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ナイン・テイルズ

受験前夜

作者: 穹向 水透

三作目となります。ちょっとした青春擬きを書きました。

       1


 午後六時半。今日の夜空は透き通っているようで、その分、風が酷く冷たい。星はある程度は見えた。少なくともオリオン座は見つけることが出来た。「星の綺麗な市」を自称しているくらいなので、多少の街灯りに負けるような星空では困る。

 街は静寂に包まれて、市の中心である駅前さえも閑散としていた。居酒屋の赤い提灯が虚しく灯り、時折、電車の発着のアナウンスさえも聞こえてくる。駅前で活気を見せているのは、シンボルの花時計前で弾き語りをしている男くらいだった。といっても、そもそも、人が疎らにしかいないので、彼の前には誰もいなかった。数年前に流行った曲を弾いているようだ。ボーカルが危ない薬に手を出して捕まったという話は一時期のニュースを騒がしていたが、すぐに鎮まった。弾き語りの男は、曲を弾き終わると自分で拍手をする。これまた虚しくて、涙が出そうになる。次に弾き始めたのは聞き憶えのない曲だったので、耳は彼からそっぽを向ける。彼の何処にも届かない声が、透明な夜に遥か高く消えていった。

 私こと成上夜花(なるかみ よか)は駅の改札前の柱に凭れて人を待っていた。ちなみに、この変な名前は私が羊水に浮かんでいた頃、両親が見た諏訪の花火に感銘を受けて名付けたらしい。もしも男だったら、夜輝(よき)にするとか言っていたので、まだ女に生まれてよかったな、と思う。私は明日に受験を控える高校生で、今から塾に行くつもりなのだが、待っている友人が全然来ない。このまま弾き語りを聞いているのも乙なものではあるが、流石に時間の無駄だと思い、一言連絡を入れて先に行こうとした時、奴は来た。

「夜花、悪い! 電車一本逃しちゃってさ」

「最低だね。仮にも明日、受験なんだよ?」

「え、先に行っててよかったのに」

「待っててあげたのに、随分な物言いをするのね」

「え、あ、ごめん」

 しおらしく頭を下げる様は、彼の単純さ、素直さをイメージさせる。彼は私の小学校からの友人で、青浜煌汰郎(あおはま こうたろう)という。人柄が抜群に良く、頭も良い。その人柄から、人を信じ過ぎてしまうことが玉に瑕だと周囲から言われている。しかし、見ていると割と毒を吐いているように思える。それも陰からではなく、本人に直接である。何故、嫌われないのか、その点が無視されているのかは謎だ。

「とにかく、急ごう。自習室の席なくなっちゃうよ」

 私と煌汰郎は閑散とした駅前から走り出して、弾き語りを横目に通過して、少し寂しい通りへ入った。普段なら飲食店も大してないような、駅前より人がいない通りだが、今日は違う。明日のために追い込みをしている受験生たちが、少しでも優れた学習環境を求めてやって来るのだ。入り口の自転車の数でわかるが、少なくとも三十人近くは来ている。しかし、徒歩で来る生徒は自転車より多いので、中にいる人数はもっと多いと思われる。塾のキャパシティから考えると、パンク寸前だと考えられるが、大丈夫だろうか。

「人、多すぎるな。自習室、空いてるかな」

「空いてるとは思うよ。追い込みで苦手教化を教えてもらってる子もいるだろうし」

「ふたつ、横並びで空いてないかな?」

「それの期待値は低いなぁ」

 私はそう言ったが、確かに横並びの席の方がいい。煌汰郎は私の不得意な数学が得意で、模試では九割は取っている。一年間、頑張ってきたと思う私でさえ七割程度しか取れてないのに。

 玄関の奥の方のエレベーターで三階の自習室に向かう。エレベーター内部の壁には、去年の合格実績が貼られている。ある意味、プレッシャーで、自分の志望している所に何人受かった落ちたというのは、何とも言えない不安を掻き立ててしまう。三階で降りるや否や、ひとりの男子がエレベーターに駆け込んでくる。顔は見たことはあるが、名前は知らなかった。

「どうした岩清水(いわしみず)? 忘れ物か?」

 煌汰郎が訊ねても、岩清水という少年は返事もしない。「こりゃダメだ」と煌汰郎が口に出すと同時にドアが閉まった。

「今、あいつが飛び出して来たのは、十中八九、自習室だ……。つまり、一席空いたって考えで、その横にもうひとつ空いてればベストだな」

「そうだね。あ、待って、お茶買ってくるよ」

「じゃあ、僕も買うよ」

 私たちは自動販売機の前に立ったが、どの飲み物も売り切れの赤い文字が光っている。端の方で売れ残っていたエナジードリンクしか買うものがなかったので、ふたりしてそれを買った。

「夜花は炭酸ダメなんじゃなかったっけ」

「仕方ないよ。でも、炭酸なら眠気くらい飛ばしてくれると思うよ」

 私たちは自習室の扉を開く。中は、ある意味喧騒に満ちていた。鉛筆や消しゴムが紙と擦れる音、時折聞こえてくるくしゃみや咳の音、そして、誰かの悲鳴のような声。入った瞬間に悲鳴のような声が聞こえたかと思えば、男子がひとり、勢いよく出て行った。私たちは奥の方に運良くふたつ並んだ空席を発見した。そこに座ると、私の横で勉強していた少年が顔を出した。

「やぁ、おふたりさん。少し来るのが遅いんじゃないか?」

「煌汰郎が遅刻したんだよ」

「えぇ、だから、先に行っててくれてよかったのに……」

「まぁ、いいさ。運が良かったね。さっきまでそこは岩清水がいたんだけど、あいつ、世界史が出来ないって半狂乱になってさ」

「どうせ、君が煽ったんでしょ? 弥生(やよい)君」

「はは、そうかもしれないな」

 天無(そらなし)弥生は私と煌汰郎のクラスメートである。性格がはっきりしていて私は好きだが、口が悪いので大抵の女子からは嫌われている。彼は大抵のことは(こな)せるタイプで、それだけならいいのに、よく人を煽ってしまうという悪い癖があるのだ。本人は「三つ子の魂百までって言うだろ?」とさして気にしていないようだった。よくひとりで本を読んでいるので、そもそも、ひとりの方が好きなのかもしれない。

「煌汰郎、勉強の調子はどうだ?」

「悪くないけど、英語に不安があるよ。天無はどう?」

「僕は粗方は大丈夫かな。今更、根を詰めたって仕方がないから、僕は君らと話していたいんだけど」

「落とすつもりなの?」

「それだけで落ちるようなら諦めた方がいいんじゃない?」

 私は「確かに」と手を叩く。

「そういえば、成上。彼氏来てたぞ」

「はぁ?」

 私は大袈裟に口を開いて、ジェスチャーをする。

「彼氏じゃない、『元』彼氏よ。それに今も友人なんだから、いたっていなくたってどっちでも大差はないの」

 笹川佑世(ささかわ ゆうせい)は私の元彼で、去年の夏頃から付き合っていた。きっかけは彼の告白で、別れる時は私からだった。「友達に戻ろう」なんて胡散臭い言葉で別れたが、その後も佑世とは普通に話せる間柄で、周囲からは本当に別れたのか、或いは、本当に付き合っていたのか、などと疑われている始末だ。

「どうでもいいけどさ、岩清水はお前のことが好きらしいぞ」

「それは……、どうでもいいや」

「何でだよ。岩清水も悪くないぞ」

 そう言った弥生の顔は笑っていた。要するに彼は、私が岩清水のことをバッサリと切ることを期待しているのだ。実際、そうなのだが。

「岩清水くんね、さっき名前を知ったんだよね」

「おいおい、仮にもクラスメートだろ?」

「知らないものは知らないよ」

「結構さ、狭い世界で生きてるね」

「え、君に言われたくない」

「うーん。一理ある」

 その時、ドアが開く音が聞こえて、特徴的な足音が聞こえた。まるで巨大な獣が森を歩くような音。それは塾講師の田辺(たなべ)という男のもので、私はそいつが嫌いだった。この塾に対する私の評価は、星五段階で四なのだが、一の分を田辺の存在が減らしているのだ。田辺はすぐに自分のスタイルを押し付けるタイプで、私はノートに絵を描く方式で勉強しているのだが、田辺は「非効率だ」などとすぐに否定する。私としては、文字ばかりのノートより、絵の方が憶えやすいのだ。スタイルは人それぞれなのに、我流を押し付けてくるタイプは全体的に嫌いだ。だから、今年のクラスの委員長が私は嫌いだ。

 田辺は奥まで来て覗いていったが、何も言わなかった。流石に受験前日。誰も自習室で騒ぐような奴はいない。弥生は例外として。彼がやけに静かにしているので、机を覗くと、彼は小説を読んでいた。頁の上部には「対エスキモー戦争の前夜」とある。なるほど、サリンジャーだ。彼はこれを読み終わるまでは静かだろう。なので、今のうちに勉強をする。


       2


 鉛筆を紙に走らせ、苦手な数学を解く。明日のセンター試験さえ終われば、数学なんてものとはさよならできる。私の志望している大学は言語系で、二次試験は英語と世界史を使う。英語の筆記と世界史は負けない自信があるが、リスニングにどうしても不安が残る。英語検定の時もリスニングのせいで崖っぷちの合格をしたのだが、二次の面接で見事に大転けした。模試の判定ではBとなっているので、まだ希望はある。やれるだけはやらないと。

 私と煌汰郎と弥生は全員文系である。ちなみに、元彼は理系だ。私は言語を学びたかったので文系なのだが、煌汰郎は完全にミスである。彼は元々、理工学系の大学に進もうと考えていたのだが、文理選択の用紙で何をとち狂ったか文系を選択したのだ。そんなわけで、彼は今、文理混合の環境科学系の大学へ進もうとしている。今年の文系の学年順位は一位を弥生が、二位を煌汰郎が独占してきた。ちなみに、私は中の上くらいの順位にいつも座っていた。更に言うと、弥生は理系も含めた学年全体でも一位である。これで口さえ大人しければ、女子に好かれる男だっただろうに。

 修学旅行の時だっただろうか。私たちの学校では、男女混合の班を作って活動するのが習わしとなっているそうで、私は煌汰郎と弥生と、雲崎(くもさき)という女子でグループを作った。そういえば、この時、やたらと岩清水がこっちのグループに入ろうとしていたが、男子と女子の数は等しくという原則のため、入れなかったのだ。煌汰郎はたくさんの勧誘を拒んで、私と弥生というあまり好かれていないであろう連中のもとへやって来た。彼が「こっちの方が落ち着く」と言っていたことを憶えている。修学旅行は沖縄で、私たちは三人で県内を巡った(雲崎は病弱だったため、修学旅行不参加だった)。植物園では、弥生がやたらと蘊蓄を話す。話自体は面白かったのだが、私は「そんな風だから女子が寄って来ないんだよ」と言った記憶がある。弥生は「そんなにたくさんに寄られても困るだろ? 僕は最終的に寄って来た高尚な趣味の子を選ぶだけだよ」などと言っていた。砂浜では貝殻を拾った。相変わらず、弥生の知識は止めどなく流れ出ていたが、そんなことよりも、煌汰郎が見つけた淡いピンクの巻き貝が綺麗だったことを憶えている。彼は私にそれをくれて、私は今も大切に保管している。ホテルのロビーで三人で話したことも憶えている。周囲にはたくさんの恋人同士が隠すことなく会話を楽しんでいた(私は佑世とはすでに別れていた)。調子のいい誰かが「逆ハーレム」などと言っていたが、あまりに子供のような言葉なので三人で笑ってしまった。部屋は二人部屋だったのだが、相方の雲崎はいないので、ひとりだった。寂しかったので、煌汰郎と弥生のいる部屋で大富豪をして遊んだ。大体、決まって煌汰郎が貧民になる。「善人は金持ちにはなれないって相場は決まってるのさ」などと弥生が言っていた。ああ、楽しかった修学旅行の記憶。青い空と青い海と緑の大地。帰りに何処のクラスの子かわからないが、頭にハイビスカスの花を飾った男子がいた。それがよく似合っていたことが修学旅行最後の記憶となっている。

 こんなことを考えているうちに数学の問題を解き終えた。意識の大半が記憶を走っていたにも関わらず解けているというのは、私のレベルも上がったということなのだろう。

 左を見ると、煌汰郎は黙々と英語の長文を読んでいる。端々を見た感じでは、内容は靴屋が少年におつかいを頼むといった寓話的なものであった。彼は最後の「文の内容と合致する選択肢をふたつ選べ」という問いと戦っているようだ。私にはすぐわかったが、英語が若干苦手な煌汰郎は少し時間が掛かっている。最終的に正解はしていたので結果オーライである。

 右を見ると、弥生はまだサリンジャーを読んでいた。「対エスキモー戦争の前夜」を読み終えて、「笑い男」を読んでいるようだ。彼の読むペースは非常に早い。秋頃、彼はダンテの「神曲」を読んでいたが、一日に一篇ずつ読んで、三日で地獄、煉獄、天国を巡ってしまった。ちなみに、私はまだ「地獄篇」しか読んでいない。ちょっと前に、煌汰郎が「そんなペースで読んで頭に入るの?」と訊ねていたが、彼は「頭に入ってるから次の本を読むんだよ」と答えていた。弥生は本を読み始めると、周りのことがどうでもよくなるらしく、夏頃の小論文講座で先頭に座っていた彼は、堂々と「レ・ミゼラブル」を読み続けたため、講師が激怒して本を取り上げてしまった。その時、彼は「(ああ)無情」と一言だけ残して出て行った。その後、彼は図書室で「レ・ミゼラブル」の続きを読んでいたらしい。

 どちらも集中していて、声が掛けられそうになかったので、私も集中して問題を解くことにした。


       3


 時計を見ると、もう自習室に来てから三時間近く経っていた。問題集もかなり進んで、私の理解も満足がいく程度には進んだ。左では煌汰郎が両腕を伸ばして欠伸をして、右ではサリンジャーを読み終わって、暇だったのか魔方陣を解いて遊んでいる弥生が観察できた。私はふたりに「ごはん買いにいかない?」と声を掛けた。「仕方ないなぁ」と弥生。煌汰郎は無言で立ち上がり、首を左右に曲げて音を鳴らした。自習室のルールでは、「外出」の札が置いてあれば、荷物を置いて、席をキープできる。あれ?さっき岩清水は荷物を持っていたっけ? そう思って弥生を見ると、彼は何かを察したように「何のことかな?」と嘯いた。ああ、こいつやったな、と思ったが、不思議なことに岩清水に対する同情の念は湧かなかった。

 この塾から出てすぐ近くにコンビニがある。塾に来た受験生でごった返してるかと思ったが、そうでもなかった。

「お、麻川(あさかわ)、お前こんなところで漫画なんか読んでる暇あるのかよ」

 煌汰郎が雑誌コーナーにいた少年に声を掛ける。恐らく理系の生徒だと思われる。

「いいんだよ、今更どうこうしたって、結果は同じだよ」

「お前も同じとこだろ? 頑張ろうぜ」

「いやいや、待て待て。青浜、お前A判定だろ? 格が違うんだ。勘弁してくれ」

 麻川という少年は笑いながら言って、雑誌を棚に置いた。

「何か、頑張れって言われるとやらなきゃいけない感じがするな。仕方ないから、帰って英語でも解くよ」

「おう、頑張れよ」

 ふたりのやり取りを見ていたら、横から弥生が「煌汰郎の人柄の良さがわかるよな。僕や君が言ったら逆上されそうだ」と私に囁いた。私を同じにするなよ、と言おうと思ったがやめた。

 私はお茶(エナジードリンクを飲みきったため)とパンを、煌汰郎は親子丼を、弥生はグラタンを買って塾に戻った。一階に飲食スペースがあるので、そこで食べることにした。流石に受験前日の飲食スペースは閑散としていたが、隅にあるものを見つけた。岩清水だ。

「おい、岩清水。何してんだ?」

 弥生が声を掛けると、岩清水が顔を上げた。眼の付近が赤いので泣いていたのだろう。それにしても、あまり記憶に残らない顔立ちだ。私が憶えていなかったのも無理はないだろう。彼は私の方をじっと見つめているようで、私は彼の方に眼を向けたくなかった。

「おい、岩清水?」

 岩清水は不意に立ち上がると、私の方へ歩いてきた。咄嗟に煌汰郎が私の前に立ってくれた。岩清水は鼻息を荒くして、煌汰郎を睨んでいる。何だこいつは。

「どけよ」

「いや、無理だ。君の顔から判断して、何か危なそうだ」

「おれは夜花に用があるんだ」

 呼び捨てかよ。ろくな奴じゃないな、と思って煌汰郎の背中に完全に隠れた。これで岩清水の姿は見えない。

「おい、夜花」

 何度か岩清水の声がしたところで、私は苛立ちが募って岩清水の前に出てやった。

「用件は?」

 岩清水は少しだけ躊躇ったような顔をしてから言った。

「……付き合って下さい」

 途端に三人で笑い出してしまう。岩清水は困惑した顔から、すぐに赤い怒り顔に変化した。

「何がおかしいんだ、お前ら」

「えっと、バカなの? 付き合うわけないでしょ? まず、私は君を知らないし」

「え、同じクラス……」

 岩清水は絶望したような顔になる。表情の変化のバリエーションが多いようだ。

「で、私は自分の名前を連呼されて気分が良くなるタイプの人間じゃない。ましてや、知りもしないやつから呼ばれるなんて最悪だね」

「……あ」

「わかるかな? 私は、君と、付き合いたくないし、友達にもなりたくもない」

 そう言うと、岩清水は言語化されていない呻き声を出しながら、飲食スペースから出て行った。玄関へ向かう途中で何度も転んだり、壁にぶつかったり。この後、事故なんか起こしてたら後味は悪いけど、別に気にしない。

「やな子だね、君は」と弥生が笑いながら言う。

「可哀想にな。明日、あいつは失敗するんだろうな」と煌汰郎。

「いいよ、失敗したって。別に私にとってはどうでもいい人だもの。まずは我が身よ」

 表の方で自転車が倒れる音がしたが、恐らく岩清水がヤケクソで蹴ったのだろう。すぐに塾のバイト講師が出て行った。自動ドアが開いた一瞬、外から名状し難い声が入ってきた。それを聞いて、また三人で大笑い。外が静かになった辺りで食事を始めた。

「何も受験前夜に玉砕しに行くこともなかったよなぁ」

「せめて、受験後、或いは卒業後だよね」

「少なくとも、岩清水の合格可能性がゼロに近くなったことだけはわかったよな」

「いやいや、もしかしたら、悔しさをバネに凄い点出すかもよ」

「可能性はあるけどな。あいつは何処を狙ってるんだ?」

「確かK大の法学部だったかな」

「それは、頑張れとしか言えないや」

 私は買ったパンを頬張りながら言う。ケチャップが指についたので舌先で舐めたら、弥生が「それどんなアピール?」と訊いてきたので、「バカ」と返しておいた。

「そういえば、成上は何処行くんだっけ」と弥生が訊ねてきた。

「私はね、T大学の言語学科を受けるよ」

「へぇ、言語ね。何処の言語?」

「私は古ノルド語を学んでみたいな」

「知らない言語だな」

「まぁ、古い言語だからね。古ノルド語ってのは、昔の北欧で使われていた言語でね、北欧神話とかのエッダとかは、この言葉で記されてるんだよね」

「そういえば、夜花は神話好きだよね。てっきり、そっちを学びたいのかと思ってた」

 私は頭を軽く掻いた。

「いやね、神話って世間的に見たらマイナーなジャンルでしょ? あんまり国公立にないんだよね。でも、私立はお金かかるし。だったら、神話は独学で、言語は専門に学んでしまおう、と考えたわけだ」

「で、それを学んで将来はどうするんだ?」

「えっ、なんか、弥生君、先生か親みたいなこというね」

 私はちょっと驚いたけれども答えた。

「将来ね……、あんまり考えてないけど、翻訳家とかいいなって思うな。そしたら、私は好きな神話を訳して出版してもらうの。私が訳した世界がみんなに読まれるって考えると楽しくなるじゃない」

 煌汰郎がエナジードリンクを片手に頷く。

「もし実現したら、僕は買ってあげるよ」

「弥生君は?」

「金銭的に余裕があったらかな」

「というか、私ばっかりだな。煌汰郎と弥生君はどうなの?」

 弥生が「僕からいい?」というようなジェスチャーをする。煌汰郎は無言で頷いた。

「僕はね、今のところはH大学の法学部を目指してるよ」

「また、レベルの高いところを……」

 私が大袈裟に驚くと、「君だって同じくらい」と彼は言った。

「天無は何で法学部を目指してるんだっけ」

 煌汰郎が訊ねると、弥生は少し考えてから答えた。

「特にはっきりした理由はないよ。強いて言うなら、父親が弁護士だからってことぐらいかな」

「弥生君のお父さん、弁護士なんだ。初耳」

「弁護士といっても、真っ当じゃないよ。散々負けて、クライアントもろくにいなくなった底辺弁護士さ。天無陽治(ようじ)って調べてみなよ。名前の後に『無能』とか『敗訴』とかがくっついてくるんだぜ。情けないよなぁ」

「……それを越えるためか?」

「まぁ、そうだね。父親より下はいないだろうけど」

「それを越えるのに、国際弁護士なんて目指すのか?」

 私は驚いた。弥生は弁護士は弁護士でも、国際弁護士を目指しているのか。これまたレベルの高いものを。

「……あんまり言いたくないけど、言うか。抱えるもの抱えて受験に臨むってのもあれだもんな」

 彼はそう言うと、残っていたグラタンを一気に食べてしまった。

「はぁ。まず、僕の兄貴が外国で失踪したことは、煌汰郎には話したことあったよな?」

「あるよ。フィンランドだか、ノルウェーだかで遭難したんだっけ?」

「そう。兄貴は大学生の時に、北欧の数ヵ国を巡る旅行をしたんだ。それで、フィンランドの山でスキーしてる時に遭難して、そのまま見つかってない。家族だって、もう諦めててさ。死んだものだと完全に希望は捨てちゃった。まぁ、これだけならいいよな。単純な遭難だし、よくある話だと思うよ」

 彼は一呼吸置いてから話した。

「こっからは煌汰郎にも誰にも話してない。勿論、家族にもだ」

 私な何か高鳴るものを感じた。冒険映画を見ているときのような、謎の高鳴りだ。

「兄貴が遭難した時、僕は中学三年だった。もう、家族も普通の日常に戻り始めた頃だったな。登校途中に変な爺さんに話し掛けられたんだ。片言の日本語でね、真っ白な頭に髭で、頬に十字の傷跡が残ってる外国人の爺さんだった。そいつは僕のことを呼んでこう言ったんだ。『お前の兄は人殺しだ』とね。もう吃驚したよ。頭が真っ白になったね。すぐにオーバーヒートして頭痛が生じたよ。僕が訊き返すと爺さんは『あいつは私の大切な子供を殺したのだ』って言った。僕が『兄はどうなった』と訊ねると、爺さんは『私が罰した』と言ったんだ。で、爺さんはさ、『お前は私をどうする』と言ったんだ。つまりは、兄の復讐をするか、って言ってたんだ。僕は『どうもしない』とだけ言ったよ、そしたら『お前はいい子になるだろう』って言って歩いて行っちゃったんだ。僕はそこで思ったね。『僕は兄貴を裁かなくちゃいけない。あの爺さんも裁かなくちゃいけない』って。変な理由だし、筋も通ってないけど、これが国際弁護士を目指すきっかけになったエピソードだよ。満足?」

 私は思わず拍手をした。人という生き物は色々なものを抱えてるんだな、と思った。

「もう、こんな辛気臭いターンはやめよう。早く、煌汰郎のターンにして。僕の話はお終いだよ」

 弥生が話を振ると、煌汰郎は少し考えてから語り出した。

「まぁ、夜花も天無も知ってると思うけど、僕の志望はC大学の環境科学だ。僕はそこで、そこで、何を学びたいんだろう?」

「え、知らないよ」

「おいおい、煌汰郎、受験前夜の発言とは思えないぞ」

「そうだね。うーん。何だろうね。数学が二次試験にあるとこならって考えで来たからなぁ」

「本当に何で文系来たの……」

「え、そりゃあ、君がいるから……、あっ、えっと、待って、今のなしにして」

 慌て出す煌汰郎と、宮沢賢治の料理店にいそうな猫の顔をする弥生。私も流石に察したが、そういうことだったのか。

「やぁ、煌汰郎君。岩清水より上出来なんじゃないかな?」と弥生が言う。これを聞いた煌汰郎は真っ赤になって、とても恥ずかしそうに親子丼を口に運んだ。

「……ごめん」と煌汰郎。「何だろう、もっとちゃんとした伝え方をすればよかった気がする」と言って、二倍速で親子丼を食べている。

 横で弥生が何か言いたげな顔をしている。

「仕方ないなぁ。返事はオーケーってことにしてあげるよ」

 煌汰郎はスプーンを停止させ、顔を上げた。

「君に受験は失敗してもらいたくないからね。受験前夜くらいは」

 ああ、何だろうなぁ。寧ろ私がもやもやしてきた。

「さて、そろそろ、帰ろうか。君たちだって、帰り道で触れ合いたいだろうしね」

 弥生が煽るような口調で言う。私は反論しようとしたが、口が回らず、変な声が出た。

 自習室から荷物を回収した後、自転車が並んだ場所で明日の激励をそれぞれ行った。その後、弥生が自転車に乗って帰ったので、私たちはふたりになった。

「はぁ、明日、大丈夫かな?」と私。

「大丈夫だよ。どうにかなるさ」と煌汰郎。

 冬の透明な夜空に少し熱を帯びた声が浮かんでいった。

ありがとうございました。

わからない箇所があった場合、他の短編を読んでいただけるとわかることがあるかと。

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