどき、ゆっくりと開く。
「やることをやるだけです。俺にできるのは、ここで――一本でも多くの穂を実らせることですから」
そう言って、再び畝へ戻り、穂を一つ手に取る。
指先には、土の奥でめぐる緑の帯の感触が、かすかに伝わってくる気がした。
――数字で削られる命が、ここにある。
「収穫まで、一本でも多く穂を守る」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
夏の風が走り、麦の海が大きく波打った。
理と数字がせめぎ合う大陸で、
ツチダは、土の側に立つと決めたのだった。




