感想を頂いた時の作者の本音
私が感想を頂く際に、かなりの率で申し添えられることがあります。
それは「語彙力がなくてすみません」「どう伝えていいか、拙くて申し訳ありません」という内容です。細部の言い方は違えど、同じことを意味する言葉を大変よく目に致します。
これを受けて私が真っ先に思うのは「大変申し訳ない」ということです。
感想を頂くに当たって言葉の多寡や美麗字句など必要ない。巧拙など問題にもなりません。
ただ「その方の言葉が届けられた」その事実が重要であるからです。
なぜそう思うのか、その本音の意味するところはどこにあるのか、読者の方々にどうか伝わればいいなと願いながらここに記しておきます。
あくまでも東の本音です。
作者としての一般論ではございませんのでご了承ください。こういう考え方もあるんだな、と思って頂ければ幸いです。
順を追って書きますので、少しばかり迂遠になりますがどうぞお付き合いください。
* * * *
まずは自己紹介も兼ねて私のことを少し。
小説を書いて、もう十年以上になります。
最初は個人のサイトで細々と。本当に細々と、です。そもそもアクセスが一週間に数人とかそのレベルで、反応などないのが当たり前でした。それでもずーっと私が書き続けているのは、ひとえに自分が書きたくて、書いたそれを読みたいからです。
いきなり横道に逸れますが、書きたい話と読みたい話は似ているようで違います。
私は基本的に自分が書きたいものを書いている人間です。それは、自分の中にあるどうしても忘れたくないものを残しておく作業、といえば解るでしょうか。写真に似ていますね。
特に人の感情と、好きな風景の積み重ねで私の小説は成っています。それらが私の残したいものだからです。
そうは見えなくとも人には様々な理由がある。強く在る人、他者に優しく在れる人にこそ痛かった過去がある。それが私の人生訓でもあり、何より残したいものです。
そして最も好きなのは生まれ育った場所の雪景色で、日々変化するあの美しさを永遠に留めておきたいと願うのです。これは自分が故郷と親元を離れるのが早かったからこそ、かもしれません。大学を海外に求めたので、十八歳で異国にて独り暮らしとなり、そのまま就職も故郷から遠く離れた場所を選びましたので。
私は射手座なのですが、どうもこの星座は「旅をする星」なのだそうです。
言い得て妙だと我ながら思います。物理的に遠くまで行くこと、それまでに築いた人間関係から離れることを怖いと思ったことは一度もありませんし、良く本を読むので頭の中でもしょっちゅう旅に出ているようなものです。
話がかなり逸れました。元に戻します。
書きたくて書く、ということ。
実際、全年齢版と年齢制限版どちらも書いていますが、それらの作品は全て「どうしても書きたい一場面」がそれぞれにあって、それが為に何万、何十万文字と書き連ねているのです。
今の全年齢版の連載は70万文字を越えていますが、未だにその書きたい一場面には到達しておりません。そこにたどり着くまでにあと何万文字かな……20か30万文字くらいかな……という感じですので、正直「この人は何をやっているんだろう」と思われても致し方ない状態です。
何はともあれそういうわけですから、小説を書くという行為は私の中で完全なる閉じた世界、一人遊びであって、他者からの関わりがなくとも元来構わない性質なのです。だからこそ今の連載作品も、五年間ずっと書いていられるのでしょう。
ちなみに読みたい話は自分では書けません。
読みたい話はイコール好きなものを眺める感覚でして、ジャンル問わずです。雑貨屋に行って色々と眺めて楽しむ感じですね。素敵な雑貨を見つけたとして、ではそれを自分で作れるかというとそうではない、という感覚です。
よく「読みたい小説がないから自分で書いた」という作者様がいらっしゃいますが、あれ、すごい。カタコトになるくらい、自分には真似できない芸当です。
書きたいものを書く自分の中には、原風景とも呼べる忘れ得ぬ物語が一つあります。
物語といってもゲームなんですけどね。
こよなく愛した、今でも愛している登場人物がいます。彼は主人公ではないし、過ちを犯しながら不遇な人生を歩むのですが、それでももがきながら生きていくその姿を大人になった今でも、どうしても忘れられないのです。
私はそれをずっと心に抱えていて、人の汚さ、狡さ、弱さは、同時に美しくもあるのだと気付かされました。他でもない自分自身が生涯を通して惹かれ続けているのですから。
それゆえ、救いのない話は書きませんが、困難辛苦を乗り越える話を書きます。
優等生の百点満点ではないけれども、その人間なりの答えを出す物語を。
ただこれは良し悪しで、自分の中でそれ以外にないと考える話運びは割と他の方にとり厳しめらしく、「過酷ですが読後感は素晴らしいです」などと評される物語が多かったりします。そういう感想を頂戴すると、嬉しくもあり同時に申し訳なくもなります。娯楽であるべき小説で、しんどい思いをさせてどうするんだと……でも変えられないこのスタイル。ごめんなさい。
さて、感想という単語が出ましたので自己紹介はこのあたりにして、ここからは本題についてお話します。
感想を書く。
その際に、語彙力というものは必要なのでしょうか。この問いこそ本エッセイの主題となります。
一作者としての本音を言えば、それはまったく必要ないと思っています。読みました、面白かったです、続きが楽しみです。そういう簡単な一言でも、十二分にお気持ちは伝わってきますから。
これは感想など滅多にもらえないからどんな感想でも嬉しい、というわけではありません。
私にとってそれは自分が美しいと思うもの、残したいと思うものを自分の好きなように並べているところに、「自分もそれを綺麗だと思う」と声をかけてくださったと同義だから、この上なく嬉しいのです。
この感覚を分かって頂けるでしょうか。
全てをここに書き表すことは難しいですが、どうか伝わってほしいと思いながら私はこれを書いています。
綺麗だね、と。
払暁の空でもいい、真昼に輝く青葉でもいい。「綺麗だ」と思ったものに「そうだよね」と返事のあることが奇跡にも等しく、ありがたいことなのです。普通に生活していたとしたら心を分け合うことなどそうありません。小説という媒体を通すとそれができてしまうのだから、本当に凄いことです。
自分の書く小説は全て自分が書きたくて書いている。
だからこそどの場面であっても何かしらの想いを抱いて下さる方が一人でもいたとしたら、それだけで望外の喜びとなるのです。
ですから、もしも拙作に感想を書いてくださるというのであれば、どうか巧拙や語彙力などお気になさらないでくださいと声を大にして言いたいのです。
心の赴くままに、自由に。
それが「面白かったです」の一言に集約されたとしても、作者である自分には色々なものが伝わってきていますから。
……余談ですが、伝わりすぎてあれこれと返信したくなって感想返信はすごい文量になりがち。
極力同じ文量、三行くらいなら五から十行程度で返信、を心掛けてはいるのですが、嬉しさのあまりつい前のめりになってしまいます。この場を借りてお詫び申し上げます。長くてごめんなさい。
エッセイの主題よりも、それ以外の語りの方が長いなんて……どうしてこうなった。でも反省はしていますが後悔はしていません。
ここまでお付き合いくださいまして深謝申し上げます。
他の作者の方の感想に対する考え方も伺ってみたいものです。