フィフティーフィフティー
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
お化けと幽霊では、消え方が違う、と大道具は申したそうで。お化けは、すぅーっと、幽霊は、ぱっと消えるのだ、という。芸事に厳しい御方は、岩藤の消え込みに、そう喧しく注文をつけたのだという。
岩藤というのは、加々見山旧錦絵でお初に刺されて死んだ岩藤のことである。
ちょうど1年後、散り散りにうち捨てられていた岩藤の骨は、ぞろぞろと集まって、やがて人の形と成る。こうして岩藤はよみがえると、恨み言を聞かせてから、いったん消える。
「こいつぁ春から縁起がいいわえ。」
などなど、華美な科白回しで鳴らした黙阿弥の作、加賀見山再岩藤。
骨を拾い、拾い。ごちる。
「いや人は見掛けに寄らぬもの、律儀さうな此方衆兄弟、こんな不義理はさっしゃるまいと、思ひ込んだが此方の見違ひ。」
何を隠そう、隠しちゃいないが、人は見かけによらぬもの、という諺の語源とされる。
しかし現代では、現代に限らないが、人の判断は、外見からされることが大半である。
それはそうで、内面などというものは、目で見えない上に、複雑怪奇。判断するにしても、腹の虫一つ悪ければしくじるほどデリケート。
かくなるうえは、と内を知ろうと腹を割って付き合っても、本当に向こうも腹を割っているのかわかったものではない。ならばいっそ、目に見えるところで判断するしかない。
完璧とはいえないが、だいたいは、外見の通りだ。外見に騙された、といっても、よくよく見れば、ちいさなちいさな、あやしい点があったはず。それはもう、見る目がなかったというより他ない。
見違ひである。
ぱっと見て、どんな人かは、なんとなくわかる。しかし、何をしているのか、まで当てるとなると難しい。学生服を着ていれば学生、作業服を着ていれば、作業をしている人。しかし私服となると、勝手が違う。
よくよく見てみる。
ヘルメット焼け、という日焼けがある。ヘルメットで隠れるおでこ、それからあごひも。そこだけ白い。躯体三役など、年がら年中、屋外作業が多い現場の人間は、そこで絞り込める。
スポーツをやっていると、体ができている。何かスポーツをされていたんですか?または、されているんですか?などと訊く相手の体は、それなりにしゅっとしているだろう。
偏見だが、けつがでかくて、下半身がしっかりしていれば、元球児に違いない。
耳がわくのは、柔道やレスリング。それぞれ、わきやすい耳が違うのだとか。どちらが右で、どちらが左かは忘れてしまったけれども。
とにかく、見た目から得る情報は、よく見れば見るほど多い。
さてさて、しかししかし、ここで問題なのは、霊感のある人間をどう見分けるのか、ということだ。
霊がいるかどうかは分かっても、霊感がある人間かどうかは、どうやって見破ればよいのか。
霊感とは、内面に潜んでいるものである。言ったように、内面は、目に見えないから見れない。霊感を使えないか、と言われても、霊感は霊を感じるものであって、霊感を感じるものではない。霊感を、そんなに便利なものとして捉えてはいけない。
スカウターでもあればいいのだが、そういう便利なものは、残念ながら、ない。
せめて、なぜか数珠をたくさんつけているとか、わかりやすい格好をしてくれていれば、助かるのだが。
客は2組。
二択である。
右か左か、左か右か。フィフティーフィフティー。
おひとり様の体格のいいおじさんか、三人組の軽薄そうな若者たちか。
「どっち、だ…。」
「直感なら、左。」
「ふっ。霊感で宝くじを当てたって話は聞いたことがない。」
「確かに。」
「何か、何か判断材料があるはずだ。いったん、バックヤードに戻ろう。」
内心、ラッキーだ、と内木は思った。
1人だけの監視だった。しかし、偶然、シンイチがやってきた。
選択肢は、二つ。
そう、手分けできる数だ。




