嘆きの森
健太とルミナを乗せた馬車は、アバンの町を後にし、東へと進路を取った。石畳の道がやがて土の道に変わり、両脇には木々が生い茂る。ルミナが手綱を握り、音もなく馬車を走らせるその姿は、まるで森の精霊のようだった。健太は馬車の窓から顔を出し、アバンの喧騒が遠ざかっていくのを肌で感じていた。
「ルミナ、次はどこへ行くんだ?」
健太の問いに、ルミナは翠の瞳を輝かせながら微笑んだ。
『主の望むままに。この世界は広大です。これまでのような快適な道ばかりではありませんが、それがまた、旅の醍醐味となるでしょう』
ルミナの言葉に、健太は胸の高鳴りを感じた。天空の舟での移動は便利だったが、空からでは見ることのできなかった細かな景色、匂い、音。それらすべてを五感で感じられる馬車での旅は、健太の好奇心を強く刺激した。
数日間、馬車は広大な平原を東へと進んだ。日中はルミナからこの世界の地理や歴史、文化についての知識を教わり、夜は焚き火を囲んで語り合う。
時折、小さな村に立ち寄ることもあった。アバンでの経験のおかげか、健太は以前よりも積極的に村人たちと交流するようになっていた。彼らの素朴な生活や、この土地ならではの言い伝えを聞くことは、健太にとって大きな喜びだった。歯磨き粉や石鹸は、健太が訪れる村々でも大好評で、あっという間に「旅の薬師」としての評判が広まっていった。
「健太さんのおかげで、歯の痛みが和らいだだよ!本当に助かった!」
老いた村人が、涙ながらに感謝を伝える。その言葉を聞くたびに、健太の胸は温かくなった。アストリアでの経験から、一度は人の役に立つことに臆病になった健太だったが、純粋な感謝の言葉は、彼の心を癒し、自信を与えてくれた。
しかし、そんな平穏な旅路も、永遠には続かなかった。
ある日の夕暮れ、馬車は深い森の入り口に差し掛かっていた。昼間とは打って変わって、森の中は薄暗く、不気味な雰囲気が漂っている。木々の間から聞こえる獣の鳴き声は、どこか威嚇的で、健太の肌を粟立たせた。
「ルミナ、この森、なんだか嫌な感じがするな……」
健太の言葉に、ルミナは手綱を引く手を緩め、馬車を止めた。
『主の直感は正しいようです。この森は『嘆きの森』と呼ばれ、危険な魔物が多数生息しています。特に夜間は、生半可な冒険者では立ち入るべきではないとされています』
ルミナの表情は、いつもよりも真剣だった。健太は息を呑む。アバンで出会った冒険者たちが、この森について警告していたことを思い出した。特に、この森の奥には、冒険者ギルドでもA級以上の依頼にしか登場しないような強力な魔物が生息していると。
「引き返そうか?それとも、ここで野営する?」
健太が尋ねると、ルミナは静かに首を横に振った。
『残念ながら、この森には安全な野営地はほとんどありません。そして、引き返すには時間がかかりすぎます。私たちはこの森を抜け、明日中には次の町に到着する予定でした』
健太はごくりと唾を飲み込んだ。初めて感じる、旅の途中の張り詰めた空気だった。ルミナが手綱を握り直し、再び馬車を進めようとした、その時。健太の脳裏に、とある考えが閃いた。
「ルミナ!もしかして、『家』を召喚できないか?」
健太の言葉に、ルミナは翠の瞳を丸くした。
『主、『家』の召喚は可能です。しかし、この森は魔物の縄張りです。認識阻害の結界を張ったとしても、大型の魔物には感知される可能性があります。それに、万が一の事態に備えて、馬車を隠す場所も必要になります』
ルミナは、いつになく慎重な口調で答えた。彼女の言葉は理にかなっている。だが、健太は今の自分ならできる、という確信めいたものがあった。
「分かってる。でも、普通の野営じゃ危険すぎるだろ?それに、もし何かあったとしても、俺の家なら万全の防備がある。ルミナが警告するような危険な場所だからこそ、『家』の出番じゃないか?」
健太は、自分の提案に力説した。アストリアで「家」に守られた経験、高原や湖畔での安心感、そしてアバンでの新たな挑戦を経て、健太は自分の「家」とルミナの能力に絶対の信頼を置いていた。
そして、何より、この危機的な状況で、ただルミナに頼るだけでなく、自分から解決策を提案したいという、小さなプライドもあった。
ルミナは健太の顔をじっと見つめ、やがてフッと笑みを浮かべる。俺のことなどルミナには全部お見通しなのかもしれない。
『承知いたしました。主のご希望とあらば』
ルミナはそう言うと、馬車を森の奥へと、わずかに進ませた。木々が少しだけ開けた場所に差し掛かると、彼女は馬車を停めた。
『このあたりでしたら、周囲の木々を利用して、馬車と『家』を隠すことが可能です。ただし、結界の維持には常に魔力を供給し続ける必要があります』
健太は頷いた。
「よし、頼む!」
ルミナの声と共に、空間が歪み、健太のマンション一室である「家」が静かに森の中に現れた。周囲の木々が、まるで「家」を包み込むかのように配置されている。その隣には、巧みに隠された馬車も確認できた。認識阻害の結界が張られ、森の風景に完全に溶け込んだ。しかし、健太の視点からは、その巨大な存在感がはっきりと感じられている。
「相変わらず、便利だなあ」
健太は苦笑しつつ、「家」のドアを開けた。窓からは、鬱蒼とした森の木々が間近に見える。ひんやりとした森の空気が心地よかった。
『では、主。今夜はここで休息を取りましょう。私は少し家の周囲を見回りしてきます』
ルミナはそう言うと、御者台から立ち上がり、そのまま森の中に溶け込むかのように消えていった。彼女の気配は、魔物で溢れるこの森でも、全く感じ取ることができない。その完璧な隠密能力に、健太は改めて感嘆した。
健太は「家」の内部へと入った。リビングの窓から見えるのは、昼間とは一変した、闇に包まれた森の姿。木々のざわめきや、遠くで聞こえる獣の鳴き声が、一層その危険性を物語っている。しかし、健太は不思議と恐怖を感じなかった。ここが、自分の「家」であるという安心感が、それを上回っていたからだ。
温かいシャワーを浴び、周辺パトロールから戻ってきたルミナが用意してくれた豪華な食事を摂る。ふかふかのベッドに横たわると、健太は一日の疲れが癒されていくのを感じた。
「こんな危険な森で、こんな快適に過ごせるなんて……」
健太は思わず呟いた。これは、ルミナの力がなければ決してできないことだ。そして、彼は改めて、この「家」というチートな存在が、自分にとってルミナと同じくらい心強い相棒であるかを実感した。
しかし、その快適さとは裏腹に、健太の意識は常に森の奥へと向いていた。今この瞬間も、隣の部屋で寝ているルミナの能力が自分を守ってくれている。ただ守られるだけではなく、自分も何かできることがあるはずだ。
その夜、健太は眠りにつく前に、アバンの町の老魔術師からもらった巻物を広げた。そこには、魔力を可視化するゴーグルの簡易版の作り方や、簡単な結界術、そして回復魔法の基礎が記されていた。健太は、いつかルミナと肩を並べられるようになるために、地道な努力を重ねようと決意した。
翌朝、健太は目覚めるとすぐに窓の外を見た。森は夜の闇から解放され、朝日に照らされている。しかし、その静けさの中に、昨日とは異なる緊張感が漂っているのを健太は感じ取った。
「ルミナ?」
健太が呼びかけると、ルミナがリビングに現れた。彼女の表情は、いつもと変わらない冷静さを保っているが、その瞳の奥に微かな疲労が見て取れた。
『主、おはようございます。夜間、数体の魔物が結界に接触しましたが、感知されることはありませんでした。しかし、今朝方、ダークウルフの気配を感知しました。一昨日の個体とは別種のようです。しかも、複数います』
ルミナの言葉に、健太は息を呑んだ。ダークウルフ。あの巨大な狼が、複数。
「引き返すべきでは?」
健太の問いに、ルミナは首を横に振った。
『彼らは、私たちがこの森を通過しようとしていることを察知しています。おそらく、馬車の匂いを辿ってきているのでしょう。引き返しても、追いかけてくる可能性が高いです。ここは、彼らの縄張りの中心に近づいているため、私たちが進むか、ここで彼らを退けるか、どちらかを選ぶ必要があります』
ルミナの言葉に、健太は決意を固めた。
「よし、戦おう。この森を、俺たちの力で突破するんだ」
健太は、リビングのテーブルに、この森に生息する魔物の情報が載った地図を広げた。ルミナが森の奥へと進むルートを示し、その周辺に生息する魔物の種類や、行動パターンを説明していく。
『主、ダークウルフは非常に賢く、集団で獲物を追い詰めます。彼らは音に敏感で、嗅覚も優れています』
ルミナの説明を聞きながら、健太は自分の持つ知識と、魔術師の谷で得た知識を組み合わせ、対策を練り始めた。
「よし、ルミナ、俺に任せてくれ。いくつか試したいことがある」
健太はそう言うと、ルミナに、以前作成した特殊な煙幕弾をさらに改良したものを用意するよう頼んだ。それは、単純な催涙効果だけでなく、一時的に魔物の嗅覚を麻痺させる効果を持つものだった。さらに、魔術師の谷で覚えた簡単な音響魔法で、魔物を誘導する作戦も考えた。
『主、それらの魔物誘導は、魔力が枯渇する可能性もございます。そして、この場所は…』
ルミナが言いかけたその時、健太はルミナの手を取った。
「俺はもう、ただ守られるだけの存在じゃない。それに、もし俺の魔力が足りなくなったら、ルミナが助けてくれるだろ? 俺の相棒は優秀だからな」
健太の言葉に、ルミナは再びフッと微笑んだ。
『はい、主。そのお言葉、嬉しく思います。承知いたしました。主のご指示に従い、全力でサポートさせていただきます』
健太はルミナの笑顔を見て覚悟が決まった。恐怖で震えている手を、彼は拳を握りしめることで誤魔化した。




