芽吹きの理(タウブルッフ)
長く閉ざされていた冬が、ゆっくりと息を吐いた。
凍裂季が過ぎ、タウブルッフ――解氷季が訪れる。
雪解け水が、山の斜面から細い筋となって谷へ流れ込む。
朝になると村は一面の霧に包まれ、その合間から、黒い土と水面がところどころ顔を覗かせていた。
ツチダは、いつものように夜明け前に起きた。
囲炉裏の火をかき立て、薄い粥を流し込むと、まだ冷たい長靴を引っかけて外へ出る。
風はまだ冷たい。だが、鼻をくすぐる匂いが違った。
凍った空気の下に、わずかに土と水草の匂いが混じっている。
(……溶けてきたな)
霧の中を歩き、柵を開けて畑へ向かう。
足もとの泥は、冬のあいだ石のように固まっていたのが嘘のように、じわりと沈んだ。
畝の間から、淡い緑が顔を出していた。
――発芽だ。
雪を割るようにして、小さな芽が規則正しく並んでいる。
ひとつひとつの葉が風に震えるたび、薄い陽光を受けてきらりと光を返した。
ツチダには、その光の中にもうひとつ別の“輝き”が見えていた。
土の中を、細い川のように流れる緑と青の帯――
冬のあいだ眠っていた生命の理が、静かに動き始めていた。
「出た……」
胸の奥から、自然に言葉が漏れた。
完璧な発芽率ではない。ところどころ芽が途切れ、まだ顔を出していない区画もある。
それでも、この土地の冷たさと痩せ具合を考えれば、驚くべき成果だった。
(よく頑張ったな……)
思わず、芽に向かってそう声をかけたくなる。
それは自分に対してでもあり、冬を越えた村人たちに対してでもあった。
そこへ、後ろから足音が近づいてきた。
「ツチダ殿!見ろ、芽が!」
「ほんとうに出た……去年は、ひと握りも生えなんだのに!」
村人たちが、寝巻きの上に上着をひっかけたような格好で駆け寄ってくる。
老人も子どもも、一斉に畝の間にしゃがみ込み、冷たい土に手をついて覗き込んだ。
「これが……麦の芽か」
「こんなに揃って出とる……」
冷たい風が吹いているのに、その場だけ、春が切り取られたようなぬくもりがあった。
ツチダはしゃがみ込み、そっと葉を撫でる。
葉の付け根から伝わる張りと、土の中へ伸びた根の力強さ。
「……うん、悪くない。根も強い。
乾きにも冷えにも、そこそこ耐えられそうな構造をしてる」
彼の頭の中では、自然と計算が走っていた。
現代日本の改良品種に比べれば、発芽率も生育速度も劣る。
化学肥料も農薬もないこの世界では、理想的な環境を整えること自体が難しい。
けれど――それでも、この土は確かに息を吹き返していた。
「ツチダさん、これ、全部あなたが?」
若い農夫が、半ば畏れを含んだ目で問いかけてくる。
ツチダは、苦笑して首を横に振った。
「違いますよ。みんなでやった畑です。
俺はちょっと“手助け”をしただけです」
「けど、こんなに芽が揃うのは初めてだ!」
「やっぱりツチダ殿の理だ!」
あちこちから声が上がる。
冬の間、彼が書き続けたノートや、堆肥小屋作りや、雪の中での講釈を、村人たちは見ていたのだ。
“理”という言葉が、いつの間にか村の口癖になっていた。
誰かが何かを上手くやると、「それが理だ」と言う。
畑の溝が上手く水を流せば、「理が通った」。
子どもが新しい字を覚えれば、「理を一つ増やした」。
それは、神でも奇跡でもなく、“正しい流れ”を見つけていくこと。
ツチダにとって、それが一番うれしい変化だった。
「理、ね……」
彼は照れくさそうに笑い、それから一歩下がって畑全体を見渡した。
朝日を浴びた麦の芽が、等間隔の列となって並び、まだ頼りないながらも“畑らしい顔”を見せている。
午後、彼は一人で畑を歩いた。
陽が高くなるにつれ、霧は晴れ、雪解け水が畝の脇をちろちろと流れている。
柔らかくなった土の上に、春の光が斜めに差し込んでいた。
耳を澄ますと、地中の水の音が聴こえる気がする。
土の奥で、緑と青の帯がめぐり、細い根っこに絡みついていく。
理の流れが、確かにそこにあった。
――これが、今の俺にできる“最善”だ。
ツチダは空を仰いだ。
遠い故郷の、雲ひとつない真っ青な空とは違う。
薄く雲がかかり、どこか柔らかい色をしている。だが、それが悪くないと思えた。
「いつか、この大地にも――笑って暮らせる理を根づかせたいな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
その言葉に応えるように、畑の奥で風が吹いた。
若い麦の葉が一斉にそよぎ、光の粒が空中に舞い上がる。
その光景はまるで、
“理が芽吹いた瞬間”を祝福しているかのようだった。




