海蛇男と漁師ハンス
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
漁師のハンスは、決断を迫られていた。
夕飯時、残り僅かな食料を家族と分け合っていたところに、組合長がやってきた。
「ハンス、相談がある。来てくれないか。」
組合長の表情と同じくらい固いパンを、一口だけかじって、娘に与えた。いい話ではない。
組合に行くと、魔術師様と領主の息子、おまわりがふたり、それから、海蛇男がいた。
海蛇男とは、この港町に古くから伝わる海の妖怪のことで、伝承としては、海坊主とか河童、船幽霊に近い。船を沈めたり、嵐を呼んだり、子どもを溺れさせたり。ハンスも、小さいころ、おばあさんから、海蛇男の話をよく聞かされていた。
「悪いことをすると、海蛇男がやってきて、海に引きずり込まれるぞ。」
ここいらの子どもは、親からみんなそう躾けられた。かくいうハンスも、娘がいたずらをすると、決まって同じように、海蛇男を使っていた。
「うみへびおとこなんていないもん!」
いたぞ、ヨハンナ。今、目の前にいる。
「単刀直入に、言おう。船を出してもらえないか?」
そういうことか、と合点した。こいつらは、城から幽鬼王の調査にやってきたのだ。この人数を乗せるちょうどいい船を持っていて、自分で言うのもなんだが、恐いもの知らずのハンス様なら、幽鬼に怯えず、船を漕げるだろう、と。しかし、城の連中は、勘違いをしている。何人かはそうだが、幽鬼に怯えて、船を出してないわけではない。
「わかった。明日の朝、日の出とともに出港でいいか?」
踵を返そうとすると、組合長が引きとめる。
「違うんだハンス。」
「今から船を出せ。」
組合長に被せるように、川島が言った。
何を言っているんだこの海蛇男は。ハンスは、声を荒げて言い返す。
「もう日が暮れる。夜に船なんか出せるわけがないだろう。」
夜は、漁に出ない。漁火を焚く漁法を聞いたこともあるが、ここいらではやっていない。夜に船を出さないのは、暗いからだ。暗いと視界が悪い。視界が悪いと危ないし、効率も悪い。単純な話だ。
幽鬼王が出始めて、船を出さなくなったのは、似たような理由だ。漁に出ると、突然、濃い霧に覆われて、視界を奪われてしまう。幽霊船が出てきて、何やら賑やかに喚くから、方々の船に声が届かない。それで、目先が利かなくなった漁船同士がぶつかったりする。あわや沈没だ。
それだけじゃない。魚が網に一匹もひっかからないのだ。あの妙ちくりんな幽霊船に、魚たちが逃げてしまうのだろう。幽霊船に怯えているのは、漁師ではなく魚だ。年寄り共も、怯えているようだが。
はぁ、と海蛇男がため息を吐いた。ハンスは、苛ッ、とした。
直感でわかった。海蛇男は、何も知らないわけじゃない。知っているんだ。夜の海に出る危険を承知の上だ。承知の上で、それぐらいのことができないのか、とでもいうように、海蛇男はため息を吐いたに違いない。見下されたことに、ハンスは腹が立ったが、じゃあ出来るところを見せてやろう、目にもの見せてやろう、とはならない。一時の感情に判断を狂わされない。ハンスもまた、一端の漁師なのだ。
「いいから早く船を出せ。」
海蛇男の見た目がいくら怖いといっても、ハンスとて、それなりに場数を踏んできた自負がある。組合長は怯えているようだが、自分は違う。
「ダメだダメだ。明日の朝だ。」
負けずに言い返した。しばらく、出せや出せないの応酬が続くだろう。ハンスは、言い合いから、その先にあるかもしれない暴力沙汰まで、覚悟した。
ところが、
「頼むから、船を出してくれ。」
海蛇男が頭を下げた。
不味い。言い合いからのケンカなら、たかだか殴り合い程度のことで済むだろう。ここには他にも人が居て、おまわりもいる。仲裁が入って、落しどころを決める話になる。
しかし、海蛇男は、言い合いではなく、頭を下げて頼んできた。
これを断るとどうなるのか。海蛇男が、頭を下げてまで頼む。これを断るとどうなるのか。じんわり、ハンスの頬を一筋の汗が垂れた。
命のやり取りだ。ハンスは、その想定をしていなかった。船を出すとか出さないの話だ。そんな大げさなやり取りになるとは、考えも及ばない。相手は、命のやり取りを仕掛けてきた。こいつはきっと、やる。
ハンスは、決断を迫られた。
命を天秤にかけられてしまった。
意地を通すべきか。いや、夜に船を出したくない、それは、命を懸けてまで意地を張ることなのか。まったく割に合わない。ヨハンナの顔が浮かんだ。
ヨハンナ。パパは、悪いことをしていないのに、海蛇男に海に引きずり込まれてしまったよ。
「わ、わかった。船を出そう。」




