5.
誰もいない、静かな音楽室にたたずむ、大きなグランドピアノの椅子に腰かける。何かを曲を弾けるわけでもない。ただ一つの指で一つの音を出す。無音の空間に甲高く鳴り響いた音は確かに私に聴こえた。そう、この音が聴こえたのだ。さっき、心躍るように廊下を駆けていた時。確かにこの音は聴こえた。聴こえた。
残響も聴こえなくなるまで、その場に座り続けた。
忘れかけていた感情がいま再び彼女の心に浮かび上がる。
寂しいという感情。人がいなくなり、世界でたった一人になった時。誰もいなくなったという事実に、恐れや悲しみ、そして寂しさ。負の感情が渦巻き、生きる気力すら失いかけたあの時。生きる為に行った事は、感情を捨て去ることだった。
なのに。自分の中にはまだ感情は生きている。それはそうだ。心が死なない限り感情も消えることはない。
疑問。悲しさや寂しさが再び心の奥に隠れた後に出てきた思いはそれだ。なぜ誰もいないのにピアノは鳴っていたのか。自分で弾いてみてわかる。あれは幻聴が聴こえたわけではない。確かに音は聴こえたのだ。だが、この音楽室の扉を開いた瞬間に音は消え去った。
誰かが居たとしても、私に見つからないように出ていく時間などなかったはずだ。カナは周囲を見渡す。楽譜掛けとそれに相対するイスが教室中に並び、奥には掃除用具が入っているであろうロッカーがある。一応そのロッカーを開けてみるが、箒とモップ、バケツがあるだけで誰もいなかった。
この教室には誰も居なかったのだ。
ひとりでにピアノがなったのか・・・?
世界から人が誰もいないという事自体が既に超常的な現象なのだが、それでもピアノがひとりでになるというような怪奇的な現象は今までなかった。
いくら考えても答えは出てこない。空気を入れ替える為に彼女は窓を開けた。