81話 花売りの少女
大和市白神区の孤地公園で遊ぶ子供たちを眺めながら、空とムラトは静かにベンチに座っていた。どこか懐かしい笑い声が、公園の緑に溶け込んでいる。
「今日も、疲れたな」
ムラトに顔を向けながら空がつぶやいた。少し風が強くなって、彼の髪が乱れる。ムラトはその言葉に反応するように、小さくうなずきながら空を見つめた。
「まぁな、一番きつかったのは断食ぐらいかな」ムラトは少し笑みを浮かべたが、その瞳はどこか曇っていた。彼女の声には、まだ今日の出来事の余韻が残っているようだった。
空は手に持っていた木の枝で砂地を軽く叩きながら、考え込むように視線を落とした。二人はしばらくの間、言葉を発さずに遠くを見つめた。その視線の先には、無邪気に遊ぶ子供たちの姿があった。彼らの笑い声は、どこか遠い記憶を呼び覚ますような響きだった。
「ねえ、お兄さんとお姉さん、買ってください!」
目の前に現れたのは、少し年下の女の子だった。彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、藁で作られた小さな皿を両手に大事そうに抱えている。その皿には花びらや小石、どんぐりなど、近くで拾ったと思われる小さな宝物が並べられていた。
「これ、何のお店?」空は軽く笑いながら問いかけた。その表情には少しだけ疲れが滲んでいたが、どこか優しい目をしていた。
「お花屋さんだよ!全部で、50円!」女の子は目を輝かせながら言った。子供の頃遊んだおままごとだと思うと空は微笑んで、女の子の差し出した小さな藁の皿をじっと見つめた。色とりどりの花びらや丸い小石が、小さな手で丁寧に並べられている。彼はポケットに手を入れて、小銭を探しながら笑った。
「50円かぁ……じゃあ、お兄さん、お花屋さんの常連になっちゃおうかな。」
そう言いながら、空はポケットから50円玉を取り出して、女の子の手にそっと渡した瞬間ムラトが止めに入った。
「空、この人詐欺師の可能性もあるよ、気をつけなきゃ」
ムラトの冗談混じりの言葉に、空は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに肩をすくめて笑い返した。「詐欺師かぁ。こんな可愛い詐欺師なら、騙されてもいいかもね」
「アホ!笑い事じゃないんだよ!50円っていうのは花ビラ一枚だけなあって本当に買うと何千円かかるかもしれないだぞ!」ムラトは口元をきゅっと引き締めたが、その表情にはどこかおかしさが混じっていた。彼女の目が輝くたび、彼女自身の過去の傷や今のもやもやを押しのけるような無理な笑顔が浮かんだのが、空にはわかる。
女の子はムラトの反応に驚き、一瞬だけ動揺したように見えたが、すぐにまた無邪気な笑顔を取り戻した。「じゃあ500円ならどうかな?負けてあげるよ!」
「空、行くぞ。この人と遭遇したらのちの人生が台無しにされる可能性があるからな」ムラトは、少し真剣な表情を作りつつも、冗談交じりに空を促すように立ち上がった。
「おいおい、本気で逃げるのかよ。そこまで言うなら、もう行くしかないな」と、空も冗談めかしながら立ち上がる。二人は女の子の無邪気な笑顔を残して、少しずつ歩き始めた。背後では、女の子が元気な声で「ありがとうございましたー!」とお辞儀をした。その声が風に乗って、耳元をかすめる。
公園の出口へ向かう途中、空はふと立ち止まり、振り返った。まだ物売りする女の子の元気な声が、どこか遠い記憶の扉を叩くように聞こえてくる。彼は、ムラトの顔を見つめて言葉を選ぶように口を開いた。
「本当にいいのか?500円なら買ってあげられるよ。思い出の中の宝物みたいなものさ。」
空の言葉にムラトは一瞬黙り込んだ。彼女の目には、子供の頃の記憶がちらついているようだった。自分もあの女の子のように、無邪気な笑顔で何かを売ろうとしたことがあったかもしれない。だが、今の自分にはその無邪気さを完全に取り戻すことはできない――そんな気持ちが彼女を捉えていた。
「空、思い出に引きずられてばかりじゃダメだよ」
その言葉は、どこか自分自身にも言い聞かせているようだった。ムラトは再び歩き出し、空も静かにその後を追った。公園の出口に近づくにつれて、二人の背後で響いていた子供たちの笑い声が次第に遠ざかっていく。冷たい風が木々を揺らし、葉がひらひらと地面に落ちる。二人はその音に耳を傾けながら、黙々と歩き続けた。
やがて、ムラトはぽつりとつぶやいた。「空、今みたいな人は既に親とか支援が滞ったことで、あんな無邪気さの裏には、もしかしたらもっと切実なものが隠れているかもしれないんだよね。私たちが見たのは一瞬の笑顔だけど、その裏に何があるのかなんて、わからないよね」
空はムラトの言葉を聞きながら、何かを考え込むように目を細めた。彼もまた、過去の記憶が胸をよぎったのだろう。かつて無邪気だった自分や、ムラトと出会った頃のこと。そのときも、何かしらの傷や孤独を抱えていた子供たちが、この世界にはたくさんいた。だけど、そのことをすべて知ることはできないし、すべてに手を差し伸べることもできないのだという現実を、彼らはもう痛いほど理解していた。
「空、今の時代は崩壊したんだよ。今まで親が居て有難かったことや、何気ない支えが当たり前だと思っていたこと――そんな日常すら、どこかで壊れてしまった人たちがいるんだよ」とムラトは、空に視線を合わせないまま静かに続けた。その声には、儚さと少しばかりの無力感が混ざり合っていた。
空は言葉を選びながら、思いを巡らせる。過去に囚われることが多い彼にとって、ムラトの言葉は鋭く心を刺した。彼らが抱えるもの、失ったもの、その重さを考えれば考えるほど、彼もまた自分の無力さを痛感せざるを得なかった。
「でもさ、何か救いはあったはずでしょう?」
空は小さく息をつきながら、ムラトに目を向けた。彼の瞳は、何かを探し求めるように揺れている。希望を信じたい気持ちと、それが見えない現実の狭間で揺れ動く心が、その視線に映し出されていた。
「無い。私はそれを経験してるから、簡単に希望を語るのは無責任だと思ってる」ムラトは強い口調で言い切りながらも、その声にはどこか震えが混じっていた。彼女の中で、過去の辛い出来事や失ったものへの思いがよぎったのだろう。空はその様子に気づき、静かに彼女を見つめた。
「ムラト、少し冷たすぎないか?」
ムラトはふっと息を吐いた。彼女の口元が少しだけ緩んだようにも見えたが、その目はまだ硬いままだった。




