会戦前夜
アジール平野の風は、夜になると冷える。
土塁の外側に張り出した壕から、湿った土の匂いが上がってくる。松明の火が揺れるたび、逆茂木の影が長く伸びて、まるで地面そのものが牙を剥いているように見えた。 グライフェンタールは本陣の幕舎へ戻り、机上の地図を指で叩いた。
日鴉猟兵隊が命を削って山で稼いだ「十日」という時間が、この平野を“要塞”に変えた。
そしてその間に、反撃の牙となる人々も集まった。
「シャイロック伯の重装騎兵。後続に弓兵と工兵の到着も確認しました。
……帝都からの馬車列も、まだ続いています」
参謀オイゲンが、淡々と報告する。
幕舎の外では、到着したばかりの馬の嘶きが響いていた。蹄の音が止まらない。荷車が軋む。土の上を走る車輪の音は、ただの騒音ではない――兵站の脈動だ。
「最初にここへ来た時は、歩兵一万五千、騎兵三千。それだけで受ける気だった」
グライフェンタールが低く言うと、オイゲンは答えなかった。 そこへ、幕舎の入口が開く。外の冷気と、鉄の匂いが流れ込んだ。
「グリュック・フォン・シャイロック。遅参、失礼いたします」
入ってきたのは、甲冑の男だった。黒鉄の胸当てに、馬鎧の擦れた痕。戦場の泥をまとったまま、しかし背筋だけは崩れていない。
「シャイロック伯――お越しいただき感謝する」 「感謝など。勅命により、帝都が燃えぬために義務を果たしに参った」
シャイロックは短くそう言って礼を済ませた。言葉数は少ないが、眼は鋭い。老獪というより、冷静な武人の眼だ。
続いて、幕舎の外から別の気配がした。今度は――一段、空気が張る。
「グライフェンタール伯。オイゲン子爵。ご苦労さまです」
青と銀のマントを翻しながら、クローディアが入室した。 グライフェンタールは椅子を引かず、立礼だけで迎える。
「殿下、前線へお越しとは」 「近衛を会戦に組み込みます。……それと」
クローディアは視線を地図に落とし、土塁線と壕の位置を確かめるように指先を滑らせた。
「ツチダが、あなたの防衛線を褒めておりましたわ。『土の使い方が上手い』と」
オイゲンが小さく眉を上げる。 ツチダは今、後方の避難所兼野戦病院、兼兵站集積所で、事務所のような場所に籠もりっぱなしのはずだ――だが、あの男は籠もっていてもなお、勝手に“現場”へ出る。
「褒め言葉に聞こえぬのは、気のせいか」
グライフェンタールが言うと、クローディアは肩をすくめた。
「いつもの言い方です。でも、彼の土の目利きは役に立ちますよ」
クローディアが懐から紙束を出して机へ置く。土で汚れた走り書き。角ばった字。――ツチダの報告だった。
『北側の緩い窪地は**葦が混じり、**水を吸ってる。馬の足が取られる。重い騎兵を通すなら南の固い筋か、丘沿い。逆に、敵を誘導して沈ませるなら北が◯』
「……土の顔を読むのが、あいつの芸だな」
シャイロック伯が紙を手に取り、短く鼻で笑った。
「戦場を“畑”と同じ目で見ている。嫌いではない」
クローディアが答える。
「本人は嫌がってますけどね。『俺、農家なんだけどな』って」 「農家が戦争を理解したら、厄介だ」
オイゲンの乾いた一言に、幕舎の空気が少しだけ和らいだ。
だが、笑っている暇はない。地図の向こう側には、山を抜けてきた数万の“黒い波”が待っている。 グライフェンタールは、地図の中央――丘の突端を指で押さえた。
「方針は変えん。中央で受け止め、削り、そして折る」
言葉は短い。余計な装飾がない。戦争の言葉だ。
「歩兵は凸形陣。壕と逆茂木を前に置く。敵が“押し込んだ”と思ったところで、こちらが形を変える。魔力砲は敵の中央を叩いて後続を止め、弓で薄皮を剥ぐ。――そして」
グライフェンタールの指が、南の縁をなぞった。
「シャイロック伯には重装騎兵を任せる。平野の縁を回り、敵の側面、背を取る」 「了解だが、敵は数で潰す癖がある。逆に囲みに来るだろうな」
シャイロック伯の指摘は正しい。だからこそ、グライフェンタールは頷いた。
「囲みに来たら、こちらが“囲む”」
最後に、北側――丘陰へ。グライフェンタールは、そこをあえて指ささず、視線だけ向けた。
「殿下の近衛は、最初は動かしませぬ」
クローディアの眼が光る。「私は前線でも戦えます」 「だから動かさない」
グライフェンタールは淡々と言った。
「殿下の刃は、戦場の“最後の形”を決める刃。最初に振るものではございません」
クローディアは一瞬、何か言い返そうとした。だが、次の瞬間、息を吐いて頷く。
「……分かりました。近衛は私と共に待機。指揮官より合図が来たら動かします」
オイゲンが補足するように言う。
「殿下が控えているだけで、中央の兵は折れません。『皇女が見ている』というのは、理屈以上に効く」
「士気は過信しない」
グライフェンタールは即座に返した。
「士気は燃える。燃えた分、灰にもなる。……だから、燃やし過ぎない」
その言葉に、シャイロック伯がわずかに口角を上げた。
「英雄の真似はしないか。良い」 「英雄は、死んだあとにしか役に立たん」
グライフェンタールは地図を畳み、机に置いた。
「生きて帰ることが、次の戦いを生む。帝国は“次”を作らねばならん。神聖国のように、一度の浄化で終わる国ではない」
幕舎の外で、風が強くなった。土塁の旗が鳴る。
遠く、山の向こうから――鈍い太鼓の音がかすかに混じった。それは、神聖国軍が平野へ雪崩れ出る前触れの音だ。
「今夜は短い」
グライフェンタールが言う。
「明朝、敵は来る。――会戦だ」
クローディアが小さく笑った。
「……ようやく、真正面からぶつかるのですね」 「真正面でぶつかるために、山で血を吸わせた」
グライフェンタールは幕舎の入口を見た。 外は暗い。だが、その暗さの向こうで、帝国軍は牙を揃え、土を固め、槍を並べている。
「伝令。全軍に、休める者は休めるよう伝達せよ。
なるべく食って、なるべく寝ておけ、とな。夜明けには、ここが戦場だ」
誰も否定しなかった。戦争の夜明けは、いつだって平等だ。 幕舎を出たグライフェンタールは、土塁の上へ上がる。冷気が頬を刺した。
そして彼は、闇に沈んだアジール平野を見下ろしながら、静かに息を吐く。
(来い)
(帝国の牙は――もう研ぎ終わっている)
夜の底で、太鼓の音が、ほんの少しだけ近づいた。




