第三話 「小さな冒険のはじまり」
食卓に座った私は、ハンスさんの重い視線を感じながら、ひとしきりに自分の行動を振り返っていた。アークトリア軍に強気に言い返した自分を、反省するべきだと理解している。どんなに長い説教でも覚悟はできていた。
ハンスさんが深刻な顔で私を見つめていたその瞬間、思いもよらない言葉が飛び出してきた。
「よく言った!俺は正直スカッとしたぞ。」
その言葉に、私は目を丸くした。想像もしていなかった反応だ。まさか叱られるどころか、賞賛されるとは。私は呆然とし、エリスですら驚いた表情でハンスさんを見ていた。ミリーゼさんは、何も理解していない様子で、私たち家族を見渡している。
その時、エリスが小さく笑いながら口を開いた。
「私の機転があったからなんとかなっただけ。あの人、アークトリア騎士団の副団長さんだったんだから。機嫌を悪くさせていたらどうなっていたかわからない。」
恐ろしい事実がエリスの口から平然と告げられ、後悔をしていないはずの私は急に冷や汗をかいた。
なぜそんな強い人がこんな辺鄙な村にやってきたのだろうか。ミリーゼさんは未だに事態を飲み込めていない様子で、私たちを見つめ続けていた。ハンスさんは白目になって、まるで鳩に豆鉄砲でも喰らったような表情で固まっている。
それぞれが違う感情を抱いている混沌とした空気を破ったのは、やはりエリスだった。
「でもクレア、あんなことを言ったからにはちゃんと有言実行しなきゃね。月光草の採取は簡単なことじゃないんだから。次の満月までに、私が1から叩き込んであげるから覚悟しておきなさい。」
ミリーゼさんの表情が変わった。私が次の月光草の採取に同行することを知ったからか、ニコニコとこちらを見ている。
こうなってしまっては、明日からの魔法の練習の時間がどんどん削られてしまうことは確実だ。あの月光草の採取が予想以上に厄介なものであることを理解しつつ、この一件は早々に終わらせてしまおうと決めた。
次の満月には、きっと村の人々が私の功績に驚いて褒め称えてくれるだろう。そんなことを考えると、魔女になるために何か特別なことをしたわけでもないのに、注目を浴びることになりそうだ。
そし思いついた。次の月光草採取がうまくいけば「クレア・バース、初の月光草採取で大成果!」なんて言われて、村の人々の期待が一気に膨らむかもしれない。
それから、私は魔女を目指すと言って、惜しまれながら卒業することができる。きっと村のみんなも、私の才能に気づき始めるだろう。
―――そんな風に、少しの間だけ空想にふけってみた。
「なに、ニヤニヤしているのよ。私にしごかれるのがそんなに楽しみなのね。」
エリスの声が、少し冷たいがどこか楽しげに響いた。私はその言葉にしっかり反応し、胸を張って答えた。
「やるからには本気だよ!しっかり教えてよね!」
魔法以外のことに興味を持つなんて、いつ以来だろうか。久しぶりに見た自分の意気込みに、エリスとミリーゼさんも驚いた様子で目を合わせた。普段は魔法のことばかりに夢中で、こうして何か新しいことを学ぼうとする自分を、私は少し誇らしく思っていた。
「明日の朝、月光草が盛んに生息している山に行くよ。日中だから危険はないし、いいよね、お母さん?」
エリスが母親に向かって、少し心配そうに尋ねる。その表情を見たミリーゼさんは、微笑みながら頷いた。
「気をつけていってらっしゃい。」
こうして、明日の計画が決まった。私は、これから月光草の生態について勉強することになり、なんだか胸が高鳴るのを感じた。普段なら、こうした外出には少しの不安があったかもしれないが、今回は違う。どこか冒険のような気分になって、楽しみで仕方なかった。
晩御飯を終え、食器を片付けながら私たちは、まるで何もなかったかのようにじゃれあっていた。今日の不穏な出来事も、すっかり忘れてしまっていた。明日の出発に胸を踊らせ、静かな夜が過ぎていく。
結局、ミリーゼさんは私が次の採取に同行することが決まったことに満足しているようで、特に心配している様子はなかった。もしも、私がアークトリア軍に反発したことを知っていたら、ハンスさんと同じように今もそこで固まっていたかもしれない。
小さな青白い光だけが暗闇を照らす村の入り口。地に足をつけて待機していた数十名の兵士の前に、アークトリア騎士団の副団長とその部下が、ゆっくりと戻ってきた。
「薬草屋で出会ったあの威勢のいい小娘、杖を持っていたな。」
そばにいた、部下の兵士が淡々と答える。
「名前はクレア・バース。14年前の大戦時に戦争孤児となった彼女を、あの薬草屋が引き取ったようです。魔法の発現履歴はなく、おそらくあの杖はおもちゃでしょう。」
副団長の顔に浮かぶ微妙な表情は、何かを感じ取っているようだった。
魔法の隠匿は大罪である。しかし、子供が杖を持ち歩いている程度は、ただの遊びとして捉えられることが多い。特にアークトリアが支配している村の中でもクレアたちが住む【ポコポコ村】は比較的平和主義であり、事実として14年前に支配下に置かれてから、一度も反乱分子が摘発されたことはない。
そういった村はアークトリアの監視の目が緩む傾向にある。
しばらくの沈黙の後、副団長はゆっくりと口を開いた。
「あの瞳の奥には、大きな野望が宿っているように感じた。」
「ならば、クレア・バースについて詳しく調査する必要があるということですか?」
部下の声に、わずかな緊張が混じる。しかし、副団長は軽く口角をあげて、部下に告げた。
「放っておけ。面白い小娘だ。」
その言葉には、クレア・バースという存在に期待しているような、どこか楽しげな響きがあった。
アークトリア騎士団の一行は、甲冑の揺れる音を響かせながら、やがて暗い森の方へと姿を消していった。
明け方、まだ少し暗い部屋でエリスは目を覚ました。少し跳ねた寝癖が気になり、手で軽く抑えながら、ふと隣のベッドに目をやる。そこでは、クレアが気持ちよさそうに眠っていた。その穏やかな寝顔に、思わずエリスは微笑む。しばらくそのまま見守っていると、大きな欠伸がひとつ。クレアが目覚めたようだ。
小窓から差し込む朝の光が、クレアの美しい赤い髪を照らし、その色をより一層鮮やかに輝かせていた。
「15分後に出発するから、早く準備して。」
寝起きの私を急かすように言うその言葉に、少し戸惑いを感じながらも、エリスの目はきらきらと輝いていた。その瞬間、昨晩の約束が鮮やかに脳裏を過り、私はベッドから飛び起きた。まるで風のように素早く準備を始めた。目が回るような速さで支度を整え、やがて外へ向かうドアの前に立った。
クレアは希望に満ち溢れた、ハキハキとした大きな声で挨拶をする。
「行ってきます!」
ドアを開けると、すでにエリスは外で待っていたようだ。私が出てきたのを見た瞬間、何故か哀れみの視線を送ってきた。
「杖はいらないでしょ…。」
私は、決して譲らない意思を込めて答える。
「これは私が魔女である証なの!」
エリスは何も言わず、ただ苦笑いを浮かべて歩き出す。これから訪れる土地に期待とワクワクを胸に抱きながら、私はエリスの背中を追いかけた。