*****の回想
いつ頃からだったろうか。
もう歳月を数える事すら億劫になっていた。
自分の中でゆるやかに進んでいたはずの時間は過ぎ去っていき、
気がついた時には、自らを取り囲んでいたはずの全ての物が手元を離れていった。
全てを破棄し自堕落な生涯を送り、外部との繋がりも断ち続けて幾年がたち、現在。
その気が遠くなる位の月日の間、自分の心はずっと暗闇の中にあった。
この己自身が生み出した深い闇の淵で足掻けども抜け出せずにいる。
今もそれは変わらず。
何故こんなに堕落した道を歩むようになったのかはよく覚えてない。
その以前は少なくとも今の様な有様では無かっただろう。
普通に働き、普通に家庭を持ち、普通に年老いていく。
こんな自分にもかつて暖かかな光に包まれた日々が確かにあったというのに。
誰もが持っているであろう、ありふれた思い出というものが。
それが今は無い。
ある日を境に突然、目の前から姿を消してしまったのだ。
私の世界から希望の色が消失した。
それは腕をすり抜けてそのまま遠くなる。
思い出という名の形は変容していき、時間が経つにつれ頭の中で段々と朧になってゆく。
そしてやがてもう原型が崩れて二度と戻らなくなるのだろう。
思い出という物はいくら忘れたくないと望んだとしても、いつかは元の形を忘れてしまう。
人は過去に縛られた侭では生きてはいけないのだから。
しかし、その事実すら堪え切れぬ事だった私はそれすら拒んでしまった。
だから結局、今になるまで遠い過去という檻の中に囚われたままだ。
私の支柱にあった大切な何かが抜け落ちてしまった。
己の精神を保つための大事な部分のネジがゆっくりと緩んでゆき、ひとつずつ落ちていく感覚。
そしてそれらが全部が抜け落ちた瞬間、自分の内部が均衡を失くしていくのが解った。
ゆるやかに、ゆるやかに崩れ落ちてゆき、やがて・・・・
それから何もかもがどうでもよくなった。
今まで愛し続けた世界も自分の精神を苛むだけの物のように思えた。
その後の私の生き方はよくは覚えていない、だが今思い出しても酷いものだったように思う。
しかしそれすらも、今となってはもうどうでもいい事ではある。
私が今、やっている事が人間としての道理を踏み外しているとしても
この生きながらの地獄ももうすぐ終わる。
待ち望み続けた願いを叶える時が来たのだ。
そして、それを果たす希望は今、この手の中にある・・・。
長期間、物が乱雑したまま放置されていた部屋はもう夜だというのに
明かりすら点いておらず、部屋には真っ暗な夜の暗闇が腰を携えていた。
その上、狭い室内は閉め切っていた所為か空気が異常に淀んでいる。
私は今になるまで気にも留めなかったらしい。
なんとなく口が寂しくなってきて煙草を一本銜えてライターで火を灯す。
咥内に広がる独特の脂臭さと荒んだ煙の味。
肺に貯めるように吸って、吐き出す。
漆黒の空気中で白い煙の魚が泳ぐようにゆらめいた。
霞がかった向こう側で人影がぼんやりと浮かぶ。
まだ年端もいかないほどの子供が椅子に座っている。
私が造った『彼』であった。
『彼』の小柄な体は脆いパイプ椅子の上で横たえるようにして座らされている。
暗闇の中へだらりと投げ出されている手足。
その肌は白い。しかしそれは酷く冷たそうな色をしていていて鈍く光っている。
眠るように柔らかく伏せられた瞼。
閉ざされた唇はもう言葉を語る事など有り得ないのかもしれぬ。
それでもいい。
微動だにしない。当然だった。『彼』はこの段階ではまだ鉄の人形なのだから。
例え外見を人間そのものの形に近付けようとも、魂は宿らない。
これが自分を数年間苦しめてきた今までの課題だった。
いかなるプログラムを駆使したとしても人の心だけは模造する事はできない。
心だけは人の手では造れない。
私が『彼』を作り始めてからどのくらいの月日を消費したのかわからない。
三年か、いや四年、もしくはそれ以上・・・とにかく長い事には変わりない。
容貌も変わっているのだろうか。きっと、今の自分は昔とかけ離れた顔に成り果てているに違いない。
もし学生時代に仲が良かった旧友達がこの姿を見せたなら、彼らは驚くだろうか。
きっと何があったんだ、とか聞かれるに違いない。
そういえば長らくその旧友達とも顔を合わしていない。
一体、どうしているのだろうか。今となっては知る手立ては無い。
せめて一回ぐらい、以前に所在を調べるなりしてでも顔を出すべきだったろうか。
それも今更考えた所で遅いが。
思わず苦笑しながら油分が抜けた掌を頬に宛がえば、痩けた肉の中にも深い皺が刻まれているのが分かった。
年月の分だけ増えるその溝を指の先で辿る。
骨が浮き出ており、それを包む皮膚は枯れ木の表面の如くざらざらに渇いている。
きっとこの身体は長く持たない。
これは直感だった。
時の流れには逆らえぬ。もうじきこの体は朽ちるだろう。
ひょっとしたら、明日にでもくたばってしまうかもしれない。
それでも私がやる事は一つしかない。
無謀な行いだったとしても、引けない。
後戻りなど今更、死んでも出来ぬ。
むしろ自分の全てを、残りの僅かな生涯を賭けても成さねばならない。
もっと時間が欲しい。一秒ですら惜しい。足りない。まだ足りないのだ。
私の刻む時はもう長くない。あと少しだけでいい。どうか。
「この命が完成するまで」
見えない何かに心の中で縋りつきながらもパソコンのキーボードを叩く手を止めない。
今まで貯めていた全てのデータを記号化した文字の羅列が画面を埋め尽くしている。
液晶画面で漂う電子の海。
それはこれから命を造るための大事な源だ。
一人分の人間の意識を復元させる事が可能なほどの情報の集合体。
私は一人の意志を持った人間を人為的に生み出そうとしている。(我ながらなんて馬鹿馬鹿しい行為だ!)
気でもふれていると罵られても仕方が無い。
だって私の頭の螺子はとうの昔に外れているのだから。
それこそどうでもいい事だ。
『彼』を完成させるか否か。今はそれだけだ。
その他はどうにでもなればいい。
周囲が今頃になって何か言ってこようとも、最早関係など無いに等しい。
こうなってしまえばもう、どうでもいいのだ。
暗い部屋でパソコンの液晶画面のみが青い光を放っている。
もう少しすれば夜が明けるかもしれない。
夜の闇が白くぼやけて、視界が明るくなってきていた。
朝日を見る気分にもなれなくて作業に没頭する。
私は正体がまるで掴めない自分の中で燻ぶる疑問の解答を求めるかのように
これからまた繰り返す一日にどう身を削るかを考えながらパソコンのキーを叩いた。
ほんの少しでも自分の未来に希望の色が混ざる事を願いながら。
初心者なのでまだまだ至らないところがありますが、よろしくお願いします!
とりあえず精進あるのみ・・・。