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小さな手

 甘い桃の香りに気付き、目が覚めた。

 病室はまだ明るく、外の音からもそれほど時間が経っていないことが分かった。

 クレアのベッドを見てもまだ戻ってはおらず、病室には誰もいないと思っていたが、俺を呼ぶ声が右の死角から聞こえ、振り向くと、そこにヒーがいた。

「ヒー! なんでここに!?」

「お見舞いですよ? リリアが会いに行けと、時間をくれました」

 アイツは暇なときと言ったのに、よほど俺たちのことが気になるらしい。

「桃を剥きました。食べますか?」

「えっ! あぁ……」

 ヒーはそれを聞いて、リリアと同じように左側に席を移し、フォークに刺した桃を俺に食べさせようと、口元へ差し出した。

「ヒー! 自分で食べるから、皿ごと俺に頂戴!」

 リリアのせいで変に意識してしまい、普段気にならない事まで気になるようになってしまった。

「そうですか……どうぞ。落とさないように気を付けて下さい」

 ヒーは残念そうに、桃の乗る皿を俺の膝の上に置いた。

 約束のせいか、ヒーがとても悲しそうに見える。とにかく、今は誤解を解くのが先だ。

「なっ、なぁヒー?」

「はい」

「そっ、その~、約束の件なんだけど……あれって……」

 言えない! あれはそういう意味じゃないんだったとは言えない! だってヒーの目が輝いているんだもん!

「…………」

 そのうえ俺から何か言わないと、全く口を開く気配はない! 完全に何かを待っている!

 目を合わせしばらく見つめ合うが、ヒーは目線を外さない。俺も外せない!

 何か言わなければと声を出そうとするが、喉の奥で詰まる。それでもヒーは一切口を開く気配は無い! 

 このままではマズイ! とにかく先ずは謝ろう! そう思い、この状況を打破したいがために、後先考えず、純粋に約束を破った事を謝った。

「すっ、すまん! マリアを連れて戻らなかったこと謝る! 本当にすみませんでした!」

 とにかく頭を下げて謝った。というか、もうそれ以外に方法は無い。

 するとやっとヒーが口を開いてくれた。

「いえ。私は気にしていません。リーパーが無事にマリアを連れ、戻って来てくれただけで十分です」

 良かった~。約束を破った事に関しては許してもらえた。問題は次の約束についてだ!

「そ、それでですね。約束の件なんだけど……あっ、あれは、その~……」

 駄目だ言えない!

「分かっていますよ。リーパーは立派な人です」

 全然分かってない! どうする、困った! やはりここは腹を切る覚悟で謝るしかない! そう思い、思い切って謝った。

「ゴメン、ヒー! あれはそういう意味じゃないんだ!」

「そういう意味? どういう意味ですか?」

 ヒーはわざとか天然か、分からないふりをしている。いや、完全に怒っている! そう感じた。

 俺にその気が無くとも、ヒーに、女性にとっては好意を抱く相手のプロポーズが、「嘘でした」なんて言われて、「はいそうですか」とはならないのは分かる。

 状況がどうあれ、いや、あの状況だからこそ、ヒーにとってはとても大切な事だと分かり、俺は約束の代償を支払う覚悟で言った。

「ヒー! 何が望みだ! 何が欲しい!」

 ヒーの目を見てはっきりと俺は言った。ヒーは口を半開きにして目を丸め、瞳の色が赤くなった。

 そして一度躊躇い、自分の名の由来である〝小さな手〟でそっと俺の手を優しく握り、その手を見ながら僅かに嬉しそうに言った。

「私は……いえ。……ただ」

 何か言おうと何度か俺と目を合わせ口を開こうとするが、よほど覚悟がいるのか、何も言えないようだ。

「ただ何だ?」と手助けしてあげてもいいが、握られた手が微かに震えるのを感じ、俺以上に悩んだであろう言葉を、ヒーの口から言わせてあげるのが、守るという事だと思い、黙って待った。

 少しの間ヒーは黙り、考えるように握る俺の手を見つめ、ゆっくり顔を向け、目を合わせ言った。

「たまに……たまに私の手を握って下さい。朝ギルドに来たときでも、昼食のときでも、帰宅するときでも構いません。ほんの少しの時間…………ほんの少しの時間、私の手を……握って、下さい……」

 精一杯の想いを込めて言ったのであろう言葉は、いつもより少し声が小さく、はっきりとはしていなかった。

 そして、望みもその手のように小さなものだった。ただ決して仕事中とは言わないことに、本当に真面目な性格だと思った。

「そんなことでいいのか?」

「十分です……」

 ほかにももっと求めている、そんな気持ちは伝わってきたが、ヒーはそれ以上のものを求めなかった。

 折角良い雰囲気だが、内心結婚してくれと言われると思っていた俺は、かなりホッとし、心の重荷が降りた気がした。

 けれど、そのささやかな対価は、ヒーにとってはとても大きなものだと感じ、支払う事にした。

「分かった。その時間をヒーに捧げるよ」

 ヒーの手を優しく握り返した。

 とても小さく柔らかいヒーの手は、今までたくさんのものを掴んできたのだろう。しかし、その手は多くの人とは繋がってはいない。ヒーのことを小さな頃から知っている俺でも、このとき初めて、ヒーと繋がった気がした。

 その後しばらく、ヒーは何度も俺の手を揉むように握り、名残惜しそうにそっと手を離した。


次話完結です。


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