飛べる羽根のために
気づいたら100話目です
三日目の朝の山は、もう静かじゃなかった。
昨日まで、矢を射ち、谷に落とし、荷を焼いた。
神聖国軍は、ただ混乱し、怒鳴り、祈るだけだった。
――それが、今日は違う。
「伏せろッ!」
叫びと同時に、岩肌に矢が突き刺さる。
乾いた音が、立て続けに響いた。
いつものように尾根から身を乗り出した日鴉の一人が、肩口を押さえて崩れ落ちる。
「ぐっ……!」
黒い羽根が赤く染まり、岩にぶつかって止まった。
フレイヤは舌打ちしながら彼の襟首を掴んで、岩陰へ引きずり込んだ。
「おい、生きてるか」
「生きてる……羽根、貫かれただけだ。クソ痛え……!」
「なら上等。痛いで済んだだけマシと思え」
谷の向こう、山道の一角に、昨日までと違う“輪”ができている。
祈りの白い法衣――贖罪兵団の監督神官。
みすぼらしい人足の列。
その外側に、槍と盾の護衛。
そして今日は、そこに弓が混じっていた。
贖罪兵の列を包む輪の外縁に、皮鎧の弓兵が一定の間合いで立っている。
谷は広くない。対岸まで百歩少し――矢の届く距離だ。
こちらが矢を放てば、すぐ反撃が飛んでくる。
しかも狙いが、もう散漫じゃない。尾根を見て撃っている。
「……連中、やっと頭を使い始めたわけだ」
フレイヤは岩陰から一瞬だけ顔を出し、矢の筋を目で追ってすぐ引っ込めた。
日鴉は夜目が利く。山も知っている。
だが向こうも三日ぶんだけ学んだ。
――どこに撃てば、羽根が落ちるか。
「こっちも二人やられた!」
別の尾根から、鳴子矢の音が返ってくる。
続けて、合図の矢が岩に刺さり、小さな木札が揺れた。
翼を半分しか広げられなくなった影が、無理やり飛ぼうとして崖に爪を滑らせている。
仲間が慌てて支える。
三日。
たった三日で、日鴉猟兵隊の負傷者は目に見えて増えた。
死者はまだ少ない。
けれどこのまま続ければ、“飛べない日鴉”があふれるのは時間の問題だった。
「……潮時だな」
フレイヤは唇の端を噛んだ。
グライフェンタールの書簡の一節が頭をよぎる。
――君たち日鴉族は捕まったらどうなるかわからない。ゆえに、撤収の判断は早めにせよ。
「全隊に伝令。狩場を絞る」
彼女は決めた。
「五本ある山道のうち――北の一番道と二番道は、今日中に“通れなくする”。仮封鎖だ」
そばにいた古参の猟兵が目を見開く。
「あそこ、塞ぐのか?」
「塞ぐ。荷馬車が通れない幅に潰す」
フレイヤは頷いた。
「岩を落として道を殺す。開け直すには工兵が要る。――時間を買う」
「でも、こっちの狩り場も減る」
「減っていい」
きっぱりと言う。
「三番、四番、五番――残り三本に兵を集中させる。薄く広くから、厚く狭くへ切り替えだ」
日鴉たちが互いに目を見交わす。
この山は自分たちの庭だ。
どの道にも思い出がある。
獲物を追った尾根。
雪を避けた洞窟。
子どもの頃、初めて飛び降りた崖。
それでも今は、感傷より理が優先される。
数だけなら、向こうは数百倍だ。
「全部の口を潰すな」
フレイヤは、あえて釘を刺した。
「全部塞げば、連中はなりふり構わず平押しするか、細い道を大迂回して平野に回り込む。
出口は残す。――出てくる場所を、こっちが選ぶ」
仲間たちが、黙って頷いた。
「ヤバくなったら飛んで逃げろ、は変わってない」
フレイヤは少しだけ笑ってみせた。
「そのためには、飛べる羽根がいる。五本全部を見る余裕は、もうない」
伝令が次々と山の中に消えていった。
北側の二本の山道に散っていた猟兵隊には、崩落の準備が飛ぶ。
日鴉は山を知り尽くしている。どこを崩せば道が死ぬかも、ちゃんと分かっている。
――だが、それを“確実に”やるには、道具と手が要る。
フレイヤは岩陰で短く息を整え、伝令用の紙片を引き寄せた。
泥で指が汚れるのも構わず、走り書きする。
宛先は、グライフェンタール。
『グライフェンタールへ。三日目の報告。
向こうは弓を並べてきた。贖罪兵の列の外側に護衛を付けて、尾根を見て撃ってくる。
負傷が増えてる。飛べなくなる羽根が出た。
だから狩場を絞る。五本の山道は三本にする。北の一番道と二番道を“仮封鎖”。完全に塞ぐな。出口を残さないと、平押しか大迂回で平野に回られる。
工兵を回してくれ。日鴉が崩落点へ案内する。楔と縄と滑車、掘る道具も。今日は道を殺して、明日から残り三本で削る。
以上。フレイヤ。』
書き終えると、彼女はそれを丸め、伝令に投げ渡した。
「落とすなよ。――命より軽い紙は、ない」
伝令が頷き、闇と岩の間へ消えた。
◆◆◆
【アギール平野・西部方面軍本陣】
「山岳戦、三日目の報告です」
幕舎の中に、雪混じりの風が少しだけ入り込んだ。
日鴉の伝令が翼をたたんで膝をつく。
「神聖国軍は贖罪兵団の外縁に弓兵を配置し、応戦を開始。
こちらの猟兵隊にも負傷者が増えています」
「死者は?」
「確認できた限りでは、まだ。ですが、飛べなくなった者が出始めました」
グライフェンタールは短く息を吐いた。
想定していた展開だ。
神聖国がいつまでも殴られっぱなしでいるわけがない。
伝令が差し出した紙片に目を落とす。
フレイヤの字だ。乱暴で、短く、要点だけが刺さっている。
「……現場の判断を尊重しよう」
グライフェンタールは即答した。
参謀席に座るオイゲンが頷き、命令書の下書きを始める。
「工兵を派遣しろ。日鴉の案内で崩落点を落とす」
グライフェンタールは地図を指で叩いた。
「完全封鎖は要らん。荷馬車が通れない幅にしておけ。
一度潰せば、向こうは簡単には開け直せない」
「了解しました」
オイゲンが淡々と返し、筆を走らせる。
地図の上には、山から平野へ抜ける細い線が何本もある。
そのうち二本が死ねば、流れは三本へ寄る。
「残りの三本――三番・四番・五番は、神聖国軍にとっての“出口”になる」
グライフェンタールは言葉を続けた。
「そこに、我々の前衛を集中させる。山を抜けてきたところを、さらに削る」
「山の中で痩せさせて、丘で折る、というわけですね」
オイゲンが皮肉混じりに口角を上げる。
「腹を削られ、足を傷つけられた大軍が、ようやく出口から這い出てきたところで――」
「西部方面軍が待っている」
グライフェンタールは頷いた。
「日鴉に全部やらせるわけにはいかん。奴らの血で山を塗り替えるのは、こちらの“理”じゃない」
幕舎の外では、土塁と壕が少しずつ厚みを増していた。
平野の丘陵に築かれた防衛線は、日ごとに“城”に近づいている。
山の上では道が潰され、残った道に獲物が追い込まれていく。
その出口に、帝国西部方面軍が黙って“網”を張りつつあった。




