手形
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
手形をつけようとしている。
怪談で、手形が出てくるエピソードの定型は、心霊スポットへ肝試しに行くところから始まる。案の定、お化けが出てきて、慌てて逃げる。お化けが車を追いかけてくる。車の窓にたくさんの手形がつく。逃げ切って、ガソリンスタンドに行く。店員さんが窓をいくら拭いても、手形が消えない、と伝えてくる。手形は、内側からついていた、というオチ。バリエーションは多岐に渡るが、概ねこんなところだろう。
それから他には、シンプルに、夢でお化けに腕を掴まれて、ハッと目が覚めて、なんだ夢か、と安心していたら、掴まれた腕に手形がくっきりと残っていた、という奴。
さて、手形というと、約束手形を思い出す。
近ごろでは、すっかり聞かなくなった。まだ手形を使っているのは、木村建設ぐらいではなかったか。廃止されるという噂を聞いたが、定かではない。
五輪建設は、創業以来、いつもにこにこ現金払いだから、社員一同、経理ですら、手形というものには疎い。しかし、まったく使わなかったわけではない。川島の記憶によれば、たった1度、使ったはずだ。それも、一度くらいは使ってみたい、という理由だったと聞いている。相手は、ずぶずぶの関係にある協力会社。
手形というのを一度やってみたい、と伝えたら、ああ、いいですよ、やってみましょう、と向こうもノリノリだったという。
現金払いを数十年。その実績と信頼は、厚くて強い。五輪建設の注文書は、現金と同じ、と言われるほどに。
何が言いたいのかというと、手形をつける、という行為は、呪いのようなものなのだ。約束、約定、先約、どう言ってもいい。これは、わたしが手を付けた、という証し。証明、表示、表明、どう言ってもいい。
こいつは、川島の右肩に、手形をつけようとした。川島は、直感的にそう思った。
そして、そういうことだったのか、とも思った。
右肩を掴まれた瞬間に、ほんの僅か、左目の傷跡のようなものが、疼いた。
見なくても分かる。川島の右肩に、手形はついていない。そいつは、そっと引き下がって、気配を消した。
藤田家では代々、長男が取られることになっている。
川島勇次郎は、次男だ。
律儀にも、長男以外は取られないようになっているのだろう。
「この者を取ってはならぬ。」
「取らせはせぬ。」
そういう強い念を感じた。
傷跡のようなものは、その印なのだ。
今さらまた浮かび上がってきたきっかけは、あの女だろうか。それとも、周期があるのだろうか。
この件に詳しいのは、母親か。
それは、おいおい調べるとして、目下、解決すべきことはなんだ。
ユウカのドレスが、パステルグリーンだった、ということだろうか。
「グリーンのドレスだったんだな。」
と川島が言うと、中務も、
「本当だ。グリーンのドレスだ。」
と言った。




