ビッグ・ブリッヂ
この作品は、フィクションです。作品に登場する人物名・団体名・その他名称などは架空であり、実在する人物・団体・その他名称などとは一切関係ありません。
橋を架けるのは、困難な場所を通る為だ。それは、川であったり、海であったり、谷であったり、道路であったり、線路であったり。誰かと誰かを繋げることも、橋渡しと言う。
橋は、入り江にあった。いや、規模としては、湾か。だから、大橋と名付けられている。
船が通るからか、最高高さが海抜50メートルを超える。構造はラーメン。近代建築の主流。橋は、土木分野だが。
見晴らしがとてもよかったのだが、身投げが後を絶たず、自殺の名所になってしまった。そこで、高いフェンスが設置された。その高さは、人類が到達できるであろう身長の限界をさらに超えていた。よじ登るあてもろくにないので、投身自殺は高いフェンスに阻まれ、やがて自殺の名所という悪名は、過去のものとなった。
「あんな高いところから、よく飛び降りられるよな。」
と言うと、自称・高所恐怖症の武村が答えた。
「高いところが怖いのは、落ちるのが怖いからじゃない。飛び降りたくなるから怖いんだ。」
なぜ、自殺の名所などと言うものは生まれるのか。
不法投棄と一緒だ。ひとつのゴミが捨てられて、放置されていると、そこにゴミを捨ててもいいんだ、と思う人が現れる。やがて、どんどん捨てられて、ゴミがたまり、やがて、不法投棄の名所となる。
看板や監視カメラの設置で心理的に訴えかけ、物理的な柵でブロックする。やがて、捨てられることはなくなり、不法投棄の名所という悪名も、なくなる。
だが、この世から不法投棄をする輩は、いなくならない。どこかまた、別の棄てやすい場所を見つけて、捨てている。いたちごっこだ。
自殺者もまた、いなくならない。他の、死にやすい場所を探しに行く。
死にやすい場所を見つけて、最初のひとりとなった者が、さらにほかの自殺者を呼び寄せている、というのは、とても怪談的だ。死にやすい場所をみつける、という目的を持った者が共有する、意味のある偶然の一致。自殺はニュースになる。マスメディアという大きい媒体から、井戸端会議の噂話ほどの小さい媒体にまで、自殺は話題となる。自殺がよくある場所、という噂が広まれば、死にやすい場所を探しているものが集まってくる。自殺の名所となる。
ある意味、そこで自殺した者が、招き寄せている、というのは、その通りかもしれない。しかしそれは、二次的三次的な副産物だ。怪談によくあるような、自殺した者が、意識して、招き寄せている、というのとは違う。
川島も、怪談を漁っていたころは、そのまことしやかな理論を、(演出としてではあるが)受け容れていた。
しかし、今は違う。
自殺の名所には、いない。
自殺者の多くは、生きるのが嫌になって、死を選んでいる。
この世が嫌になって、自ら死を選んだ者が、この世に縋っていることはない。
「この世にいたって、しょうがないだろう。」
(まだ現世で迷っている)自殺した者には、この言葉が効く。
もちろん、切腹の類は除く。切腹の類の中には、この世に、未練を残すものもいるだろう。恨みつらみもあるかもしれない。
ただ、そう、自殺の名所にやってくるものは、生きるのが嫌になって死にに来る者が多い。
わざわざ、死んだ後に、同じ道に引きずり込んでやろうという怨念を持つものはいない。
自殺の名所は、自殺の名所であり、心霊スポットにはなり得ない。
橋に設置された高いフェンスを見て、ふと思う。フェンスと一緒に、慰霊碑を設置できないのは、なぜだろう。世間体だろう。事故や、災害、戦争で死んだわけではない。生きたいのに死んでしまったものには、立派な慰霊碑が建てられる。しかし、自分から死んだ者へは、世間はぞんざいだ。あまつさえ、他人に迷惑をかけてまで、と思われている。どこかの教えでは、天国に行けない、とさえ、されている。
自殺した者は、生を捨てているのだから、それすらも、もはや、関係がない。
橋は、ラーメン構造だから、コンクリートだ。
鉄橋ではない。




