庭の鍵を閉める
山が、悲鳴をあげ始めていた。
フレイヤは岩壁に背を預け、狭い洞窟の天井を見上げていた。
そこは日鴉猟兵隊の一時拠点――サルヴァの牙の中腹にある天然の洞窟を、最低限の補修で“巣”にした場所だ。
かつては暴風をやり過ごすときに使う隠れ家だった。
いまは負傷者のうめき声と、血の匂いと、薬草を煮る匂いで満たされている。
山での戦いが始まって十日目の朝。
九日間、ここは削られ続けた。
「……翼、広げてみろ」
簡易ベッドの上で、若い猟兵が顔をしかめた。
「隊長、それ、さっきも――」
「いいから」
フレイヤはいつもの調子で急かす。
「飛べるかどうか見るのが先だ。飛べないなら、下りる段取りが必要になる」
若い日鴉は観念したように、ぎこちなく翼を広げた。
片方の風切羽が、途中でぴくりと震える。
金色の爆風に巻き込まれ、骨までは折れていないが、筋が何本かやられている。
「……まだ山の中を飛び回るのは無理だな」
フレイヤは淡々と告げた。
「でも、斜面を滑り降りるくらいはできる。下まで降りたら、帝国の医者に診てもらえ」
「……まだ、やれます。もう少しなら」
青年が悔しそうに食い下がる。
「下りたら、みんなに置いていかれる」
「置いていかれるもんか」
フレイヤは、こつんと軽くその額を指で弾いた。
「全員まとめて下りるんだよ」
青年がきょとんとした顔になる。
「……全員?」
「そうだ。山の中での猟は、今日限りでおしまい」
彼女は立ち上がり、洞窟の入口のほうへ目を向けた。
入口付近では、戻ってきたばかりの猟兵たちが、傷の手当てを受けながら矢羽根を整えている。
壁際には折れた矢と、焦げた羽根が積まれていた。
九日。
たった九日だ。
だが、その九日で山の姿は変わり果てた。
飛び移るための木々は、浄化師団の金色の爆発でねじ切られ、
隠れ家にしていた岩棚のいくつかは、丸ごと抉り取られて谷底に消えた。
こちらが崩落させた狭隘部――要所は三箇所。
けれど、贖罪兵団の“背中”が岩をどかし、木を焼き、浄化の光が道を削って、少しずつ啓開し始めている。
一方的に殺されているわけではない。
日鴉猟兵隊が与えた損害は、どう考えても相手のほうが大きい。
荷馬車は焼け、贖罪兵団は倒れ、浄化騎士も何人も矢に落ちた。
だが――こちらには、「補充」という概念がない。
日鴉の猟兵は山で生まれ、山で育った専門の狩人だ。
代わりはいない。
この九日で、すでに何人も翼を折られた。
死んだ者もいる。
フレイヤは洞窟の中央に立った。
頭上の岩から、冷たい水が一滴、落ちてくる。
「全員、聞け」
羽音と衣擦れの音が止まる。
負傷者も手当てを止めて顔を向けた。
「さっき、グライフェンタールから伝令が来た」
フレイヤは懐から封書を取り出して見せた。
「――“猟兵隊を全員、山から撤収させる”」
一瞬、洞窟の空気が固まる。
「待てよ、隊長」
古参の一人が声を上げた。
「まだやれる。押し込まれてるとはいえ、山頂までは取られちゃいない。ここで退いたら――」
「ここでアタシらが全滅したら、誰が山を取り返すんだよ」
フレイヤはきっぱり遮った。
静寂。
彼女は一人一人の顔をゆっくりと見渡した。
包帯だらけの腕。焦げた羽根。疲れ切った目。
「グライフェンタールは言ってた」
封書の一節を、記憶のままに口にする。
「“充分な打撃は与えた。情報も得られた。
あとは丘陵まで引き込んで会戦する。
――だから、お前たちをここで失うわけにはいかない”ってな」
誰かが小さく息を呑む。
「アジールの丘で、防衛線はもう万全になりかけてる」
フレイヤは続けた。
「土塁も溝も、魔導砲の陣地も整ってるってさ。
アタシらが稼いだ九日で、あの辺境伯は“牙を研ぎ終えた”ってわけだ」
外では遠くに金色の光がまた一つ、山肌を抉っているのが見えた。
爆音が少し遅れてここまで届く。
山が、じわじわ削られている音だ。
「このまま山に残れば、いずれアタシらの隠れ場所は全部消える」
フレイヤは壁に掛けてあった弓を手に取った。
「飛ぶ場所がなくなった日鴉は、獲物じゃなくて、的になるだけだ」
「でも……山は、あたしたちの――」
「庭だよ」
若い猟兵の言葉を遮って、フレイヤは頷いた。
「庭だからこそ、全部焼かれる前に一度退く」
彼女は口の端だけで笑った。
「庭を取り返す戦いは、今じゃない。
まずは“庭に向かってくる獲物”を、丘で止めるのが先だ」
沈黙のあと、誰かがぽつりと呟いた。
「……あの丘で、グライフェンタールたちが待ってるってわけか」
「そういうこと」
フレイヤは頷く。
「アタシらが稼いだ九日を、あいつらがどう使ったか――見に行こうじゃないか」
洞窟の空気が、少しだけ変わった。
悔しさと、安堵と、疲れと、戦いが終わっていない実感が混ざり合う。
「撤収は段階的にやる」
フレイヤは手早く指示を飛ばし始めた。
「重傷者と飛べないやつから、順番に斜面を滑り降りろ。
帝国の回収部隊がいる地点までは、アタシが案内をつける」
「隊長は?」
「アタシと古参は最後だよ。山は、最後に出ていくやつが鍵を閉めるもんだ」
冗談めかして言うと、何人かがくすりと笑った。
「いいか」
フレイヤは、最後にもう一度だけ言葉を選んだ。
「この九日間、獲物の腹を裂いて、足を折って、山を止めた。
山は血を吸ったけど、それ以上に――時間を食った」
そこで言葉を切る。
「その時間で何が造られたかは――
アジールの丘で、確かめよう」
外の金色の閃光が、また一つ、山のどこかを抉る。
その光を背にして、日鴉たちは静かに動き始めた。
翼を畳み、荷をまとめ、山から“生きて下りる”ための準備を。




