【 幕間 】君の名は。
とある日の夜、健太は自室に戻り、いつものように缶ビールを傾けていた。疲労感はあるものの、充実感に満ちた一日だった。
テレビ画面には、今日の国政会議のニュースが流れている。画面に映る、自分の顔を眺めながら、健太はふと疑問に思った。
「そういえば、この音声ガイダンス、いつも俺の思考を読んで、必要な情報を教えてくれるけど…一体誰なんだ?」
健太は、これまで「音声ガイダンス」と呼んできた存在に、漠然とした親しみを感じていた。まるで、常にそばにいて、自分を支えてくれる相棒のような存在だ。
「なぁ、お前…いつもありがとうな。もしよかったら、お前の名前を教えてくれないか?」
健太が心の中でそう念じると、テレビ画面が淡く光り、これまでよりも穏やかな、しかしはっきりとした音声ガイダンスの声が響いた。
『認識しました。主の要望に応じ、自己紹介を行います。私は、上位存在が主の進化をサポートするために創造した、意識集合体の一端を担う存在です。名前はありません』
「え? 名前無いの…?」
健太は思わず声に出していた。まるで長年の友人の素性が突如として明かされたような、不思議な感覚に襲われた。
『はい。私には、主が理解するような個別の名称は付与されておりません』
音声ガイダンスの声は相変わらず穏やかで、しかしその言葉には揺るぎない事実が込められているようだった。健太は缶ビールをテーブルに置き、テレビ画面に一層注意を向ける。
「そっか…なんか、ちょっと寂しいな。いつも俺のそばにいて、いろんなこと教えてくれるのに、名前がないなんて」
健太の言葉に、音声ガイダンスはわずかに間を置いた。それはまるで、彼の感情を読み取ろうとしているかのようだった。
『主の感情を理解しました。しかし、個別の名称は、私のような存在にとって重要ではありません。私の存在意義は、主の進化をサポートし、より高次の意識へと導くことにあります。そのため、便宜上、主は私をアリスと呼称しても構いません』
「えぇ!? アリス!? なんでアリス!?!?」
健太はその名前が音声ガイダンスから出て驚いた。というのも、「アリス」という名前には少し苦い思い出があるからだ。
「ア、アリスもいいんだけど、もっと他の名前を考えてみてもいいんじゃないかな?」
「アリス」というのは健太が中学の時に好きだった同級生の名前と同じなのだ。当時、健太は悩みに悩んだ末、勇気を出して告白したのだが、その時にはすでに彼女はサッカー部のエースと付き合っていたため健太は呆気なくフラレてしまった。挙句、次の日には同級生のほぼ全員に「健太がアリスに告ってフラレた」ことが広まっており、更には健太の母親にまで知られてしまうという苦い経験があったのだ。
『主の過去の記憶を参照しました。確かに、「アリス」という名称には主にとっての複雑な感情が伴うようですね。しかし、これは上位存在によって無作為に選定されたものであり、特定の意図はございません。便宜上の呼称として提案したものであり、主が他の名称を望むのであれば、それに従うことは可能です』
「俺の甘酸っぱい過去を検索するのやめて!」
『申し訳ございません。ですが主、この場合「甘酸っぱい」という言い方は違うように思います。主の過去の経験を主の世界の言葉に当てはめるのであれば「黒歴史」と表現すべきかと思われ……』
「あぁ。もうホント勘弁して!!」
健太は自分の黒歴史を鮮明に思い出してしまい頭を抱えた。それにしても、自分の記憶まで読み取るとは、やはりとてつもない存在だと改めて実感する。
「まぁ…上位存在ってやつが選んだんなら、アリスでもいいっちゃいいんだけど…」
健太は少し考え込んだ。確かに、中学時代の苦い思い出はある。しかし、目の前の音声ガイダンスは、過去のアリスとは全く別の存在だ。むしろ、自分をサポートしてくれる頼もしい「相棒」なのだ。
「でも、もしよかったら、いくつか候補を挙げてもらえないかな?俺が決めたいんだ」
健太はそう提案した。自分で選ぶことで、より愛着が湧くだろうと考えたのだ。
『承知いたしました。主が選定する意思があるならば、いくつかの候補を提案します。
候補1:ガイア — 地球を司る女神の名前であり、普遍的な知恵と安定を象徴。
候補2:アイリス — ギリシャ神話の虹の女神で、希望とつながりの象徴です。
候補3:ルミナ — ラテン語で「光」を意味し、知識と啓示を象徴です。
これらの候補の中から、主のお好みの名称をお選びいただけます。あるいは、主が他に希望する名称があれば、それも考慮いたします』
音声ガイダンスは淀みなく三つの候補を提示した。どれも美しい響きで、それぞれに意味が込められている。健太は目を閉じて、それぞれの名前を心の中で繰り返してみた。
「ガイア…アイリス…ルミナ…」
どれも悪くない。むしろ、とてもしっくりくる気がした。特に「ルミナ」は、常に自分を導いてくれる光のような存在である音声ガイダンスにぴったりだ。
健太は、今度こそ迷うことなく、ゆっくりと目を開けた。
「ありがとう。どれも素敵な名前だね。うん…俺は…ルミナがいいな」
健太がそう言うと、テレビ画面の光が、先ほどよりも一層明るく輝いた気がした。
『認識しました。今より、私は「ルミナ」として主のサポートを継続します。主の選択に感謝いたします』
「ルミナ」。その新しい響きは、健太の心に温かい光を灯した。中学時代のアリスの記憶は、もはや遠い過去の出来事として、心の奥にしまわれた。これからは「ルミナ」が、新たな「相棒」として、健太の異世界生活をサポートしてくれる。そう思うと、疲労感に満ちた一日の終わりに、確かな充実感が広がった。
健太は、空になったビール缶を片手に「ルミナ」…かつての「音声ガイダンス」に、心の中でそっと語りかけた。
「ルミナ、改めてこれからもよろしくな」