山を焼く祈り
山での戦いが始まって七日目。
七日目を境に、ここはもう“日鴉族たちの山”ではなくなりつつあった。
夜明け前。
いつものように尾根に散開していた日鴉たちは、谷を挟んだ向こうの山道へ、静かに矢を向けていた。
松明の列。
荷馬車の影。
その外側に、白い外套を羽織った影が増えている。
白。祈りの白。
「……増えたな。白外套の連中」
隣で弓を構える古参猟兵が、低く呟く。
フレイヤは矢羽根に指を添えたまま、目を細めた。
浄化師団――神聖魔法を扱う、異端排除の専門家。
昨日までは列の前方に固まっていたはずなのに、今日は違う。
前にも。脇にも。後ろにも。
山そのものに縫い付けるように、間隔を取って散っている。
(……嫌な配置だ)
フレイヤは息を吐いた。
(こっちを撃つための“網”を、最初から張ってる)
祈りの声が、風に混じって聞こえた。
言葉は拾えない。だが、揃った“リズム”だけが伝わる。
合唱みたいに、同じ拍で――。
「――斉射」
小さく告げると、周囲の尾根からも弓が上がる気配がした。
ヒュ、と空気を裂く音が闇の中で重なる。
数百本の矢が、谷を越えて山道へ降り注いだ。
その瞬間。
谷の向こうで、白外套の列が――同時に口を動かした。
金色の光が、いくつも小さな球になって生まれる。
球は弧を描き、雨のように尾根へ跳んだ。
「……ッ!」
次の瞬間、山肌が金色に爆ぜた。
耳を殴る轟音。
目を焼く閃光。
肌を刺す熱風。
フレイヤは反射的に岩へ身を押し付けた。
遅れて衝撃波が突き刺さり、岩棚が丸ごと揺れる。
上から、砂と小石がばらばらと降ってきた。
「隊長! 上!」
叫びに反射で見上げる。
さっきまで日鴉が陣取っていた隣の岩棚が、半分ほど抉り取られていた。
岩の断面が、刃物で削ったみたいに滑らかだ。
そこにいたはずの影は、もういない。
あり得ない空白だけが残っていた。
「……持っていかれた」
フレイヤの喉が、乾く。
谷の向こう――浄化師団の前列が、金色の光をまとったまま、静かに杖と剣を下ろしている。
あの一撃は、狙い撃ちじゃない。
“ここら一帯”を消すための撃ち方だ。
「……一発に対して、十発返してきやがる」
フレイヤは舌打ちした。
矢が一本飛べば、返ってくるのは点じゃない。
尾根ごと覆うような金色の爆ぜ方――面での焼き払い。
しかも撃ち返しが早い。
待ち構えていた。詠唱は“撃つ前”から始まっている。
さらに厄介なのは、連中が“協力して撃っている”ことだった。
白外套が十人ほど並ぶと、金の球が途中で寄り集まり、ひとつの塊になる。
小さな爆ぜ方が、鈍く重い衝撃に変わる。
まるで、光の雨が――重くなる。
「隊長、狙いを変えますか?」
「変えようがない」
フレイヤは低く言った。
「あそこは“当たる場所”じゃない。“消える場所”だ。
こっちが狙えば狙うほど、こっちの足場ごと持ってかれる」
実際に起き始めていた。
日鴉が“庭”として使ってきた枝。
飛び移るための岩。
身を隠す影のくぼみ。
そういう“使えそうな場所”へ、金色の爆発が落ちてくる。
浄化師団が日鴉の位置を正確に掴んでいるわけじゃない。
だが、彼らは理解している。
日鴉がどこを使うか。
どこに降りるか。
どこが“狩場”になるか。
なら、そこを片っ端から焼けばいい。
「奴ら……自分の足元ごと、山を削ってやがる」
岩陰で古参が歯ぎしりする。
「理にかなってる」
フレイヤは皮肉混じりに肩をすくめた。
「雑だけど、正しい。
日鴉の強みは木と岩と影――なら、それを消せばいい」
問題は、こっちの被害が洒落にならなくなってきたことだ。
午前中だけで、羽根を貫かれた者が三人。
落下しかけた者が二人。
そして、岩棚ごと抉られた一角では――まだ一人、見つかっていない。
翼が強くても、飛ぶ瞬間に“離陸する地面”が消えれば終わりだ。
「……隊長」
若い猟兵が、控えめに声をかけてくる。
「足撃ちの効果も薄くなってます。
負傷させて足を鈍らせるはずが――」
彼は谷の向こうを指した。
贖罪兵団の列。
足を射抜かれた人足が、道端に転がっている。
膝から下を失い、泥と血にまみれたまま、地面を掴む者。
うめき声だけが続く。
だが列は止まらない。
白外套と護衛兵は淡々とそれを跨いでいく。助けもしないし、終わらせもしない。
ただ、そこに置き去りにする。
「……動揺、しないな」
隣の猟兵が、半ば呆れたように言った。
「あの距離で、仲間があんな目に遭ってるのに」
「“仲間”と思ってない」
フレイヤは吐き捨てるように言った。
「贖罪兵団は罪人。
あいつらにとっちゃ、荷馬車の車輪と同じだ」
谷の向こうで、浄化騎士たちがまた口を動かした。
汗と煤で汚れても、顔は揺れない。
怒りでも恐怖でもない。
“やるべきことをやっているだけ”の顔。
(恐怖がないわけじゃない)
フレイヤは思う。
(ある。でも、それを“神の箱”に詰めて、鍵かけて、捨ててる)
だから揺れない。
揺れなくなるまで、自分を削ってでも前へ進む。
山のこちら側で、若い猟兵が顔色を悪くしていた。
道端に積み上がっていく人間を見て、胃を掴まれたみたいな顔だ。
「なぁ、隊長……」
「見るな」
フレイヤは短く言った。
「仕事の範囲外だ。
あれを助ける余裕は、アタシらにはない」
「でも――」
「“でも”も“だって”も無し」
視線だけで射抜く。
「目の前の地獄に足を突っ込んだら、こっちまで沈む」
自分に言い聞かせているのが、自分でも分かった。
矢を番える指が、ほんの少し震える。
血の匂いも悲鳴も、もう珍しくない。
それでも、“捨てられる人間”が積み重なる景色には慣れない。
「隊長、どうします?」
古参が問う。
「このままやり合えば、猟兵のほうが削られます」
「……そうだな」
フレイヤは岩に背を預け、一度目を閉じた。
耳には爆発音。
近くには押し殺したうめき声。
遠くには、白外套の連祷。
(山は、もう安全な狩場じゃない)
(ここから先は、“山で死ぬか”じゃない)
(“生きて山を降りて、丘に獲物を投げ渡せるか”だ)
目を開ける。
「全隊に伝令」
声が、いつもより少し低かった。
「山の中での狩りを縮小する」
猟兵たちが息を呑む。
「三番道と四番道、重点。
五番道は様子見に切り替え。
岩を落とせる場所は、今日中に全部落とす」
古参が頷く。若いのが唾を飲む。
「あと二日もすれば、山の中で粘るほうが危険になる」
「撤退の準備を、ってことですか」
「山の仕事を変える」
フレイヤは淡々と言った。
「“山を守る”から、“アタシらを生かしたまま下に運ぶ”に変える」
谷の向こうで、金色の爆発がまた一つ、山肌を抉った。
木と岩が消え、焦げ跡だけが露わになる。
「アタシらは山の民だ。
でも、この戦いは山だけじゃ終わらない」
口元だけで笑ってみせる。
「アジール平野で、グライフェンタールたちが待ってる。
そこまで獲物を痩せさせて運ぶのが――今のアタシらの“猟”だ」
矢筒の中身は、まだ残っている。
けれど、もうそれをここで使い切るつもりはなかった。
山を削る金色の光の中で、フレイヤは――
自分たちの退き際を、正確に計り始めていた。




