第六話 「カイル」*
「じゃあ、下山しようか。」
突如として、私たちの護衛を務めることになったカイルがとても爽やかな口調で言った。
私とエリスは黙って後ろに着いていくが、長い間沈黙が続いている。気まずい雰囲気にムズムズした私は、思い切ってカイルに話しかけてみた。
「カイルさんは何で騎士団に入ったんですか!」
「カイルでいいよ。年もそんなに変わらないだろう。」
返事は即返ってきたものの、私の問いは無視されている。起伏が少ない人、という印象を抱いた。また沈黙に戻ってしまったと思っていたら、少し経ってからカイルが私の問いに答えてきた。
「僕はアースさんに一生ついていくと決めているんだ。僕に剣を持たせてくれたあの日から…」
◇◆◇◆
――2年前――
夕暮れの森は、赤銅色の光に包まれていた。枯れ葉を踏む小さな足音が、やがてざわめきに変わる。
旅団は、村を目指していた。商人、護衛、荷車。そして、その中に一人の少年カイルもいた。両親を亡くしてから、カイルはこの小さな旅団に身を寄せている。
「もうすぐだよカイル。今夜は温かい食事にありつけるさ。」
従者の言葉に、少年はかすかに笑った。身寄りのないカイルを拾ったこの旅団に、明確な目的はない。明日を生き抜くのに精一杯な人たちが集まる、いわゆる互助会である。
「次の村に着いたら、僕に剣を買ってよ。」
「どうしたカイル?お前も護衛の人たちに憧れたか!」
「別に…。いつまでもこのままじゃダメだと思っただけだよ。」
従者はガハハハッと黒く染まった歯を見せつけながら、大きく笑った。カイルの両親は魔物に襲われ、その時に身を挺して息子を逃がした。そして、カイルは命からがら逃げきった先で、この旅団に巡り合った。当初のカイルは両親を失ったばかりで長い間心を閉ざしていたが、彼らの陽気さに、カイルも徐々に心を開いていった。
「カイルは体がちいせえから短刀だな。なまくらでもいいか?」
「なんでもいいよ。」
ぶっきらぼうにそう言ったカイル。その態度にニヤリと笑った従者は、突然森に響き渡る大きな声を上げた。
「おいみんな!!カイルが剣を持ちてえそうだ!」
「や、やめろ!!」
顔を赤らめるカイルに、旅団の視線が一気に集まった。微笑ましい表情が、カイルの羞恥をより一層くすぐる。先の見えない浮浪者の集まりは、しかし常に明るく、仲睦まじい空気がいつも漂っていた。その、次の瞬間、森が警告を鳴らし始めた。
空気が凍った。音が消えた。まるで世界そのものが息を止めたかのようだった。風は止まり、皆の笑顔はその刹那で消え去った。
ズズ、ズウウ…。
カイルの鼓膜を、ねじれるような圧が叩いた。ただの地鳴りではない。大地の奥深く、何かが目を覚まし胎動するような、不快な振動。
森の奥から、ありえない“気配”が滲み出す。闇が膨れ、歪む。木々がわずかに軋み、葉がざわつくが、風ではない。そして、それは姿を現した。そこから這い出てきたものを、魔物と呼ぶには余りにも禍々しかった。
黒。黒。黒。闇より濃い黒。見ているのに形を理解できない、見る者の理性を否定するような存在。その中に、赤い光…いや、あれは目だ。1つ、2つ…、その光は6つあった。それは頭を持ち、腕を持ち、足を持っていた。確かに獣の形をしていた。だが、首が3つある。それぞれの口からは赤黒い蒸気が吹き出し、ねっとりとした気持ちの悪い涎が垂れていた。
牙は、笑っていた。間違いない、あれは、笑っていたのだ。カイルは直感的に、そう感じ取っていた。叫ぼうとしたが、声が出なかった。手足が痺れ、息ができない。魔物の姿を見た瞬間、自分の存在が否定されるような、生きているという事実さえ許されなくなるような、そんな恐怖が全身を貫いた。
護衛が剣を抜き、叫んだ。
「守れ!構えーー!」
しかしその声は、刹那に絶叫へと変わった。魔物が吠えた。空間が裂け、音が震えた。怒り、嘲笑、飢え、悲鳴、無数の意味をはらんだ異音だった。
それは耳ではなく、脳に響く。次々と護衛がそれに立ち向かうが、鋼の剣はことごとくが跳ね返される。腕ごと、身体ごと吹き飛ばされる。肉が裂け、骨が砕かれ、血が空に舞った。
それは喰らった。人の首を、肩を、腹を、飢えた獣のように…。違う。あれは獣ではない。あれは、悪意だ。喰うことが目的ではない。ただ、殺すことだけが、その存在理由なのだ。
辺りからの悲鳴が鳴りやまない。カイルも恐怖で足が竦んでいる。しかし、声はでなかった。従者がカイルを庇って走った。だが、次の瞬間、その身体が上下に裂けた。目の前で、肉が紙のように引き裂かれ、内臓が撒き散らされる。カイルの世界が、終わった。唯一の居場所が、まるで小虫を踏み漬すかのようにあっけなく、無慈悲に、弄ばれるかの如く、崩れていった。
嗚咽すら出なかった。涙も、声も、記憶も、思考も、すべて恐怖に飲まれた。
絶望の淵で、一筋の光が、闇に切り込む。それはまるで神話のようだった。森の入り口から現れた騎士が、闇を裂き、魔を切り伏せる。銀の鎧が、そこにはいた。顔は見えない。ただ、剣が一閃するたびに、世界が正気を取り戻すようだった。
「下がっていろ。」
低く、しかし優しい声が聞こえた。騎士はそれを屠り、血に染まりながらも一歩も退かない。その背中は、巨大だった。森が再び静寂を取り戻したとき、生き残っていたのは、カイルただ一人だった。
「みんな、死んだの?」
騎士はうなずいた。その目には哀しみが宿っていた。
「すまない。俺が、もっと早く来ていれば…。」
カイルは何も答えなかった。いや、答えられなかった。騎士は続ける。
「次の村までは送ってやる。残念だが、強く生きろ。」
カイルは俯き、何かを考えた。何かを考えて、答えを出した。
「僕に剣を教えてください。きっと役に立ちます!だから僕を…、僕を一緒に連れて行ってください!」
カイルの確かな眼差しに、騎士は相応な姿勢で答えた。
「俺たちはアークトリア騎士団だ。その意味が分かるか?」
「はい…。でも僕は、あなたに剣を教わりたい!そして僕は、あなたの剣になる!だから…」
「もういい分かった。それだけで十分だ。」
カイルの世界に、僅かな光が灯った。それは、空虚の中に生まれた確かな希望だった。
「名は何という?」
「カイル…。ただのカイルです。」
「そうか。俺はアース。アークトリア騎士団で副団長をやっている。」
◇◆◇◆
副団長を深く慕っているカイルに、そんな事情など知らないエリスは心無い言葉を投げつける。
「一生付いていくって。…あなた今、別行動になっているじゃない。」
「ち、違う!アースさんは僕一人でこなせると見込んでいるからこの護衛を任したんだ!」
少し的外れな回答と恥ずかしそうに焦るカイルに、私はクスッと笑った。すると、カイルは話題を私たちに移してきた。簡単な自己紹介を終わらせ、この山に来た経緯を説明した。すると、カイルは私の持っている杖に興味ありげな様子で、しかしどこか煽るような口調で私に話しかけてきた。
「クレアは魔法を使えないんだろ?」
知ったような口ぶりにイラッときたが、今日初めて魔法を使えた事実を隠して、私は目一杯の虚勢で答えた。誇らしげに胸を張る私の姿に、エリスが呆れた表情で突っ込みを入れてくる。
「いや…。この子は今日初めて光の魔法が発現したばかりで…」
エリスが私のほうを不穏な表情でチラチラと見ている。
(しまった!カイルがアークトリアの人間であることを忘れていた。)
カイルは口に手を当て、何かをバカにするかのような目でクスクスと笑っている。私は焦って言葉を作り出す。
「カ、カイルは魔法を使えるの!?」
「僕はこの剣だけだ。剣術と魔法は並大抵の才能では両立できないからね。」
(あまり気にしていない?それとも最初から信じていないのか?)
しかし、私はその質問が愚かであったことに気づくと同時に、カイルの答えに疑問が蘇る。
副団長は杖を持っていなかった。杖は魔法を生み出すために必要となる魔力の放出装置だ。それは熟練の職人が神樹から作り出したものでなくてはならない。私が持っているこの杖も、その神樹から作られている。譲りものであったこの杖に、しばしば疑いはあったが、それは今日で払拭されていた。
私は副団長が杖なしで魔法を使えた理由をカイルに問いてみた。しかし、返ってきた言葉は期待外れもいいところの一言だった。
「アースさんは特別だ。」
結局、魔物と遭遇することなく私たちは山の麓へと到着してしまった。空を見上げると、夕日が織りなすグラデーションが満天を覆い尽くしていた。この様子だと、村に着く頃にはすっかり日が沈んでいるだろう。
帰りが遅くなるとハンスさんが心配してきて面倒である。別行動になってしまっているカイルは村に着いた後どうするのだろうか。そんな少し聞きづらかった疑問をエリスが代弁してくれた。
「村に着いたらどうするの?そういえば、この後の合流先を決めていなかったようだけれど…。」
カイルは拍子抜けた表情で、自分の置かれている状況をやっと理解したようだった。何も考えていなかったカイルの様子を見て、またしてもエリスは心無い追撃を仕掛ける。
「やっぱり、あなた置いていかれたのよ。」
「そ、それは絶対に違う!」
エリスの考えが違うことは確信していたものの、やや自尊心を傷つけるその言葉に、カイルは動揺を隠せなかった。
魔物の名前は何となく伏せましたが、2年前にカイルを襲った魔物はケルベロスですね。
あと、この世界では古代のイメージを持っていただければ幸いです。なので文明は全然進んでいません。馬や馬車に乗るといった移動手段もなく、この世界の人たちには全てその足一つで移動させます。(例外の魔法使いはいる)