第八十五話 「取り返しのつかない失態」
2度目の檻の中。私たち全員は、ウィルドの結界魔法の中にいる。その外では、牙を向け腕を上げ、猪突猛進にこの結界を壊そうとする魔物で溢れかえっていた。しかし、結界が頑丈すぎるがゆえに、ヒビ一つ入ることはなかった。
やっと訪れた平穏に安堵し、私は大きく深呼吸をした。ただ、平穏とは言っても、外からは魔物の咆哮が度々聞こえてくるし、結界をドンドンと叩いてくるしで、耳はこれしきも安らいではいなかった。
「まったく…。僕がいなかったら君たち全員、今頃あいつらの腹の中だね。」
いや、それはないと思う。ウィルドが私たちの命を救ったかのようにドヤ顔を披露してきたが、撤退の選択をとれば、命を落とすまでには至らなかったはずだ。おそらくウィルドがいなかったら、あの数秒後に、アースか私が撤退を叫んでいたことだろう。
「まあでも。とりあえず助かったわ。」
とはいえ、ウィルドのおかげで撤退にまでは至らなかったわけだし、ここは素直に礼を述べておいた。気に入らない部分のほうが多いけど、これだけの結界を張っておいて、礼を述べないのは私の流儀に反しそうだから。
「さて、それで?これからどうするの?外にいる魔物は一向に立ち去る気配がないようだけれど。」
エリスが冷静な口調で、外の魔物に怯える様子もなく、そう言った。確かに、このまま結界に閉じこもっていても先には進めないし、先に進むためには結局またこの魔物たちと戦わなくてはならない。どうにか、打開策を考えないと。次に口を開いたのは、ラナリーちゃんだった。
「っていうかよ。そのチビがいるのに何でこんな目に遭わなきゃならねーんだ?あの魔物、ほとんどが呪印持ちだったぞ?奴ら味方も襲うのか?」
納得のいかない声音を混ぜ込み、ラナリーちゃんがポラル君を指差した。ラナリーちゃんはあの混戦の中で、魔物に刻まれている呪印を見つけていたというのだろうか。ちなみに私は、一体も見つけることはできなかった、と言うよりも、見つけようともしていなかった。急激に増えた魔物の正体は、まさか全て操魔族のペットだったのか?でもそれならば、ラナリーちゃんの言うとおり、同族がいるのに襲ってくるのはおかしい。
「その逆じゃないか?ポラルを救うために、僕たちを襲ったとしたら?」
「う〜ん。確かにそれなら納得がいくかも…。」
「それはないよ。」
カイルがそれらしい推測を述べて、私も何となく腑に落ちてしまったその議論も、当事者であるポラル君がいとも容易く、それも当たり前であるかのような軽々とした口調で、否定してきた。
「どうして?」
「試練と言って僕たちを里から追い出したみんなは、絶対に手助けをしてこない。たとえそれが、命の危険に見舞われてもね。」
ポラル君の言葉に嘘は感じられないし、おそらくそうなのだろう。試練の最中に手助けはしない、なんていうことも、言われてみれば至極当然のお作法な気もしてしまう。納得しすぎて、返す言葉が見つからない。
ではどうして?急に魔物が増えて、私たちを襲う魔物も増えて、それが全部呪印付きなのは、流石に理由があるはずだ。軽く思考を巡らせると、ポラル君に出会う前に交わした、私たちの会話が思い起こされた。
カイル・ナイトフォール。私も初めて知ったカイルのフルネーム。アースの予想では、カイルは操魔族に狙われている。それが仮に本当だとしたら、この状況に頷けてしまうところがあるのは確かだ。
「ねえポラル。」
カイルが徐ろに口を開き、ポラル君を名指しした。その真実を自ら解き明かすべく、カイルは自分の正体をその小さな操魔族に告白した。
「僕の名前はカイル・ナイトーフォールと言うんだけど、君はこの名前に聞き覚えがあるかい?」
ポラル君はその名を聞いて、顔を青ざめた。
「ナイトフォール…?お兄ちゃん、ナイトフォールなの…?」
アースの予想は的中していた。ポラル君の様子を見れば、もはや語らずとも分かる。真実を知りたいという欲求、しかし知りたくもないという気持ち。矛盾だらけのこの不安定な好奇心は、この瞬間に、その小さな操魔族の血の気が引いていく表情を見て、容易く崩壊した。
「ごめん。お兄ちゃんだけは、僕の里には連れて行けない…。」
「どうしてポラル君!?」
「勘違いしないで!僕はお兄ちゃんが悪者だなんてこれっぽっちも思ってないよ!でも…」
でも。その逆説の接続詞が、私の心を不愉快にさせる。そうして、ポラル君は続けた。
「ナイトフォールは、僕たちの敵だから…。」
「敵…?ねえポラル君、ナイトフォールって一体何なの!?」
私は不躾に問いかけた。カイルが隣にいるのに、ポラル君の表情が暗くなっているのに、知りたくもない真実を、知ってしまうかもしれないのに。
「僕もあんまり知らないんだけど、ナイトフォールがいるせいで、僕たちはずっと迫害されてきたってゼネヴ様が言ってた。」
迫害?それではまるで、私たちが悪であるかのような言い草ではないか。魔物を操り、人間を襲っているのは操魔族のほうで、だからアースたちは操魔族を敵と見做したのではないのか?その事実に、ナイトフォールは関係ないだろ。
「もしかして、迫害され続けてきたから、今こうやって人を襲うようになったの?」
「襲うようになった!?僕たちが人間を!?そんなの知らないよ!!」
ポラル君は白を切った。いや?まだ子供だから本当に知らないだけかもしれない。しかし、事実は人を襲っている。
「埒があかんの。ここからはワシが話そう。」
ポラル君との話が噛み合わず、平行線になりかけたところで、地の精霊の声が結界の中で響き渡った。さらに、地の精霊は勝手に杖から出て、私たちの前に姿を現していた。
「まず前提として、クレアはナイトフォールのどこまで知っておる?」
「どこまでって…。確か、500年前に一度神になったけど、すぐに失墜したって…」
私はそこで語を詰まらせ、カイルを一瞥した。
「うん。僕もそこまでしか知らないよ。」
カイルが頷きながらそう言うと、地の精霊は頷き返して話を続けた。
「うむ。そして、その神になったナイトフォールを失墜させたのが、操魔族ということじゃよ。」
「は!?何だって!?」
私は言葉にならないほど驚いた。けど、一番驚いていたのは、私でもなければアースでもなかった。カイルが目の色を大きく変えて、地の精霊の胸ぐらを今にも掴みそうな勢いで、声を荒らげていた。あの日、カイルから聞いたナイトフォールの歴史。その先を、何千年も生きてきたこの地の精霊の口から、静かに語り出された。
「ナイトフォールを神の座から引き摺り下ろしたその日、操魔族は人類を救った救世主となったのじゃ。じゃがの…、人類はそれを認めんかった。得体のしれない種族に救われたなんて、神を信仰していた当時の人間たちからすれば、信じられなかったんじゃろう。」
「ちょっと待って。なんで操魔族は人間を救ったのよ?」
「人類との共存を願っていたからじゃ。それは今も、変わらないはずじゃがの。」
地の精霊はチラッとポラル君に目を配った。僅かに二人の目が合った後、ポラル君はすぐに目を逸らし、そして、軽く頷いた。
「いやいや、嘘でしょ…。」
私は意気消沈した。私の覚悟が、崩れ始める。あの日、あの山で、フェンリルに跨っていたあの操魔族の姿が、脳裏に浮かぶ。
まさか、殺したのは間違いだった?いや、そんなことはない。あいつは私たちを殺そうとしてきたんだ。カイルだけじゃなく、あの日一緒にいた護衛団も、あいつのオークに殺された。私は何も間違ってない。みんなを守るために、私は戦った。だから大丈夫。でも、この違和感は何?
「ねえカイル。私が殺したあの操魔族、最後に何て言ってたっけ…。」
「え?殺した…?」
事実ではあるが、とんでもない失言を私はしてしまった。ポラル君の目の前で、絶対に言ってはいけないことを。取り返しのつかない前代未聞の大失態を、私は犯してしまった。
ポラル君は軽蔑の目を私に向けた。浅い呼吸の中で、しかし、私からの撤回の言葉を期待しているような震えた口調で、静かにこう言った。
「お姉ちゃん?誰を、殺したの…?」




