第五話 「豪傑の騎士」
エリスが発した大きな号令とともに、私たちはスタートを切った。後ろを振り向くと、バジリスクが不気味な液を吐き出しながら迫ってくる。エリスの煽りに乗ってしまった自分を呪いつつも、ただただ無我夢中に走り続ける。
しかし、この危機的状況にも関わらず、エリスはバジリスクの解説を始めた。
「バジリスクが吐く毒液には絶対に当たらないで!少量でも触れれば、皮膚が溶けるわよ!」
「そんなものより、あの爪に引き裂かれちゃうよ!」
すでに傷を負っていたことが、せめてもの救いだった。走り方はどこかぎこちなく、本来の速さには程遠い。しかし、無情にもその距離はじわじわと縮まっていく。
(このままだと、追いつかれる…!)
エリスは歯を食いしばりながら、最悪の結果を悟ってしまった。その時、クレアが何かを思いついたのか、ふと小さな声で一言口ずさんだ。
「ランタン…」
エリスの目に希望が宿る。素早く腰のポーチからランタンを取り出し、それを力強く握りしめた。その手に、クレアも手を重ねる。
二人の考えは一致していた。
「私たちのありったけの魔力を同時に注ぎ込んで、あいつに投げつる…!目眩し作戦よ!」
「クレアにしては上出来すぎる!!」
二人は目を閉じ、息を合わせて魔力を注ぎ込む。瞼の裏にとてつもない光が押し寄せてきた時、二人は手にしたランタンを一気に後ろへと投げ放った。
その瞬間、バジリスクは悲鳴をあげ、大きく怯んだ。その姿を確認した私たちは、まるで何か偉業を成し遂げたかのような興奮に包まれた。
「さあ、早く逃げるよ。」
私たちは最後の力を振り絞り、再び走り出した。
後ろを振り向くと、バジリスクの姿はない。逃げ切ったことを確信した二人は緊張の糸が解け、気づけば、大地に引き寄せられるかのように座り込んでいた。
息を切らしながら辺りを見渡すと、そこには傷だらけで死んでいる魔物がいくつも転がっていた。
多種多様な魔物が死んでいる光景に、私は息を呑む。すると、エリスは何の躊躇いもなく死体に近づいていった。
「これだけの魔物を同じ場所に集められるのは操魔族しかいない。」
――【操魔族】。私もその名は知っている。知性が非常に高く、呪印を使って魔物を飼い慣らすことができるらしい。ここ数年前から、その魔物を操って人を襲い始めているとか…。
「操魔族が自分たちの魔物を殺したってこと?」
エリスは首を横に振る。操魔族は、呪印を刻み込んだ魔物を死地に送り込むことはあっても、自らの手で殺めることはないという。死んでいる魔物をエリスはさらに、まじまじと観察している。
「この傷…。剣で切られている。死体もまだ新しい。」
私には、その事実が何を意味しているのか理解できなかった。するとエリスは額に手をあて、困ったような表情でこちらを見てきた。
「流石にこれは引き返したほうがいいかもしれない…。」
「どうして!?」
納得ができない私は、エリスに訳を問い詰めた。
どうやら、魔物の傷はアークトリア騎士団によるものだとエリスは推測しているようだ。操魔族とアークトリアには因縁があり、争いが起こるとすればこの二者間しかあり得ないという。つまり、アークトリア騎士団が近くにいる可能性が高いという訳だ。
「こんなところで、アークトリア騎士団に見つかれば密猟を疑われて面倒なことになる。それに操魔族が放った魔物の生き残りとも遭遇しかねない。さっきのバジリスクのようにね。」
あの恐ろしいバジリスクは操魔族のペットで、私はそれを従える悪魔の姿を想像してゾッとした。
仕方なく私は、引き返すことを決意する。ほんの少しの休憩を挟み、山を下りるまで続く緊張感に覚悟を決めた時、背後から殺気を感じた。怯えながら振り向くと、狼の群れが地鳴りのような低い鳴き声を出しながら、私を睨みつけていた。
「エ、エリスさん。このワンちゃんたちは可愛いペットですか?」
再度訪れた目の前の絶望に、一縷の望みを賭けて問いかける。
「マナガルム。こんな数、逃げ切れるわけがない…。」
エリスは絶望の表情とともに腰を抜かした。その目からは光が失われている。必死に声を掛けるが、エリスには一切届いていない。
私はなけなしの勇気を振り絞って、マナガルムの気を引き、少しずつエリスから遠ざける。何か策があるわけでもない。エリスが助かる保証もない。それでもただ、遠ざける。
張り詰める緊張感が漂っていたその瞬間!凄まじい勢いの炎が押し寄せてきた。その炎はマナガルムの群れを1匹残らず覆い尽くし、大きく燃え盛る。
炎に包まれ苦しそうな鳴き声をあげていたが、たちまちその声は小さくなっていき、最後にはその場に倒れ込んだ。
炎が飛んできた方向を確認すると、アークトリア騎士団の副団長が、大剣を片手に立っていた。昨日不条理に月光草を取り立てに来た、嫌味なアークトリア人という印象は微塵もなく、私の目に映った姿は、豪傑そのものであった。
「副団長―!この山で滅焔魔法はやばいですよ!」
何やら、部下の兵士が騒いでいる。炎が通過したところは、草木が焦げて無くなっていた。木々が生い茂る山の中に、まるで一本の道が出来上がったかのような光景だ。
「緊急だったんだ、仕方ないだろう。適当に言い訳を考えておいてくれ。」
頭を抱えて焦る兵士たちに微笑を浮かべながら、遂にその豪傑の騎士が私の下へと歩み寄ってきた。
「昨日の威勢はどうした?その杖はおもちゃか?」
私は反射的に、杖を後ろに隠してしまった。
「あの、ありがとうございます。それと…」
気づくと私は、目の当たりにした豪快な炎の魔法に興味を抑えきれなくなっていた。
「今の魔法なんですか!?炎がドバーって!どうやったらあんな魔法使えるようになるんですか!?」
私の中に立場だとか、相手がアークトリア騎士団の副団長であるだとか、そういったことは全て忘れ去られていた。
その様子を見かねた部下の兵士が、割って入ってくる。
「この方は、アークトリア騎士団の副団長にして滅焔魔法の使い手【アース・ラドガルド】であるぞ。無礼な態度は慎め。」
部下の兵士は続けて言う。
「ところでなぜ、貴様らはここにいる?この山は次の満月まで立ち入りを禁止しているはずだ。」
私は口をもごもごさせて言い訳を考えていると、驚くべきことに今度は副団長が割って入ってきた。
「この者たちはポコポコ村に住む薬草屋の娘たちだ。大方、昨日の勢いで後に引けなくなって、下調べにでも来たんだろう。大目に見てやれ。」
しばらく傍聴していたエリスが、欺瞞の目を副団長へ向けた。
(助けた挙句、私たちを見逃してくれる?副団長アース・ラドガルドは何を考えているの?)
エリスの不穏な視線をいち早く察知した私は、それを副団長に悟られないように身振り手振りで注意を引く。大きな声でお礼を言い、すぐに下山することを伝えた。
すると、副団長は更なる厚意を私たちに押し付けてきた。
「まだ危険は多い。村に帰るまで護衛を付けてやろう。……カイル!!」
名前を呼ばれた兵士が小さな返事とともに前に出てきた。澄み切った綺麗な青色の髪を揺らし、私たちと大して年も変わらないような青年が静かに頭を下げる。
「カイルはまだ若いが、剣術の腕前は本物だ。頼りにするといい。俺たちはこのまま操魔族の行方を追いかける。」
次々と起こる出来事に頭が追いつかない。立ちすくんでいる脇をアークトリア騎士団の一行が通り過ぎていく。最後に歩き出した副団長が、すれ違いざまに私の耳元で囁いた。
「次の採取には来るな。」
ハッとなり振り返る。片手を大きくあげて去っていく副団長の背中に、私は強烈な違和感を覚えた。