前編 帰ってきた貴子
貴子が帰ってきた。一週間ぶりの登校で。
鋼鉄のマシンボディを持つ守衛に笑顔を向けて正門を抜ける貴子は、貴子だった。
一番驚いていたのは、鳴海だと思う。私は言葉がなかった。
私と鳴海、どちらが最後に詰め寄ったのかは、分からない。
確率は半々。ちょっとした、誰がシーザーを殺したか、だ。
シーザーと貴子が違うのは、どちらも貴子に触れはしなかったこと。ただ、鳴海が激しく非難して、つられて私も詰め寄って――ちょっとしたはずみだった。
鳴海の彼氏の早野浩二を、貴子が寝取ったとかなんとか、そんなつまらない理由。
河川敷の橋の下。
太陽みたいにまぶしい鳴海。月のようにやわらかな貴子。
どちらをも見上げるだけの、どっちつかずの私。
私たち三人のグループは、ずっと仲良くやっていた。
誰かを好きになるのは仕方がない。心変わりだって、仕方がない。
ともかく、鳴海は私を引き連れ、貴子は追いつめられて後退り、足を滑らせた。
河原の石、ぬめっていて、打ちどころが悪かった。
ただそれだけの、不幸な出来事。
状況は違うけれど。今朝は教室で、鳴海と私は同じく、貴子に詰め寄っていた。
何の恐怖も見せずふわりと笑ったまま、貴子が私を見て言った。
「どうしたの茉奈ちゃん、怖い顔して」
背筋が粟立つ。たしかに貴子だ。私たちと同じ高校のブレザーを着た、貴子だ。
いつもみたいにまあるいとぼけた声で、私たちに笑いかけてる。
とまどいながらもどうにか取り繕って、鳴海は親友に問いかけた。
「あら、もうお怪我はよろしくて?」
箱入りのお嬢様なのに、彼女は度胸をみせた。そ知らぬ顔をして、鳴海は何事もなかったのだと親し気に、貴子の身を気づかった。
あれからもう一週間が経つ。とっくに何か事件になっていてもおかしくないのに、なしのつぶて。パトカーのサイレンを遠く聞いて眠れない夜を過ごし、いつニュースに自分の名が上がるのかと怯え、この七日間を過ごしていたというのに。
「だいじょうぶだよ、鳴海ちゃん。ちょっとぶつけただけだから」
なぜぶつけたのか、まるで知らない口ぶりだ。
激昂する鳴海に怯えて、泣きはらして、恐怖を覚えながら、それでも早野との仲を認めて欲しいと、哀願していたのに。
「そうだ、浩二くんは?」
愛し気に、貴子は鳴海から奪った男の名を口にした。
鳴海の顔に暗い翳が挿す。
それが元で酷い目に遭ったにもかかわらず、なんのくったくもなく、貴子は恋人の名を呼んだ。月の光が太陽に帳を落としたようだった。
「ええと……あなたに伝え――」
言いかけた鳴海の告白を、気の抜けた中年男の声が遮った。
貴子は振り向いて背を見せ、自分の席へと戻っていった。
「ほーい、お前ら席につけー。最初にちょっと話あるからあ、静かにしてー」
はたはたとタブレットを振りながら、担任の安浦はクラスの視線を一身に受けた。
まばらに席に着きながら、みんなの顔は一様に教壇へと向けられた。
きっと、同じことを思っているだろう。私もだ。さっきからずっと、ずっと。
なぜ、死んだ人間が、ここに?
先週、涙ながらにそれを語ったのは、安浦先生本人だった。
「三上貴子さんのことで、お話があります」
妙にあらたまって、安浦先生は話しを始めた。室温が二度は下がった。
「えーと、まず先生、謝らなくてはなりません。もうみんな知っての通り、三上さんは、亡くなっていません」
分かり切った手のひら返しに、それでも教室中がどよめいた。
静かに静かにと、先生は両手を何度も上下に振った。
「三上さんはこの一週間、学校を休んでいただけです。詳しい理由はプライベートなことなので、控えます。察してください。彼女は重い怪我をしまして、しばらく入院していたのです。それで、ここからが大事なことなのですが――」
これほど真剣に、先生の話を聞いたことは無い。話が下手で授業のつまらない教員ベスト3に入る男が、奇妙なほどに淀みなく、セリフを綴っている。
「三上さんは怪我の後遺症で、少し記憶に欠落があります。一週間前の前後数日分について、記憶が曖昧なのです。ですから話が合わなかったり、おかしなことを言っても、多めに見てあげてください」
思わずふたつ左隣に座る鳴海と、目配せを交わした。覚えて、いない?
貴子は席から軽く立ち上がって、ぐるりと一周しながら教室の皆にお辞儀をしてみせた。にっこりと、笑顔を添えて。つられて皆も、会釈を返した。
「三上さんは、みんなのことはちゃんと覚えています。そこは安心してください。一週間ほど前の記憶が、少し曖昧なだけです。そういうことで、お願いします」
大事なお話は以上――とふっつり、気が抜けたみたいに、先生の口調はいつもの気怠いものに戻った。やっと大役を果し終えた、練習してきた長台詞をどうにか言い終えた、そんな雰囲気だった。
「あー、あとの連絡事項はなぁ」と間延びした声で話し始めたけれど。
そのあとの連絡事項なんて、私の頭にはろくに入りはしなかった。
§
河原で石を枕にぐったりと横たわった貴子を、私はただ眺めるだけでいた。
となりでせわしなく、鳴海がスマートデバイスの画面に指を滑らせていた。
ほどなくして、人が来た。よく聞くサイレンはなかった。車は二台。
黒服や、白服の人たち。慌ただしく貴子を担架にのせて。白服の一人はなんと言ったっけ……心肺停止、だったか。黒服は鳴海の家の人たち、葛城家の使用人だろう。
〈HIT〉と刻印された白いバンに載せられ、貴子の肉体はどこかへ運び去られた。
鳴海は黒服の男たちに支えられて、別の車に乗せられ、家に帰った。
河原に残されたのは、茫然と夕日を眺める私と、夕焼けに血の色を濃くする河原の石だけだった――
午前の授業が終わるとすぐに、昼食を得ようと購買部の雑然とした列に加わりながら、私は一週間前の出来事を思い返していた。
ずっと怖い思いをして過ごしていた。でも、貴子は帰ってきた。
お咎めはもう、なしなの? あのときのこと、貴子は覚えていないの?
秋の空は澄み切って晴れやかなのに、私の心は嵐を告げる雲みたいに重かった。
校庭の片隅の木陰が、私たち三人にとってのいつもの場所。
鳴海と貴子は、食事の準備を済ませていた。
これまでと同じく鳴海は、家付きのシェフが作ったランチボックスを広げている。
貴子は。本当なら家からやぼったい小さな弁当箱を持ってきているはずだった。
けれどベージュの手袋に包まれた彼女の手には、水筒というには仰々しい、見慣れない筒が握られていた。
四〇センチぐらいの長さをしたアーモンド色の、半透明な円い筒。
私を見上げてすがる鳴海の視線が、少し痛い。
気高く傲慢に振舞う女だけれど、親の財力という肥料が役に立たない場面では案外と、か弱い女の子なのかもしれなかった。
少しだけ憐れに思って、薄い笑みだけをひとつ、ようやくに返した。
鳴海と貴子の前に座り、三人でトライアングルを描いた。
「みんなで食べましょう」と、鳴海はサンドイッチの入った小箱を、貴子に薦めた。
一人減ったと分かっているのにこの一週間、鳴海はかかさず自分では食べきれない量のランチボックスを持参していた。
貴子は、不思議な円筒を抱えたままだった。
「おかえり、貴子」と、私はランチパーティーの開催を宣言する。
待ってたよと、試しに添えた。遅れて鳴海も、貴子の帰還をことほいだ。
乾杯で祝辞に応えるように貴子は――薄茶色の泥のような何かを、飲んだ。
見慣れない水筒の中身は、とても人の食べるものには見えなかった。
「おいしーっ」
頬を染め、口元に茶色い髭を作り、流行りのカフェの新商品でも楽しむみたいに。
出来損ないの離乳食のような粘液を、貴子は啜った。
匂いだけなら甘くてクリーミーな香りだが、見た目だけならドブ川からさらった汚泥そのものだった。口の端についたそれを、愛らしい舌が舐め取って口に含める。
「貴子ちゃん、それ」――言いかけた私は、物欲しそうにでも見えたろうか?
「あ! 茉奈ちゃんも一口飲んでみる?」
音がするほど猛烈に、私は首を横に振る。鳴海は口元をハンカチで覆って、嘔吐きを押さえていた。
そっかあと残念そうに、貴子は不気味な汁をまた啜る。
「ホントは普通にお食事できるようになれるんだけど、ちゃんとした体になるの、もうちょっとかかるんだって」
唐突に、貴子が秘密の告白を始めた。ちゃんとした、からだ? その上――
「目が覚めたらね、こんな風になってたの」
これは三人だけのヒミツだよ――と、貴子は無邪気に笑いながら、ブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンを外しだした。
「ちょっと、こんなところでなにやってんの?!」
突然始まった真昼の屋外ストリップショーに、私はあわてた。
貴子は平気へいきと赤くもならず、さっと白布の下の素肌を陽光に晒した。
そこにあったのは――機械の、カラダだった。
ブラジャーに包まれた豊かな乳房は、アンダーのラインで分割されていた。
お腹も蛇腹みたいになっている。ベージュの手袋の下の手はきっと、か細い金属をより合わせた、機械仕掛けの義手なのだろう。
「ほらね、こんなだから恥ずかしくないし」
――見たことのある素体だった。
〈HIT〉、ハヤノ・インダストリアル・テクノロジー、早野浩二の父が経営する会社の製品、軍事用アンドロイド。
初期型は今も使われている、鉄の人形。学校の正門を警備する守衛がそれだ。
貴子の身体は鉄とは違う。軽量で、ずっと生々しい。目の前にあるのと同じものを、ニュース記事の写真で見たことを思い出した。
でもそれだって、量産型の機械の兵隊で、防衛軍に配備されている機械人形で……だいたい、人間のようには振舞えないはずで――
「浩二くんの会社の病院で目が覚めたらね、事故で命が危なかったから身体を取り換えたんだって、お医者さんが」
呆気に取られて、私と鳴海は言葉を継げなかった。
ブラウスのボタンを閉じ直しながら、告白は途切れることなく綴られていく。
「あと、頭も」
貴子は髪を掻き上げる。小首をかしげた。うなじが、のぞいた。
ぼんのくぼのあたりに、穴が見えた。パソコンや携帯端末なんかに空いてる、ケーブルの差し込み口に似た小さな穴だった。
「それでね、頭のなかもね、〈でんしずのう〉っていうのに、新しくなったの」
貴子のとどめの言葉に、私の顎は落ちそうになった。
記憶と人格をそっくり、移し替えたというの? 生身の脳から、電子頭脳に??
お母さんの研究、実現してたんだ……ろくに新聞も読まず、世事に疎い自分をこんなときに恥じるとは、思いもしなかった。
ふいに芝を踏みしめる音が、背で鳴った。
「誰も知らないよ。未発表の企業秘密だからね。娘の君が知らなくても当然さ」
清涼な風のごとき声の源に、私たちの目は一斉に吸いつけられた。
「最近やっと完成したんだ。父さんの会社で」
思いもかけない青年が、私たちの前に影を作った。
貴子が駆けだす。
「浩二くん……っ!」
愛しい男の胸に、少女が飛び込んだ。
「どうして、あなたまで……」
鳴海はただ、茫然としていた。
そこに立つのはかつての鳴海の恋人、今は貴子の想い人、早野浩二だった。