ハチロク
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
「これ、今日の新規です。確認をお願いします。」
机の上に置かれた新規入場者教育のアンケート用紙を何枚かめくり、
「え?浜本さんって、もう五十三?」
思わず声を上げて驚いた。
浜本と出会ったのは、川島が新入社員の頃。当時、丸末興業の絵島が引き連れていたオペ軍団のひとりだった。今も、サークルエンドで現役のオペだ。
「懐かしいな。今日、居たんだ。明日も来るのかな。」
「いや、今日、重機から降りる時に、ぎっくり腰になりかけたらしいんで、明日は大事をとって休むそうです。」
「なんじゃそりゃ。」
「歳なんだよ。」
「絵島さんの方が年上でしょうが。」
わははははは、とみんなが笑う。
「えー。今日居たっけ?浜本さん。見てないなあ。」
「居たよ。居た居た。朝礼にも出てたじゃないか。」
「え?」
「浜本さんは、一番後ろにいましたよ。」
「あのちっちゃいおじいちゃん?」
「言い過ぎだぞ。」
「老っけったっなぁー。」
「川島君もいずれそうなる。」
「てかなんでまだ現場にいんの?早く帰ってよ。俺たちはこれからデスクワーク本番なのよ。」
「川島君が教えてほしいって言ったから、わざわざ残っているんだろ?」
「明日でもいいよ。今日はバタバタしたけど、明日は落ち着くでしょう。」
「いや。こうなったら意地でもコーヒー1杯は飲んで帰る。」
「西木君。絵島さんにコーヒー淹れてあげて。」
「わかりました。」
「ブラックでよろしく。」
浜本さんと言えば、車好きだ。あの頃、絵島さんが率いていた軍団員は全員、車か単車が好きだった。
浜本さんは、若き川島に、
「いいハチロクの中古がある。買わないか?」
と勧めてきたことがある。
ハチロク。走り屋の漫画で一躍有名になった(それまでも走り屋の間では有名だったのだろうけど)車だ。今や、主流となった前輪駆動ではなく、後輪駆動。ドリフト愛好家たちの最後のアイドル。トヨタのAE86。リトラクタブル・ヘッドライト(噛みそう)の方がトレノで、そうじゃない方がレビンだったっけ。
宮田は、前輪駆動のことを前かきと言っていたが、さて、後輪駆動のことは何と言っていたか。
浜本は、直撃世代であろう川島をターゲットにしていたのだろうが、川島には、スポーツカーは運転の上手い奴が乗るべき派だったので、やんわりと断った。
「ハチロクの中古は事故車が多いけど、たまたま主婦が乗っていて、事故無しのハチロクなんだ。こんなハチロク、滅多に出てくることは無いぞ。」
そう言われても、川島は、どちらかというとS30の出てくる漫画推しだったこともあり、うーん、と浮かない顔をして、
「じゃあ、浜本さんが乗ればいいじゃないですか。」
と言うと、
「俺はもう、セブンに乗っているから。」
そのハチロクが誰の手に渡ったのかはわからない。今思えば、買って、大事に乗っていれば、プレミアがついて高く売れたのかもしれないが、後の祭り。しかし、タイムマシンで過去に戻っても、同じ決断になるだろうから、後悔しているわけじゃない。
「いやあ、浜本さん、老けたなあ。」
もう一度、しみじみと言う。
「で、どこなんですか?」
「結局、訊くのかよ。」
「コーヒーのお代はきっちりもらわないとね。」
「なんだそりゃ。」
絵島が言うには、これは歴史のある話で、ぽっと出の話ではない、というのだ。
戦国時代、尼子なにがし、というおさむらいさんが居た。
「え?なに?八つ墓村の話?」
「違う違う。」
絵島は、似たような話になるかも知れないが、違うのだ、と。そして、最後まで聞け、と川島を叱った。




