私に関わらないでください。仕事の邪魔ですので
ファルガード伯爵家の朝は、侍女たちの慌ただしい足音と囁き声で始まる。
リネン室では、アイロンがけを終えたばかりのシーツから立ち上る湯気と、洗濯用の魔法薬の清潔な匂いが混じり合っていた。
その中心で、侍女たちが小さな輪を作り、声を潜めて噂話に興じている。
「聞いた?昨夜のアリーシャ様、ディナーの席で隣国の公使様を完璧な作法で感心させたんですって」
「まあ、さすがアリーシャ様ね。それに比べて、エストノーラ様は…」
侍女の一人が言い淀むと、輪の中心に立つサラが軽蔑したように鼻を鳴らした。
「あの陰気な方をアリーシャ様と比べること自体、おこがましいわ。昨夜も、公使様にご挨拶もできず、父親である伯爵様に睨まれて俯いていただけじゃない」
侍女たちがくすくすと笑い声を漏らす中、その輪から少し離れた場所で、オルメが黙々と作業を続けていた。
彼女はテーブルの上に広げられた銀食器のリストと、棚に並べられた実物の数を一つ一つ指差しで確認した。
手元の羊皮紙に備え付けのペンで数値を記入していく。
彼女の周囲だけ、時間が違う流れ方をしているかのように静かだった。
侍女長が朝の業務分担を発表するためにリネン室に入ってくると、侍女たちの私語がぴたりと止む。
「アリーシャ様の朝の身支度はサラ、あなたにお願いします。その他、客間の清掃は…」
侍女長が次々と担当を割り振っていく。
誰もが、アリーシャの世話や客人の対応といった華やかな仕事を得ようと期待に満ちた顔をしていた。
そして最後に、最も「厄介な仕事」が残った。
「…エストノーラ様の部屋の清掃と、朝食の準備は…」
侍女長が言葉を詰まらせると、侍女たちは一斉に目を伏せた。
エストノーラの部屋は常に空気が重く、彼女自身もほとんど口を利かないため、侍女たちの間では罰ゲームのような扱いだった。
沈黙が続く中、オルメが顔を上げた。
銀食器の在庫確認を終えた彼女は、侍女長に向かって無表情のまま告げた。
「本日の私の担当区域は北三階です。エストノーラ様の部屋もその区域に含まれますので、私が担当します」
その言葉には感情が一切含まれておらず、ただ業務内容を確認する響きだけがあった。
侍女長はほっとしたように頷き、他の侍女たちは安堵と、オルメへの微かな嘲笑が入り混じった視線を送った。
オルメはそんな視線に全く気づかないかのように、必要な清掃用具とエストノーラの朝食が乗ったトレイを手に取り、リネン室を後にした。
彼女の背後で、サラが「物好きもいるものね」と呟く声が小さく響いたが、オルメの歩調は一切変わらなかった。
その日の午後、オルメが書庫で蔵書の整理を行っていると、背後から高い声がかけられた。
「オルメ。少し、いいかしら」
振り返ると、腕を組んだサラが他の侍女二人を伴って立っていた。
オルメは手に持っていた革張りの書物を棚の正しい位置に戻してから、ゆっくりとサラの方を向いた。
「何か御用でしょうか、サラ。現在、私は書庫の蔵書点検業務中です。緊急の用件でなければ、後ほど休憩時間に伺いますが」
オルメの淡々とした口調に、サラは一瞬眉をひそめたが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「そんなに固くならないで。少しお話ししたいだけよ。あなた、いつも一人で大変でしょう?仕事は真面目だし、腕もいい。私たち、あなたのことを評価しているのよ」
サラは一歩前に出て、親密さを装って声を潜めた。
「この屋敷で賢く立ち回るには、誰と付き合うかが大事。私たちアリーシャ様派につけば、面倒な仕事は回ってこなくなるし、侍女長だって私たちの意見を無視できないわ。あなたもこちら側に来て、もっと楽に、有利に働くべきよ。そうすれば、陰気なエストノーラ様の世話なんてしなくても済むようになるわ」
取り巻きの侍女たちも、「そうよ、そうよ」「サラの言う通りよ」と口々に相槌を打つ。
それは誘いというよりは、一種の脅しに近い響きを持っていた。
オルメはサラたちの顔を順番に見つめた後、再び書棚に向き直った。
彼女は次の書物を手に取ると、その背表紙についた埃を指で丁寧になぞった。
「お誘いはありがたいですが、お断りします」
サラの顔が引きつった。
「…どうして?私たちに何か不満でも?」
オルメは書棚から目を離さないまま、はっきりと、しかし抑揚のない声で答えた。
「私に関わらないでください。仕事の邪魔ですので」
その一言は、書庫の静寂の中に氷のように突き刺さった。
サラの顔が怒りで赤く染まる。
彼女はこれまで、屋敷の侍女たちの間で自分の意に沿わない者などいなかった。
ましてや、これほど無下に、侮辱的に断られたのは初めてだった。
「…あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
サラが震える声で言うと、オルメはリストの項目に一つチェックを入れながら、短く答えた。
「はい。私は、私の職務を全うするためにここにいます。派閥に所属することは、私の職務遂行の妨げになります。話は以上です」
それきり、オルメは完全に沈黙した。
まるでサラたちがそこに存在しないかのように、彼女は黙々と蔵書点検の作業を再開した。
サラはしばらくの間、怒りに満ちた目でオルメの背中を睨みつけていた。
やがて忌々しげに舌打ちをすると、「行きましょう!」と取り巻きたちに言い放ち、乱暴な足音を立てて書庫から去っていった。
一人残された書庫で、オルメはページの隅の小さな破れを見つけると、懐から修復用の小さな道具を取り出し、何事もなかったかのように補修作業を始めた。
翌日の昼下がり、エストノーラの部屋から甲高い悲鳴が上がった。
数人の侍女が駆けつけると、部屋の中央でエストノーラが呆然と立ち尽くし、その足元には無残に引き裂かれたショールが落ちていた。
それは、亡くなった母親の形見である、レース編みのショールだった。
エストノーラが屋敷の中で唯一、心の拠り所として大切にしていたものだ。
「まあ、なんてこと…」
「エストノーラ様、また何か不注意をなさいましたの?」
侍女たちは口々に言ったが、その目には同情の色はなかった。
むしろ、面倒事が増えたことへの苛立ちと、隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。
サラは腕を組んで、わざとらしくため息をついた。
「本当におっちょこちょいな方ね。こんなに大事なものを、ご自分で引っ掛けて破ってしまうなんて。これでは修復も難しいでしょうに」
エストノーラは何も答えなかった。
彼女はただ、青ざめた顔で唇を噛みしめ、震える手でショールの残骸を拾い上げようとしていた。
彼女が自分でやったのではないことは明らかだった。
今朝、部屋を出る前には、確かにそれは椅子の上に綺麗に畳んで置かれていたのだ。
しかし、この屋敷で彼女の言葉を信じる者など誰もいない。
彼女は声を出すことを諦め、絶望に打ちひしがれていた。
侍女たちは「私たちは忙しいので」「後で誰かが片付けるでしょう」と言い訳をしながら、一人、また一人と部屋から出て行ってしまった。
誰も、傷ついたエストノーラを慰めようとも、破れたショールをどうにかしようともしなかった。
やがて部屋には、エストノーラと、床に散らばったショールの残骸だけが残された。
彼女は力なくその場に座り込み、小さな肩を震わせた。
声にならない嗚咽が、静かな部屋に重く響いた。
しばらくして、遅れて部屋に入ってきたオルメがその光景を目にした。
彼女は状況を一瞥すると、エストノーラに近づき、その前に静かに膝をついた。
彼女はエストノーラの許可を求めるでもなく、床に散らばったレースの断片を、一つ一つ丁寧に拾い集め始めた。
エストノーラは驚いて顔を上げたが、オルメは何も言わず、ただ黙々と作業を続けた。
その冷静で無機質な動きが、かえってエストノーラの混乱した心をわずかに落ち着かせた。
全ての断片を拾い集め終えたオルメは、立ち上がると、近くのテーブルに白い布を広げ、その上にショールの残骸を並べた。
そして、懐から取り出した小さなルーペを使い、破れた箇所を緻密に検分し始めた。
様子を見に来たサラたちが、部屋の入り口で面白がるようにその光景を眺めている。
「無駄なことよ。あんなにバラバラじゃ、元に戻るわけないわ」
サラが嘲笑うように言ったその時、オルメが静かに口を開いた。
「この切れ方は、何かに引っ掛けたものではありません」
その場にいた全員の視線がオルメに集中する。
オルメはルーペを目から離すと、サラたちの方へ冷たい視線を向けた。
「繊維の断面が、偶発的な張力によって引きちぎられたものではなく、鋭利な刃物によって意図的に切断されています。これは、何者かによる計画的な犯行です」
オルメの淡々とした、しかし有無を言わせぬ分析に、サラとその取り巻きたちの顔色が変わった。
彼女たちの間に動揺が走る。
オルメは犯人を名指しこそしなかったが、その視線は明らかに彼女たちを捉えていた。
オルメはそれ以上何も言わず、再びショールに向き直った。
彼女は自室から持ってきた裁縫箱を開けると、中から極細の針と、ショールの色と寸分違わぬ絹糸を取り出した。
そして、まるで外科手術を行う医師のように、ピンセットでレースの断片を繋ぎ合わせ、信じられないほどの速さと正確さで縫合を始めた。
時折、彼女の指先から微かな光が放たれる。
それは、糸の強度を高め、布地と完全に同化させるための修復魔法の『リペア』だった。
侍女たちは、その神業のような技術に息をのむ。
まるで映像を逆再生しているかのように、バラバラだったショールが元の形を取り戻していく。
一時間後、オルメは最後の糸を切り、修復を終えたショールを丁寧に畳んだ。
そこには、どこが破れていたのか全く分からない、完璧な状態のショールがあった。
オルメはそれを両手で持ち、何も言わずに立ち尽くしていたエストノーラに差し出した。
「エストノーラ様。お預かりしていたショール、修復が完了いたしました。ご確認ください」
エストノーラは恐る恐るそれを受け取った。
指先に触れる感触は、以前と何ら変わりない。
彼女は言葉を発することができず、ただオルメの顔をじっと見つめた。
オルメはエストノーラの視線を受け止めても、表情一つ変えなかった。
「問題がなければ、これで私の業務は完了です。失礼いたします」
オルメは一礼すると、裁縫箱を手に部屋を出て行こうとした。
その背中に向かって、エストノーラが震える声で、かろうじて一言だけ呟いた。
「…ありがとう」
オルメは足を止め、振り返ることなく小さく頷くと、そのまま去っていった。
部屋に残されたエストノーラは、腕の中のショールを強く抱きしめた。
その日から、彼女の世界の中で、オルメという感情を見せない侍女の存在が、無視できないほど大きなものになっていった。
* * *
ショール事件の翌日からエストノーラの日常に小さな変化が訪れた。
彼女は自室にいる間、無意識のうちにオルメの姿を探すようになっていた。
オルメがエストノーラの部屋を担当するのは週に三日だ。
その日、エストノーラは朝から落ち着かず、扉が開く音に何度も耳を澄ませた。
やがて、控えめなノックの後にオルメが入室してくると、エストノーラはそっとベッドのカーテンの隙間から彼女の動きを観察した。
オルメの仕事ぶりは一種の芸術のようだった。
彼女はまず部屋全体の空気の流れを確認し、窓を適切な角度で開けて換気を始める。
次に、基本的な清掃魔法である「クリーン」の呪文を小声で唱えた。
すると、床や家具の表面に積もっていた埃がまるで意思を持ったかのようにふわりと浮き上がり、窓から静かに排出されていく。
他の侍女が使う大雑把な「クリーン」とは異なり、オルメの魔法は調度品を傷つけないよう精密に制御されていた。
魔法で大まかな汚れを取り除いた後、彼女は物理的な清掃に取り掛かった。
長年放置されくすんでしまっていた銀製の燭台を、特殊な研磨剤をつけた布で一つ一つ丁寧に磨き上げていく。
彼女の無駄のない指の動きに合わせて、燭台は本来の輝きを取り戻していった。
次に、乱雑に積み上げられていた書物を手に取り、背表紙のジャンルごとに分類し、本棚に整然と並べ直す。
その一連の作業には一切の迷いがなく、まるで予め決められた手順を完璧に実行する機械のようだった。
エストノーラは、これまで自分の部屋がこれほど丁寧に扱われたことがなかったことに気づいた。
他の侍女たちは最低限の掃除を済ませると、一刻も早くこの陰鬱な部屋から出て行きたがった。
しかしオルメは違った。
彼女は黙々と、しかし徹底的に、部屋の隅々まで快適な空間へと変えていく。
それはエストノーラへの同情や親切心からではないことを、エストノーラ自身も理解していた。
オルメにとって、これは単なる「仕事」なのだ。
誰の部屋であろうと、担当区域を完璧な状態に保つこと。
そのブレない姿勢が、誰からもまともに扱われてこなかったエストノーラの心に不思議な安堵感をもたらしていた。
数日が経ち、オルメが部屋の清掃を続けていたある日のこと。
彼女は部屋の隅にある、ほとんど使われていない書き物机の引き出しの奥で、埃をかぶった一冊の古いスケッチブックを発見した。
革の表紙は色褪せ、角は擦り切れていた。
オルメはそれを手に取ると、乾いた布で丁寧に埃を拭い、ゆっくりとページをめくった。
スケッチブックの中には、鉛筆で描かれた数々の絵が収められていた。
庭の片隅に咲く名もない花、窓から見える雨に濡れた中庭の風景、そして遠くから見たアリーシャの屈託のない笑顔。
どの絵もプロの画家が描いたと言われても疑わないほどの、驚くほど繊細で正確なタッチで描かれていた。
特に光と影の表現は巧みで、描かれた対象の持つ空気感や感情までをも捉えているようだった。
オルメはページをめくる手を止め、一枚の人物画に見入った。
それはまだ幼いアリーシャ、そして優しく微笑む母親が描かれた肖像画だった。
その絵からは、今は失われてしまった温かな愛情が溢れ出ていた。
オルメはエストノーラが持つ類稀なる芸術の才能を確信した。
しかし、彼女はその発見に驚きの表情を見せることも、誰かに吹聴することもしなかった。
彼女はスケッチブックを静かに閉じると、丁寧に汚れを拭き取り、描きかけの絵が挟まっていたページの隣にそっと置いておくだけだった。
その翌日、オルメはエストノーラの部屋に新しい画材一式を運んできた。
様々な硬度の鉛筆、上質な画用紙、練り消しゴムなどが木箱に収められている。
彼女はそれを書き物机の上に置くと、ベッドで本を読んでいたエストノーラに、業務報告をするのと同じ平坦な声で告げた。
「エストノーラ様。先日、備品室の在庫整理を行った際、長期保管されていた画材が見つかりました。品質劣化の前に消費すべきと判断し、こちらの部屋に配置します。ご不要であれば、その旨お申し付けください。廃棄処分といたします」
エストノーラは驚いて顔を上げた。
オルメはエストノーラの返事を待つことなく一礼し、他の作業に移ろうとする。
エストノーラは慌てて声をかけた。
「待って。どうして、これを…」
オルメは動きを止め、エストノーラの方を向いた。
「先ほど申し上げた通り、備品の有効活用のためです。私の業務の一環に過ぎません」
それだけ言うと、オルメは再び清掃作業に戻った。
エストノーラは、机の上に置かれた真新しい画材と、何も語らないオルメの背中を複雑な思いで見つめていた。
オルメがエストノーラに「肩入れ」しているという噂は、すぐに侍女たちの間に広まった。
特にオルメに個人的な恨みを持つサラにとって、それは格好の攻撃材料だった。
サラたちの嫌がらせは、これまでのエストノーラに対するものからオルメへと標的を変え、より陰湿さを増していった。
ある日の昼食時、オルメが使用人用の食堂で食事を取ろうとすると、彼女が受け取ったスープの皿にわざとらしく長い髪の毛が一本入っていた。
周囲の侍女たちが隠そうともしない嘲笑を浮かべている。
オルメはスープ皿を無言で見つめた後、表情一つ変えずに立ち上がると、そのまま厨房へ向かった。
そして、調理担当者に皿を差し出し、淡々と告げた。
「報告します。定食のスープに異物が混入していました。衛生管理上の問題が発生する可能性があるため、再調理を要請します」
調理担当者は慌てて謝罪し、新しいスープを用意した。
オルメはそれを受け取ると、何事もなかったかのように自席に戻り、食事を再開した。
サラたちは、オルメが騒ぎ立てるか、あるいは食欲をなくして席を立つことを期待していたため、そのあまりに冷静な対応に拍子抜けし、苛立ちを募らせた。
またある日、オルメがリネン室でシーツの枚数を確認していると、サラがわざと彼女のそばを通り抜けざまに、手に持っていたインク瓶を「うっかり」落とした。
インクは飛び散り、オルメが畳み終えたばかりの真っ白なシーツに大きな染みを作った。
「あら、ごめんなさい!手が滑ってしまったわ」
サラは全く悪びれない様子で言った。
オルメは染みのついたシーツを静かに手に取ると、染みの状態を確認した。
「このインクは水性ですね。すぐに対処すれば、吸収魔法『ステイン』で除去可能です。問題ありません」
彼女はそう言うと、すぐさま染み抜き作業を開始した。
その手際の良さと動じない態度に、サラは歯ぎしりするしかなかった。
オルメはこれらの妨害工作に対して一切感情的な反応を示さなかった。
しかし、彼女が何もしていなかったわけではない。
彼女は毎日、業務の合間に詳細な業務日誌をつけ続けていた。
そこには、担当区域の状態、備品の在庫数といった通常の業務記録に加え、同僚の勤務態度に関する客観的な事実が、時刻と共に正確に記録されていた。
サラたちの妨害工作もまた、オルメの注意深い観察によってその詳細が記録されていた。
日誌には、このような記述が淡々と加えられていく。
『午前11時45分、使用人食堂にて。サラが私の配膳済みスープに自身の頭髪を混入させる行為を確認』
『午後2時10分、リネン室にて。サラによる意図的なインク瓶の損壊及びシーツの汚損を確認。偶然を装っているが、落下角度とタイミングから作為的なものと断定』
オルメは、これらの事実を誰かに訴え出ることはしなかった。
彼女にとって、サラたちの行動は業務を遂行する上で発生した「障害」の一つに過ぎなかった。
そして、障害は感情的に対処するものではなく、冷静に記録し、分析し、最適なタイミングで取り除くべきものだと考えていた。
エストノーラは、自室の窓から中庭を眺めているときに偶然その光景を目撃した。
オルメが洗濯物を干していると、サラの取り巻きの侍女が通りすがりにわざと洗濯カゴを蹴飛ばし、洗い終えたばかりの洗濯物を地面にぶちまけたのだ。
侍女は悪びれもせずに笑いながら去っていく。
しかしオルメは少しも動じなかった。
彼女は黙って洗濯物を拾い上げると、汚れた部分を魔法の「クリーン」で浄化し、再び何事もなかったかのように竿に干し始めた。
その一連の動きには、怒りも悲しみも、焦りすらも感じられなかった。
その姿を見て、エストノーラは胸を突かれたような衝撃を受けた。
自分に向けられてきた数々の悪意に対して、ただ怯え、心を閉ざすことしかできなかった自分。
それに比べてオルメはなんと強いのだろうか。
彼女の強さは、感情を殺しているからではない。
彼女が自身の「仕事」という確固たる軸を持っているからだ。
エストノーラは、自分もそうなりたいと初めて強く思った。
部屋に戻ったエストノーラは、机の上に置かれたままだった真新しい画材に目を向けた。
彼女はゆっくりと立ち上がると、椅子に座り、一本の鉛筆を手に取った。
最初は指が震えて、うまく線を引くことができなかった。
しかし、脳裏に先ほどのオルメの姿を思い浮かべると、不思議と心が落ち着いてきた。
彼女は新しい画用紙の上に鉛筆を走らせ始めた。
描いたのは、中庭で黙々と洗濯物を干す一人の侍女の後ろ姿だった。
その背中は、誰にも媚びず、何にも屈しない、静かな強さに満ちていた。
一方、ファルガード家のもう一人の令嬢アリーシャもまた、オルメという侍女の存在に注目し始めていた。
彼女はいつも自分を過剰に褒めそやす侍女たちに囲まれていたが、その賛辞が心からのものではないことを聡明な彼女は薄々感じていた。
ある日、廊下でオルメとすれ違った際、オルメはアリーシャと、その後ろを歩いていたエストノーラに対し、全く同じ角度で、全く同じ無表情で一礼して通り過ぎていった。
自分を特別扱いしないその公平な態度が、アリーシャには新鮮に映った。
なぜあの侍女は、なぜ、自分に媚びようとしないのだろう。
アリーシャの心に、この屋敷の歪んだ人間関係に対する小さな疑問の種が蒔かれた瞬間だった。
* * *
ファルガード伯爵家が年に一度主催する大規模な社交パーティーの開催が一月後に迫っていた。
屋敷全体が浮き足立ち、準備のために誰もが忙しく立ち働いている。
このパーティーは、伯爵家の権勢と財力を示す重要な場であり、今年は特に、社交界デビューを間近に控えた次女アリーシャの魅力を有力な貴族たちに披露する絶好の機会とされていた。
アリーシャのための新しいドレスが王都の有名デザイナーから届き、彼女の周りには常に華やいだ空気が流れていた。
その一方で、長女であるエストノーラの存在はほとんど無視されていた。
彼女もパーティーへの参加は義務付けられていたが、それはあくまで形式的なものだった。
侍女たちの間では、「どうせエストノーラ様は、また壁際で俯いているだけでしょう」「アリーシャ様の引き立て役ね」といった囁きが公然と交わされていた。
サラとその取り巻きたちにとって、このパーティーは、エストノーラに公衆の面前で決定的な恥をかかせるための最高の舞台だった。
彼女たちは、誰も注目しないのをいいことに、エストノーラのために用意されたドレスに悪質な細工を施す計画を立てていた。
リネン室の片隅で、彼女たちは声を潜めて悪巧みに興じていた。
「ねえ、サラ。本当にうまくいくかしら?」
「当たり前でしょ。このドレスの背中の縫い目、見て。普通の糸の上から、魔法で弱らせた特殊な糸で補強しておくのよ。少し体を動かしたり、誰かが軽くぶつかったりしただけで、見事に縫い目が裂ける仕掛けよ」
「まあ、すごい!パーティーの真っただ中で、背中が丸見えになるなんて!」
サラたちは下品な笑い声を上げた。
「陰気なエストノーラが、皆の前でみっともない姿を晒すのが楽しみだわ。これで、あの子もオルメも、自分たちの立場を思い知ることになるでしょう」
しかし、彼女たちのその会話は、別の人物の耳にも届いていた。
物陰で、次の業務で使う予定のワックスの在庫を確認していたオルメが、その計画の全てを聞いていたのだ。
サラたちが立ち去った後、オルメは物陰から姿を現した。
彼女の顔には何の感情も浮かんでいなかったが、その目は冷静に事実を分析していた。
『計画の首謀者はサラ。目的は、エストノーラ様への精神的ダメージ。使用される手段は、ドレスの構造的脆弱性を利用した意図的な破損。実行日はパーティー当日』
オルメは頭の中で情報を整理した。
彼女はこの問題を、自分が直接サラたちと対決して解決するつもりはなかった。
それは感情的な対立を生むだけで、根本的な解決にはならず、何より彼女の「仕事」の範囲を超えている。
最も効率的かつ効果的な方法は、この情報を、行動を起こす正当な権限と動機を持つ人物に渡すこと。
そして、その人物は屋敷に一人しかいなかった。
妹である、アリーシャ・ファルガードだ。
オルメは、静かにアリーシャの部屋へと向かうことを決めた。
オルメはアリーシャの部屋を訪ねた。
部屋では、アリーシャが侍女たちに囲まれ、パーティーで披露するダンスのステップを確認していた。
オルメの訪問に、アリーシャ付きの侍女たちは訝しげな視線を向けた。
「何の用?オルメ。ここはあなたの担当区域ではないはずよ」
オルメは彼女たちを一瞥した後、アリーシャに向かって深く一礼した。
「アリーシャ様。業務上の報告があり、参りました。少々お時間をいただけますでしょうか」
その毅然とした態度に、アリーシャは興味を惹かれた。
彼女は侍女たちを手で制し、「いいわ、聞きましょう。みんなは少し席を外してちょうだい」と命じた。
侍女たちが不満げに部屋を出て行くと、アリーシャはオルメに向き直った。
「それで、報告とは何かしら?」
オルメは、感情を一切排した事務的な口調で話し始めた。
「来たる社交パーティーにて、エストノーラ様が着用される予定のドレスについてです。先日、最終的な検分を行いましたところ、構造上の重大な欠陥が発見されました」
「欠陥ですって?」
アリーシャが眉をひそめる。
オルメは続けた。
「はい。具体的には、背部中央の縫合に使用されている糸の強度が、設計基準を大幅に下回っています。おそらく、外部からのわずかな張力が加わるだけで、縫合部が広範囲にわたって破損する可能性が極めて高いと判断されます。このままでは、パーティーの場でエストノーラ様が不測の事態に見舞われる危険性があります」
オルメはあくまで「構造上の欠陥」という客観的な事実として報告した。
誰がやったのか、なぜそんなことになったのか、という推測や非難の言葉は一切口にしなかった。
しかし、その言葉の裏にある真意をアリーシャが察せないはずはなかった。
姉に向けられてきた屋敷の中の悪意。
侍女たちの陰湿ないじめ。
その全てが、この「欠陥」という言葉の裏に透けて見えた。
アリーシャの顔から血の気が引いていく。
彼女は、心のどこかでずっと気づいていた。
姉が不当な扱いを受けていることに。
自分が寵愛される一方で、姉が日陰に追いやられていることに。
しかし、彼女はそれを見て見ぬふりをしてきた。
自分には関係ないことだと、目をそらしてきた。
その自分の卑劣さが、今、姉を公衆の面前で辱められるという最悪の事態を招こうとしている。
「…そう。分かったわ、オルメ。報告、感謝します」
アリーシャは震える声で言った。
彼女は強く拳を握りしめた。
もう、見て見ぬふりはしない。
姉様は、私が守る。
彼女は固く、そう決意した。
「下がっていいわ」
アリーシャの言葉に、オルメは静かに一礼し、音もなく部屋を退出した。
アリーシャは一人、部屋に残されると、すぐさま自分のクローゼットへ向かい、パーティーのために用意していた予備のドレスを力強く引きずり出した。
パーティー当日。
屋敷は煌びやかな照明と、着飾った招待客たちの華やかなざわめきに包まれていた。
エストノーラの部屋では、侍女が投げやりに例のドレスを彼女に着せようとしていた。
エストノーラは、そのドレスのデザインが自分にはあまりにも不似合いで、どこか悪意に満ちているように感じながらも、ただ無抵抗に従っていた。
その時、部屋の扉が勢いよく開かれ、アリーシャが息を切らしながら飛び込んできた。
彼女の手には、美しい夜空の色をした、上品なデザインのドレスが抱えられていた。
「お姉様、待って!」
アリーシャは侍女を押し退けると、エストノーラの前に立った。
「そのドレス、お姉様には似合わないわ!こちらのドレスのほうが、ずっと素敵です!」
そう言うと、アリーシャは有無を言わさず、エストノーラが着せられかけていたドレスを脱がせ、自分が持ってきたドレスに着替えさせた。
それは、アリーシャが自分のために用意していた予備のドレスだった。
控えめながらも洗練されたデザインと、深い青色が、エストノーラの白い肌と黒い髪を際立たせ、彼女の秘めた美しさを引き出していた。
「アリーシャ…どうして…」
戸惑うエストノーラに、アリーシャは力強く微笑んだ。
「お姉様は、私の自慢のお姉様ですもの。一番美しい姿でいなくちゃ」
アリーシャは自ら姉の髪を結い、ささやかなアクセサリーを飾りつけた。
鏡に映った自分の姿を見て、エストノーラは息をのんだ。
そこにいたのは、いつも陰鬱な表情で俯いている自分ではなく、まるで別人のように輝いて見える、一人の美しい令嬢だった。
パーティー会場の階下では、サラたちがエストノーラがいつ現れるかと、意地の悪い笑みを浮かべて待ち構えていた。
やがて、大階段の上に二人の令嬢の姿が現れると、会場の誰もが息をのんだ。
光り輝くような美貌のアリーシャと、その隣に立つ、静かな月の光のような気品をまとったエストノーラ。
二人の姉妹が並び立つ姿は、完璧な調和を生み出し、見る者すべてを魅了した。
サラたちは、自分たちの計画が完全に失敗したことに気づき、悔しげに唇を噛んだ。
エストノーラが着ているのは、自分たちが細工したドレスではなかった。
そして、何よりも彼女たちを苛立たせたのは、エストノーラが妹の隣で、怯えることなく、穏やかな表情で立っていることだった。
パーティーが最高潮に達した頃、アリーシャが父である伯爵と招待客たちの前に進み出て、声を張り上げた。
「皆様!本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。今宵、皆様にご紹介したいものがもう一つございます」
会場の注目がアリーシャに集まる。
彼女は、大きなイーゼルに立てかけられ、布で覆われた一枚の絵の隣に立つ。
「こちらをご覧ください。これは、私の最愛の姉、エストノーラが描いた作品です」
アリーシャが布を取り払うと、そこに現れた絵に、会場はどよめきに包まれた。
描かれていたのは、陽光が差し込む書庫で、静かに本を読む一人の侍女の姿だった。
それは、オルメだった。
絵の中のオルメは、現実の彼女と同じように無表情だった。
しかし、その圧倒的な画力、光と影の巧みな表現、そして被写体の内面までをも描き出すかのような洞察力に、芸術に造詣の深い貴族たちから、次々と称賛の声が上がった。
「素晴らしい!これは、アカデミーの画家にも引けを取らないぞ!」
「なんと繊細な筆致だ…この若さでこれほどの才能とは…」
当主であるファルガード伯爵は、娘の隠された才能に驚愕し、言葉を失っていた。
彼はこれまで、内向的な長女を厄介者とさえ感じていた自分を恥じた。
彼はエストノーラの方へ歩み寄り、その肩を力強く抱いた。
「エストノーラ…すまなかった。お前に、これほどの才能があったとは…」
エストノーラは父の言葉に戸惑いながらも、隣でしっかりと手を取ってくれる妹の顔を見上げた。
アリーシャは、満面の笑みで頷き返した。
エストノーラは、招待客たちの称賛と、父の驚きと、妹の温かい眼差しに包まれ、生まれて初めて、心からの自信に満ちた笑みを浮かべた。
二人の令嬢が共に手を取り合い、輝く姿は、ファルガード伯爵家の新しい時代の幕開けを、誰の目にも明らかにした。
その頃、会場の隅にある配膳室では、オルメが静かにグラスを磨いていた。
パーティーの喧騒も、招待客たちの称賛も、彼女には届いていないかのようだった。
彼女は磨き上げたグラスを光にかざし、一点の曇りもないことを確認すると、次のグラスを手に取った。
彼女はただ、自身の「仕事」を遂行しているだけだった。
しかし、その結果として生まれた光景を、壁の鏡に映るその姿を、彼女はただ黙って見つめていた。
彼女の業務日誌には、その夜、こう記されることになる。
『午後9時15分、大広間にて。アリーシャ様により、エストノーラ様の絵画が公式に披露される』
* * *
社交パーティーでの一件は、ファルガード伯爵家に決定的な変革をもたらした。
長女エストノーラの類稀なる才能と、それを誇らしげに紹介した次女アリーシャの姿は、招待客の間で大きな話題となった。
同時に、これまでエストノーラが屋敷内でいかに不当な扱いを受けていたかという噂も、皮肉にも広まることになった。
当主であるファルガード伯爵は、外部からの評判と、何より娘たちの真の姿を全く理解していなかった自身を恥じた。
パーティーの翌朝、伯爵は侍女長を自身の書斎に呼び出し、厳しい口調で問いただした。
「一体どういうことだ。長年、この屋敷の運営、特に使用人たちの管理を君に任せてきたが、長女エストノーラがこれほどの才能を持ちながら、なぜ誰一人として私に報告しなかった?」
「それどころか、彼女が屋敷内で孤立し、不当な扱いを受けていたという噂まで耳にした。君は一体、何を見ていたのだ!」
侍女長は青ざめ、しどろもどろに言い訳を並べた。
「も、申し訳ございません、伯爵様。エストノーラ様は、その、あまりお話をなさいませんので……侍女たちも、どう接してよいか戸惑っていたようで……」
その答えに、伯爵は失望を隠さなかった。
彼はこれまで、家庭内の細々とした事柄を侍女長に任せきりにし、自身は領地の統治と対外的な政治活動に没頭してきた。
その結果が、娘一人の苦悩にさえ気づけないというこの有様だ。
伯爵は自責の念に駆られながら、断固たる決意を固めた。
「もはや言い訳は聞かん。この屋敷の規律は乱れきっている。徹底的な内部調査を行い、膿を出し切る。全ての使用人を対象とし、勤務実態、人間関係、あらゆる問題を洗いざらい報告させよ。不正や怠慢が発覚した者には、厳罰をもって処す」
伯爵の厳命が下り、屋敷は騒然となった。
特に、これまでエストノーラを虐げ、サラを中心に派閥を形成していた侍女たちは、恐怖に顔を引きつらせた。
彼女たちは互いに責任をなすりつけ合い、自分たちの悪事が露見することを恐れた。
調査は始まったが、長年の慣習と口裏合わせにより、なかなか真相は明らかにならなかった。
誰もが、自分の保身のために嘘をつき、事実を隠蔽しようとしたからだ。
調査は難航し、伯爵も苛立ちを募らせていた。
その膠着した状況を打ち破るものが、静かにもたらされたのは、調査開始から三日後のことだった。
伯爵が書斎で調査報告書に目を通し深いため息をついていると、控えめなノックの音がした。
入室を許可すると、そこに立っていたのは侍女のオルメだった。
彼女は分厚い革のファイルブックを抱えていた。
「伯爵様。お呼びでないところ、失礼いたします。内部調査に関連し、報告すべき事項がございます」
伯爵は眉をひそめた。
一介の侍女が当主である自分に直接報告に来ることなど前代未聞だったからだ。
しかし、パーティーでの一件で、この侍女が娘たちの変化のきっかけとなったことを知っていた伯爵は、話を聞くことにした。
「何だ、申してみよ」
オルメは無表情のまま書斎の中央に進み出ると、抱えていたファイルブックを伯爵の机の上に静かに置いた。
「こちらは、私がファルガード家に仕えて以来、記録し続けている業務日誌です。侍女長には幾度か提出は致しましたが、いつも、ものの数分で返されていたものです。しかし、今回の調査に必要な情報が含まれていると判断し、この場で直接、お目通しいただきたく、お願い申し上げます。」
伯爵は訝しげにファイルブックを開いた。
そこに記されていたのは、几帳面で隙のない文字で綴られた日々の業務の記録だった。
しかし、その内容は単なる作業日誌ではなかった。
日付、時間、場所、担当業務といった基本情報に加え、屋敷内の備品の在庫変動、各区域の清掃状況、そして同僚である使用人たちの勤務態度に至るまで、あらゆる事実が客観的かつ詳細に記録されていたのだ。
ページをめくる伯爵の手が、ある箇所で止まった。
それは、サラたちによるエストノーラへの嫌がらせが克明に記された部分だった。
『XX年X月X日 午前10時15分、北三階、エストノーラ様居室前。侍女サラ、及び侍女セレス、アンナが、エストノーラ様の食事用トレイに対し、意図的に足を引っかけ転倒させる。エストノーラ様に怪我はなし。床の汚損、食器の破損を確認』
さらに、記録は彼女たちの職務怠慢にも及んでいた。
『XX年X月X日 終日。客室担当の侍女サラ、アンナ、清掃業務を放棄し、リネン室にて3時間以上の私語。結果、客室の準備に遅延発生』
そして、伯爵を最も驚愕させたのは、最後の数ページにまとめられた備品の横領に関する記録だった。
『XX年X月X日 深夜0時30分。侍女サラ、食料庫より高級ワイン及び燻製肉を無断で持ち出し、裏口にて待機していた男に引き渡す現場を目撃。過去の在庫記録と照合した結果、数ヶ月にわたり、同様の不正横領が繰り返されていたものと断定。推定被害額、金貨XX枚』
そこには、いかなる言い訳も通用しない、揺るぎない「事実」だけが、冷徹なまでに正確に記されていた。
伯爵は怒りに震えながら顔を上げた。
オルメは、ただ静かに、その場に直立していた。
オルメの業務日誌は、決定的な証拠となった。
伯爵は直ちにサラとその一派、そして管理責任を問われた侍女長を呼び出した。
日誌に記された事実を一つ一つ突きつけられると、彼女たちは顔面蒼白となり、もはやいかなる嘘も言い逃れもできなかった。
サラは備品の横領という重大な犯罪行為まで明るみに出され、その場で衛兵に取り押さえられた。
彼女たちは全員、即日ファルガード家から追放されることとなった。
去り際にサラは憎悪に満ちた目でオルメを睨みつけたが、オルメは表情一つ変えず、ただ静かに一礼するだけだった。
屋敷に巣食っていた腐敗が一掃され健全な秩序が戻ると、ファルガード家の姉妹はそれぞれ新しい道を力強く歩み始めた。
伯爵はエストノーラの才能を最大限に伸ばすべく、王都で最高の美術教育を受けさせることを決定した。
高名な画家に師事し、王立アカデミーへの入学を目指すのだ。
エストノーラが王都へ旅立つ日、彼女はオルメを自分の部屋に呼んだ。
「オルメ。あなたがいなければ、私は今もこの部屋で、心を閉ざしたままだったでしょう」
エストノーラはまっすぐにオルメの目を見て言った。
「あなたが私のショールを直してくれた時、私に向けられた悪意を、私は初めて、自分のせいではないのだと思えました」
「……」
「あなたが私の絵を見て、何も言わずに画材を用意してくれた時、私はもう一度、描いてみようという勇気をもらいました」
「……」
「あなたのおかげで、私は自分の世界を見つけることができました」
「……」
彼女はオルメに向かって深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
オルメは、その心からの感謝の言葉を受けても、いつものように淡々としていた。
「私は、私の職務を遂行したに過ぎません。エストノーラ様がご自身の力で道を見つけられたのです。王都でのご活躍をお祈りしております」
一方アリーシャは、姉をサポートする過程で、この屋敷や領地の運営そのものに強い関心を持つようになっていた。
彼女は、姉への不当な扱いがずさんな管理体制から生まれていたことを痛感していた。
彼女は父に申し出て、正式に領地経営を学び始めた。
その聡明さと行動力で、彼女はめきめきと頭角を現し、伯爵の信頼できる補佐役へと成長していく。
姉妹がそれぞれ自分の進むべき道を見つけたことで、ファルガード家には新しい風が吹き始めていた。
全ての混乱が収束した数か月後、伯爵はオルメを自室に呼び出した。
机の上には、例の業務日誌が置かれている。
「オルメ。君のこの記録が、この屋敷を救ったと言っても過言ではない。君の忠誠心と、その卓越した業務遂行能力に心から感謝する」
伯爵は穏やかな表情で言った。
「君のような人材こそ、この屋敷を正しく導く者にふさわしい。前侍女長の後任として、君に新しい侍女長への就任を要請したい。引き受けてくれるかね?」
それは、一介の侍女としては破格の出世だった。
しかし、オルメは表情一つ変えなかった。
彼女は少しの間沈黙した後、静かに口を開いた。
「お受けするにあたり、一つ確認させていただきたいことがございます」
「何だね?」
「侍女長という役職は、これまでの侍女としての業務に比べ、格段に責任が重くなります。その責任に見合った報酬を、私は要求いたします。現在の私の給与の三倍、及び、屋敷の運営改善に関する一定の裁量権。この条件をお認めいただけますでしょうか」
そのあまりに率直で現実的な要求に、伯爵は一瞬呆気にとられたが、すぐに愉快そうに笑い出した。
「ははは、面白い!忠誠心からではなく、あくまで仕事として引き受ける、か。君らしいな。よかろう、その条件を全面的に受け入れよう」
伯爵が笑顔で頷くと、オルメは一礼した。
「承知いたしました」
その言葉だけを残し、彼女は部屋を辞した。
侍女長となったオルメは、早速屋敷の改革に着手した。
彼女はまず、全ての使用人の業務内容と能力を再評価し、年功序列や派閥といった旧来の慣習を撤廃。
実力と成果のみを評価する効率的な人事システムを導入した。
業務マニュアルを整備し、誰が担当しても一定の質が保たれるようにした。
無駄な作業を徹底的に洗い出し、魔法技術を導入することで労働時間を短縮し、使用人たちの労働環境は劇的に改善された。
最初は彼女のドライなやり方に戸惑っていた使用人たちも、次第に公正な評価と働きやすい環境に満足し、誰もが自身の仕事に誇りを持つようになった。
数年後。
高名な若手芸術家として名を馳せたエストノーラが、王都から屋敷に帰還した。
彼女を迎えたのは、父である伯爵を支え、若くして立派な領地経営者へと成長したアリーシャと、変わらぬ佇まいで完璧に差配された屋敷を背後に控える侍女長のオルメだった。
穏やかな午後の陽光が降り注ぐ庭園で、エストノーラとアリーシャはオルメをテーブルに誘った。
「オルメも、一緒に。あなたがいなければ、今の私たちはいなかったのだから」
オルメは少しだけ逡巡した後、「業務に支障のない範囲で」と断り、二人の前に腰を下ろした。
アリーシャが淹れた紅茶の豊かな香りが立ち上る。
エストノーラが描いた新しい絵の話、アリーシャが進める領地の改革の話。
姉妹の弾むような会話を聞きながら、オルメは静かに紅茶を一口飲んだ。