重ねた面影 1
「先生。気が付いたみたいですよ」
男が目を覚ましたことに気付いた黒髪の少年が、近くにいた長い青髪の青年に声をかける。満月のような黄金色の瞳を揺らし、青年は男に優しく微笑みかけた。
「大丈夫ですか?どこか痛いところとかあります?」
「……ああ、いや……特に。ところで、あんたたちは……」
まだ意識がはっきりしていないのか、男は掠れた声で尋ねる。
「僕はアンバー・アレクサンドル。旅人です」
「ダイ・オプテウスです」
アンバーと名乗った青年の隣で、ダイと名乗った少年は最低限の自己紹介を済ませた。ダイはそれきり言葉を発することはしなかったが、髪と同じ色の黒縁眼鏡の奥に光る深緑色の瞳は、男を油断なく観察している。少なくともダイからはよく思われていないことを悟った男は、控えめに「よろしく」と口にして起き上がる。すると、男から見て右側、アンバーとダイがいる方とは逆の方から、小さな悲鳴が上がった。声の主は長い銀髪の少女である。
「あ、ごめん……」
男が思わず謝罪の言葉を述べると、少女は返事の代わりに水の入った水筒を差し出した。男はやや戸惑いつつも水筒を受け取り「ありがとう」と口にして水を喉へと流し込む。
「……君は?」
「あ、えっと……エレン・ジェバイトです」
エレンと名乗った少女は消え入りそうな声で答える。左右で色の異なる瞳は、テントに置かれたランタンの炎が揺れるたびにその色を変えた。どうやら光の当たり方によって色が変わる瞳らしい。
「それで、貴方の名前は?」
その不思議な瞳に目を奪われていた男は、不信感を隠しもしないダイの声で現実に引き戻されたようだった。アンバーとダイの方に向き直り、名を名乗る。
「……俺は姫川守。おかげで助かったよ。ありがとう」
「いえ。砂漠の真ん中で倒れてたのを見たときには何事かと思いましたけど……無事みたいでよかったです。ところで、何があったんですか?」
「……いや、大したことじゃないんだ」
アンバーに尋ねられると、姫川は少し困ったような笑みを浮かべてはぐらかした。しかし、アンバーからの心配げな眼差しと、ダイからの静かな疑いの眼差しを向けられると、観念したようにもう一度水筒の水を口にし、小さくため息をつく。
「……実は」
そう切り出した姫川の言葉を遮るように、アンバーの腹の虫が空腹を訴える鳴き声が聞こえた。
気まずそうに開きかけた口を閉じた姫川に、アンバーは苦笑いを浮かべながら提案する。
「すみません……聞いておいて何なんですけど、食べながら聞いてもいいですか?」
申し訳なさそうなアンバーの言葉を聞き、ダイは呆れたようにため息をついた。姫川はやや戸惑ったようだったが、アンバーの提案を受け入れ、食事をしながら話をすることにした。
「これはダイで、こっちはエレンね」
鞄の中から小さな麻袋を取り出し、二人に手渡すアンバー。続けて鞄からもう二つ麻袋を取り出すと、そのうちの一つを姫川に差し出した。
「姫川さんは石食いで合ってますか?」
「あ、ああ……でも、いいのか?旅の食料は貴重だろ」
「石なら拾おうと思えば拾えますから、どうぞ」
「……ありがとう」
やや躊躇いがちに姫川が麻袋を受け取ると、アンバーは嬉しそうに笑みを浮かべた。そして自分の手の中にある麻袋から石を取り出し、口に運ぶ。それを合図にするように、ダイとエレンも麻袋の中身を取り出して口に運んだ。ダイは石、エレンは宝石である。その様子を珍しそうに見ながら、姫川は呟く。
「……あんた、石食いなのか」
「石食いと宝石食いのハーフなんです」
「ああ……そうか」
この世界には、石を食べる石食いと、宝石を食べる宝石食いという二種類の人間がいる。道端に落ちている石や、同じく道端に生えている石植物の実である石を食べれば生きられる石食いは、黒に近い髪や目の色をしていることが多い。一方、宝石や宝石植物を食べる宝石食いは色とりどりの髪色や目の色、整った顔立ちが特徴的だが、原価の高い宝石や特殊な環境下でしか育たない宝石植物を食べないと生きていけないため、石食いと比べて数は極端に少ないとされていた。
麻袋から取り出した石を食べながら、姫川はしばらく沈黙し、石を噛む咀嚼音が聞こえなくなった頃、ようやく口を開いた。
「……妹がいるんだ」
「妹さん?」
「ああ。……宝石食いのな」
石を口に運ぼうとしたアンバーの手が、姫川の言葉を聞いた瞬間に止まる。そのまま石を麻袋に戻し、アンバーは話の続きを促した。
「……腹違いってわけじゃない。血の繋がった実の兄弟だ。でも、俺と両親は石食いで、妹だけが宝石食いとして生まれてきた。いわゆる原石ってやつだ」
「石食いの両親から生まれる宝石食いのことでしたよね」
ダイの言葉に、姫川は無言で頷いてみせた。
本来、石食いか宝石食いかというのは親からの遺伝で決まるものである。しかし、何らかの突然変異で、その常識に当てはまらない子どもが生まれることはごく稀にある。石食いの両親から生まれる宝石食いは原石、宝石食いの両親から生まれる石食いはガラスと呼ばれ、周囲や両親との違いから、差別や虐待の被害に遭うことも少なくなかった。
「……原石は食費がバカにならないって理由で、捨てられることも多いって聞いた。でも、両親は妹を見捨てず必死に働いて、俺たちを育ててくれたんだ。俺も最近働き口が見つかって、やっと家族のために役に立てると思ったんだ。……けど」
知らず知らずのうちに麻袋を握る手に力がこもり、姫川の手に握られた麻袋が、じゃり、と音を立てた。
「……鉱山で働いていた父が事故で死んだのがきっかけで、母は体調を崩して、働けるのは俺だけになった。寝る間も惜しんで働いたけど、新人の安月給じゃとても家族を養うなんてできなくて、どんどん生活は厳しくなっていった。それでも、今までの恩を返せるならって何とか頑張ったんだ。そんなとき、今度は母の訃報を聞いた。……自殺だった」
姫川はアンバーたちの顔を見ることなく、手の中に収まった麻袋を見つめながら、淡々と話を続ける。咀嚼音は聞こえない。この場の誰もが、ただ黙って姫川の話に耳を傾けていた。
「……妹を支えられるのは俺だけだって分かってても、どうしたらいいのか分からなくて途方にくれていたときに、ある噂を聞いたんだ。この砂漠のどこかに、宝石植物が群生しているオアシスがあるって。よほど環境がよくないと育たない宝石植物が、こんな砂漠で群生してるわけないと思ったけど、妹を食べさせていくためには、僅かな望みでも試さないとと思ったんだ。それで……」
「見つからずに空腹で倒れたと?」
「……そういうわけだから、ただ腹が減って倒れただけなんだ。住んでる国もこの近くにあるし、今日はもう家に帰るよ。いろいろありがとな」
「あ、姫川さん……」
立ち上がってテントの外へと出ようとした姫川にアンバーは声をかけるが、それよりも先に姫川がテントのファスナーを開けた。そして、その動作のまま動きを止める。
姫川を迎えたのは、砂漠を包み込む満点の星空。とうに日は暮れて、昼間の日差しが嘘のような冷たい風がテントへ吹き込んだ。そっとファスナーを閉じた姫川に、アンバーは遠慮がちに声をかける。
「……今日はもう遅いので、泊まっていきませんか?」
「いいのか?」
「せっかく助けたのに、ここで捨て置くのは気が引けるので」
アンバーに言われても、男は何やら迷いがあるようで、視線を彷徨わせたまま腰を下ろそうとしない。
「袖振り合うも他生の縁って言うじゃないですか。これも何かの縁ですよ」
アンバーがにこやかに口にした言葉に、ダイとエレンは首をかしげる。
「……そんな言葉、聞いたことないです」
「他生の……?」
「えっ、知らない?僕の故郷では有名な言葉なんだけどなぁ……知らない人と服の袖が触れるのも、何かの縁ってこと。そういうわけですから姫川さん、一晩だけ泊まっていきませんか?」
そう言われると何度も断れないと思ったのか、姫川は黙って頷いた。それを確認したアンバーは、最低限の荷物を持って立ち上がる。
「じゃあ僕と姫川さんは隣のテントにいるから、何かあったら呼んでね」
「分かりました」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
テントの外に出たアンバーは、慣れた手つきで素早くテントを張り、中に荷物を置いた。手伝おうと思っていた姫川が出る幕はなく、アンバーに促されるままテントの中へと招き入れられる。
「……あいつら、あんたの弟と妹なのか?」
「いえ、二人とも僕の弟子ですよ」
「ああ、確かに先生って呼ばれてたな」
渡された寝袋に入って横になると、姫川はほう、とため息をついた。
「……何の先生なんだ?」
「はい?」
「弟子って、剣術とか武術とか、そういうのを教わるものだろ?家庭教師みたいな感じなのか?」
尋ねられると、アンバーは少し言葉を詰まらせた。黙って寝袋に入り、それからもしばらく沈黙する。
「……家庭教師っていうのは、少し違います。二人を弟子にしたのは、ちょっとした口実みたいなものでしたから」
「口実って?」
「赤の他人を、僕の旅に連れ出す口実です」
外気がテントの中に流れ込んできたような悪寒を感じ、姫川は寝袋の中で身じろいだ。
「……あ、そうは言っても誘拐したわけじゃないですよ。ついてきたのは二人の意思ですけど、側から見れば誘拐に見えてしまうので、とりあえず弟子ってことにしたんです」
「ああ、そうか……なるほど」
どうして旅をすることになったのか。それについて、姫川が尋ねることはない。幼い子どもがそれまでの生活を捨て、赤の他人について旅をするというその行動自体が異質であり、普通は考えられないことである。誘拐というのがもっとも有力な説ではあるが、ダイもエレンも、アンバーに不信感を抱いている様子はなかった。むしろ、アンバーのことを信じきっている様子である。家族でもない、赤の他人を。彼らは、家族や過去の生活よりも、アンバーとの過酷な旅を取ったのだ。それが何を意味するのかを想像することは、さほど難しくはない。
「じゃあそろそろ僕たちも寝ましょうか。灯り消しますね」
「ああ」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
アンバーが灯りを消すと、テントは外と同じく暗闇に包まれた。それからしばらくは寝袋が擦れる音が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなる。
目を閉じると、星が瞬く音が聞こえてきそうな、そんな静寂が訪れた。
そんな静寂が突如として打ち破られたのは、明朝早く。アンバーのテントが蹴飛ばされ、文字通り叩き起こされたときのことである。敵の襲撃を考えたアンバーは枕元に置いておいた銃を探るが、どこにも見当たらない。
「先生! 早く!」
テントの外から聞こえるのは、切羽詰まったダイの声。そのまま何も持たずにアンバーが外へ飛び出すと、まだ肌寒い砂漠の中、遠くに姫川の姿を捉えた。そしてその腕の中で震えながら、頭に銃を突きつけられるエレンの姿も。
「……何があったの?」
「あの人が僕たちのテントに忍び込んで、宝石を盗もうとしてたんです。腕を掴むより先に、エレンを人質に取られました」
僅かな動揺が見られるが、それでも淡々と状況を説明するダイ。
「僕のテントを蹴飛ばしたのも姫川さん?」
「それは僕です」
「……」
やはり淡々と答えられ、アンバーはやや戸惑ったようにダイを見やる。するとダイは、視線を姫川に向けたまま答えた。
「緊急事態でしたから」
「……ああ、うん、そうだけど」
釈然としない様子のアンバーだが、まずは姫川をどうにかすべきと判断し、再び姫川の方を見つめる。
「姫川さん、聞こえますか」
アンバーが姫川を刺激しない程度に声をかけると、姫川は一言「来るな」とだけ答えた。
「……大人しく要求を聞けば、こいつのことは傷つけない。ちゃんと解放する」
人質を取り、脅迫のような形で物を要求する人間にしては、その声はあまりに情けなく震えている。姫川の言葉に嘘はないと判断したアンバーは、ひとまず要求を聞くことにした。
「要求は?」
「……あんたたちが持ってる宝石のうち、三分の二でいい。麻袋に入れて持ってきてくれ」
思っていたよりも小規模な要求に、アンバーはやや怪訝そうな表情を浮かべたが、姫川の言う通り、宝石を麻袋に詰める。
「これでいいですか?」
「ああ。その場に置いて、少し離れろ。中身を確認したら……こいつを解放する」
そのままエレンを連れ去られる可能性を考えたのか、ダイは静かにアンバーへ目線を送った。そのことに気づいたアンバーは僅かに頷き、宝石を足元に置いて、姫川から距離を取る。ダイも同じく姫川から距離をとったが、その手は油断なく銃を握っていた。アンバーとダイが後退していくのと同時に姫川は距離を詰めていき、銃を持っていた手で宝石の入った麻袋を拾い上げる。そして再びアンバーたちから距離を取って中身を確かめると、すぐさまエレンを解放して走り去っていった。
「エレン!」
その場にへたり込んだエレンにダイとアンバーが駆け寄ると、エレンは呆然としたように二人を見つめた。
「怪我は? 何もされてない?」
「大丈夫」
どこかぼんやりとしているようだが、目立った外傷はなく、受け答えもはっきりしている。そのことを確認したアンバーは、姫川が走り去っていった方向を眺めた。足跡が残るばかりで、姫川の姿は既に見えなくなっている。
「……宝石と銃は取られましたけど、とにかくエレンが無事でよかったですね」
ダイの言葉に答えることなく、ただ姫川の足跡を見つめるアンバー。
「先生、どうかしました?」
「あ、いや……人質を取ってまで要求することが宝石だけって、少し妙な気がして。もしも姫川さんが宝石狩りなら、見た目が綺麗でマニアに高く売れる宝石食いを逃すはずがないのに」
宝石狩りとは、その名の通り宝石を狩って生計を立てている者のことを指すが、通常の宝石商とは異なり、宝石食いを攫って売り飛ばす奴隷商のような側面も持っている。
「原石の妹さんがいるって言葉を信じるなら、宝石食いは必要ないんじゃないですか?」
「そうだけど……それにしたって得られるものが少なすぎる気が……」
「あの、先生」
アンバーの言葉を遮ったエレンの声に、二人は地面にへたり込んだ少女を見やった。言いにくそうに、エレンは続ける。
「あの人、ずっと謝ってました。だからってわけじゃないけど、たぶん……あの人は、優しい人だと思います。何であんなことをしたのかは、分からないけど……」
「確かに悪い人じゃなさそうだったのに、あんなことするのは妙だよね。あの程度の宝石を奪ったくらいじゃ大して食べてもいけないし、売ってもむしろ損をするくらいだ。切羽詰まっていたとしても不自然かな」
アンバーの言葉から何かを察知したのか、ダイは嫌そうな顔でアンバーを見やる。
「……まさか、また首を突っ込もうなんて考えてませんよね」
「え? だってダイも気になるでしょ? 何か裏がありそうじゃない?」
「それはそうですけど、エレンはあの人に酷い目に遭わされたんですよ? さっきは宝石だけで済みましたけど、次もそれで済むとは……」
「ダイ」
ダイの言葉を控えめに遮りながら、そっと袖を引っ張るエレン。
「私もあの人のことは気になる。ダイが心配してくれるのは分かってるけど、少しだけ、様子を見るだけだから」
本人にそう言われるとさすがに反論のしようがないのか、ダイは仕方がなさそうに「分かった」と答える。
「よし、じゃあ決まりだね。テント畳んで荷物持って」
ダイが折れると、アンバーはまるでこうなることが分かっていたようにてきぱきと用意をする。何だかんだ言いつつもダイが折れることを知っていたのだろう。不満げなダイには構うことなくテントを片付けたアンバーは「さて」と立ち上がった。
「まだ足跡は残ってる?」
「残ってます」
姫川の残した足跡を見つけると、エレンは懐から方位磁石を取り出した。どうやら南東の方へ進んだようである。その隣でダイが地図を広げ、その先に何があるのかを確かめた。
「……変ですね。向こうには何もないはずです。国があるのは逆方向ですし」
「方向を間違えたのかな?」
「とにかく足跡を追ってみようか。鉢合わせないように慎重にね」
「分かりました」
アンバーの言葉で地図をしまい、足跡を追うダイ。その後にエレンとアンバーも続き、足跡を辿り始めた。
足跡は迷いなく南東の方へと向かっているように見えたが、やはり方角を間違えたのか、右に行ったり左に行ったりを繰り返している。始めは勢いで走っていたらしく迷いがなかった足跡は、曲がりくねって行き先を見失っているようだった。
「やっぱり迷ってたみたいですね。足跡の向かう方角がばらばらですし」
「目的地は決めないで、適当に走ってたってこと?」
「……迷ってたのは確かみたいだけど、目的地はちゃんとあったみたいだね」
双眼鏡を覗き込みながら、アンバーは答える。その視線の先にあるのは、それまでとは違い、迷いなくまっすぐに伸びた足跡。
「勢いで走ってるうちに方角が分からなくなって、確認してやっと目的地に行ける道を見つけたって感じかな」
「目的地の方は見えそうですか?」
「う〜ん……向こうに廃墟みたいなものがある。宝石を奪って戻る廃墟となると……まぁ、いいところではなさそうかな」
「宝石狩りの根城ですか?」
ダイの言葉を聞き、アンバーは双眼鏡を鞄にしまった。
「地図には載ってないし、たぶんそうだと思う。とにかく行ってみよう」
目的地を定め、アンバーたちは再び足を動かし始める。冷たい風が頰を刺す中、不意にアンバーが不満げに口を開いた。
「それにしてもさぁ」
「何ですか?」
「緊急事態だからって、普通テント蹴飛ばす? 起こし方が荒すぎるよ」
アンバーの苦情を物ともせず、ダイは涼しい顔で答える。
「緊急事態だったので仕方なくですよ」
「でも、テントを蹴るのはだめだよ……」
「ほら! エレンもこう言ってるよ!」
「そもそも、先生の寝起きが悪すぎるのが原因じゃないですか。呼んだだけで起きてくるなら僕だってテントを蹴飛ばさずに済んだんですよ」
「そんなことないよ! 僕だって呼べばすぐに起きるって! だよね、エレン!」
アンバーに同意を求められると、エレンは気まずそうに視線を彷徨わせた。どうやら肯定するか否か決めかねているようだ。というよりも、いかにして否定すればいいのかが分からずに戸惑っているのだろう。
「で……でも、テントを蹴るのはやっぱりだめだよ……穴が開いたら困るし……」
「ほら、エレンもこう言って……穴?」
「ああ、確かにそれもそうだね」
「いや二人とも、ちょっと待って」
「乱暴な真似してすみません。次からは穴を開けないように気をつけます」
「ちょっとダイ、謝るのそこじゃないから」
「あ、見えてきましたよ」
「ダイ?聞いてる?」
アンバーの言葉を無視して、ダイは前方の廃墟を指差した。埃と砂にまみれ、人が住んでいる気配こそないものの、ところどころに書かれた落書きと、まっすぐに伸びた足跡がその可能性を否定する。少なくとも、人が寄り付かないわけではないのだろう。
ダイとの会話は諦めたのか、アンバーは静かに廃墟の方へと歩み寄り、適当な入り口からそっと中を伺った。そして、僅かに顔をしかめる。
「どうかしました?」
小声で尋ねたダイの耳に、誰かの呻き声が届いた。それからしばらく咳き込みが続いたかと思うと、人を殴るときの独特な音に加えて、再び呻き声が聞こえてくる。一人の男が廃墟の中で二人に押さえつけられ、一方的に暴力を振るわれていた。体勢を崩し倒れても起こされ、立てなくなっても殴られ続ける。男が抵抗する様子はない。もはやそんな力すらも残っていないようだった。
「あの殴られてる人……」
声を震わせながら言うエレンに対し、アンバーは眉間に刻まれた皺の存在を隠すことなく答える。
「……姫川さんだ」
廃墟では今も、姫川が男たちに殴られ続けている。姫川以外の男は見たところ四人。一人は腕から首までびっしりと彫られた刺青があり、一人はナイフを玩具のように投げて遊んでいる。一人はマスクをずらして下卑た笑みを晒し、もう一人は麻袋を逆さまにして、中からこぼれ落ちた宝石のうちの一つを拾い上げ、大きく振りかぶって姫川の顔面に叩きつけた。それほど大粒ではないにしても、至近距離から石をぶつけられた姫川は再び苦しそうに呻いた。その様子を見て、宝石を投げた男は上機嫌で口笛を吹く。
「姫川くんさぁ、俺の話聞いてた?」
男は姫川の顔を覗き込みながら優しく語りかけたかと思うと、次の瞬間には姫川の肩を蹴飛ばし、床に転がらせた。間髪入れずに姫川の腹を靴で踏みつけ、そのまま煙草の吸殻でも潰すようにつま先を擦り付ける。
「俺さぁ、ちゃ〜んと言ったじゃん? 宝石と、宝石食いを連れて来いって。宝石だけじゃ今どき商売にならないんだわ〜。まぁこの辺じゃ宝石植物も貴重だし、それでやっていけなくもないんだけどね〜」
笑顔を浮かべながら一度言葉を切り、男は足を浮かせる。痛みから解放された姫川は貪るように息を吸い込んだが、またすぐに男の足が腹にめり込み、吸い込んだ息は全て吐き出された。
「……これっぽっちとか舐めてんの?ふざけんのも大概にしろよお前」
冷たい目で姫川を見つめながら、少しずつ姫川の腹に足を沈めていく男。姫川がいくらもがいたところで、その痛みから解放されることはない。
「言ったよな。死ぬ気で借金返すって。なら死ぬ気で宝石食いの一人や二人連れて来いっつってんだよ!」
男は突如激昂し、姫川の腹に沈めていた足を浮かべ、姫川の顔を蹴り飛ばした。それを合図にするかのように他の男たちも姫川を甚振り始める。
「……どうするんですか?」
物陰から無言でその様子を見ているアンバーに、ダイはそっと尋ねた。直接その場面を見ているわけではないが、廃墟から聞こえる声を聞けば、姫川がどんな目に遭っているのかを想像することは難しくない。
「四対一ならたぶん大丈夫。とりあえず僕が行くから、危なくなったら援護して」
「分かりました」
アンバーの言葉に頷き、銃を構えるダイの手が、不意に止まった。
「……無茶はしないでくださいね」
ぼそりと放たれたその言葉に、アンバーは嬉しそうにダイを振り返った。
「ダイが心配してくれるのなんて珍しいね」
「いつも心配してるじゃないですか」
「ダイにとって僕はテント以下なんだと思ってたから」
「根に持たないでくださいよ。それより、早く行ってあげてください」
「分かってるよ〜」
「お気をつけて」
銃を握り締めながら心配げに声をかけたエレンの頭を優しく撫で「ありがとう」と口にすると、アンバーは再び廃墟へと目を向けた。深く息を吐き、胸の上で手を握りしめる。そして地図を手に取ると、廃墟の中へと足を踏み入れていった。