一服
アジール防衛線後方、避難所そばの野戦病院。
黒い翼をたたんだ日鴉たちが、次々と運び込まれてくる。
帝国兵が「救急車」と呼ぶ大きな荷馬車――
ツチダの発案だというそれは、山から降りてきた猟兵たちを丸ごと飲み込んでは、野戦病院の軒先に吐き出していく。
フレイヤ自身も、その一台でここまで運ばれた。
左腕には太い添え木。
肘から指先まで白い布で巻かれている。
右目は半分だけ開く。
金色の爆風に巻き込まれたとき、飛んできた石礫がかすめたせいだ。
視界の端に、まだちらちらと光の残像が浮かぶ。
だが――立って歩ける。
その程度で済んだのは、あの山がまだ「アタシを生かす」と決めたからだと、勝手に思うことにしている。
「隊長、ベッド空いてますよ!」
衛生係に回された若い日鴉が声をかけてきた。
白い布で仕切られた簡易ベッドが、二十ほど並んでいる。
翼を思い切り広げても眠れるように、どれも幅がやたら広い。
「いらないよ」
フレイヤは短く答えた。
「寝たいのは山ほどいる。アタシはまだ足がついてる」
「でも腕が――」
「片手でも飛べるさ。それより、あそこのガキをちゃんと寝かせてやりな」
顎で示した先には、翼を裂かれ、顔を真っ青にした若い猟兵がいた。
自分のベッドを譲ろうとしているらしく、「オレは床でいい」とかなんとか言っている。
「いいから寝ろって伝えときな。“隊長命令”って言えば、逆らわない」
「……分かりました」
渋々、といった顔で若い日鴉は頭を下げた。
フレイヤは、ベッドの列からそっと離れる。
外の空気を吸いたかった。
野戦病院を出ると、すぐ向こうに避難民たちのテントが広がっている。
それを取り囲むように、木組みの小屋が立ち並びつつあった。
さらにその外側――
開墾されかけの畑が、土色と若い緑でまだら模様を作っている。
土が起こされ、石が積まれ、小さな畝がいくつも走っていた。
帝国の農具と、日鴉の大人たちの手で、
“狩りの民”の新しい仕事が、今まさに形になりつつある。
(……畑、ね)
フレイヤは壁にもたれて空を見上げる。
山を背にして見る空は、どこか薄い。
翼を広げて落ちていくときに見た空のほうが、よっぽど濃かった。
懐に手を入れ、小さな革袋を引っぱり出す。
中身は、粗く刻んだ葉タバコ。
戦に出る前に、グライフェンタールの兵から譲り受けたものだ。
フレイヤは慣れた手付きで薄い巻紙を広げ――
そこで動きを止めた。
左腕が使えない。
添え木と包帯でがちがちに固められている。
右手だけでやろうとすると、葉がこぼれ、紙はくしゃりと寄ってしまう。
「……チッ」
舌打ちして、もう一度挑戦する。
指先だけで葉を寄せ、紙を指に巻きつけ――
今度は風に吹かれて中身が飛んだ。
「ああもう、クソっ!」
葉タバコの欠片が足元に散らばる。
「火気厳禁だ」
後ろから、妙に堅苦しい声が飛んできた。
振り向くと、ツチダが腕を組んで立っていた。
いつもの地味な服に、泥と墨と、図面のインク染みが増えている。
「……堅苦しいな、お前は」
フレイヤはタバコの紙を指先でひらひらさせた。
「山から降りてきて、ようやく一服しようと思ったらこれだよ」
「いや、ほんとにダメなんだって」
ツチダは苦笑いを浮かべた。
「ここ、野戦病院だぞ?
火の粉が布に移ったらやばいから」
「山頂で金色の爆発の中を飛んでた身からすると、紙巻き一本の火なんて可愛いもんだけどね」
「そういう問題じゃないからね?」
フレイヤは肩をすくめ、少しだけ紙を握りしめた。
右手だけではうまく締まらず、また葉がこぼれる。
見ていたツチダが、小さくため息をついた。
「貸して」
「なにを」
「その葉タバコ。片手じゃ巻けないでしょ」
「……ふん」
抵抗する理由もないので、革袋ごと放り投げた。
ツチダは慣れない手つきで紙と葉を取り、ぎこちなく巻き始める。
たぶん、吸ったことはない。
それでも両手が使えるぶん、さっきのフレイヤよりはマシだった。
「本当は禁止なんだけどなぁ」
「じゃあなんで巻いてるんだい」
「ここまでボロボロになって帰ってきた人に、“はいダメです”って言えるほど、俺も冷たくないから」
ツチダはそう言って肩をすくめた。
「……ただし、畑の端まで持っていくこと。病棟に煙が流れないように」
「命令口調だね」
「農政顧問だからね。“煙の流れ”も“風向き”も、俺の領分です」
フレイヤは、巻き上がったタバコを受け取った。
火をつける前に、手の中でふっと重さを確かめる。
「お前さんがもといた世界じゃ、こういうのには本当に厳しいんだろ?」
「うん、多分ものすごいガミガミ言われると思う」
「じゃあ、逃げるとするか」
フレイヤは立ち上がり、耕し途中の畑のほうへ歩き出した。
右足で、土の感触を確かめる。
よく起こされている。
風も、川の流れも、悪くない。
ここに種を撒けば、きっと何かが芽吹く。
山を焼かれた日鴉たちの、新しい根っこみたいなやつが。
「フレイヤさん」
背中に、ツチダの声が飛んできた。
「何だい」
「……戻ってきてくれて、ありがとうございます」
振り向かなくても分かった。
本気で言っている声だった。
「アタシが死んだら、あの山の“道案内”は誰がやるんだい」
フレイヤは軽く片手を振った。
「山も畑も、アタシらの仕事だよ。まだ終わっちゃいない」
畑の端まで歩いていって、ようやく火をつける。
煙を一口吸い込むと、胸の奥がじん、と温かくなった。
山の匂いとは違う。
土と、汗と、薬草と、
それから、これから生えるであろう芽の匂いが混じっている。
「……堅苦しいやつだけどさ」
フレイヤは小さく呟いた。
「悪くないね、あんたら帝国ってやつは」
煙をふっと吐き出す。
白い煙は風に乗って、これから耕される土地のほうへと流れていった。




