エフラタへのフライト
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{ }で括られたものは無線通信を表します。
『ジェニー、おはよう……』
サクラは、フライトスクールに来た。
『……今日は、霧が深いね』
『おはよう、サクラ。 そうね……ちょっと今は飛べないわねー……』
デスクで仕事をしていたジェニーは「ちらっ」と窓の外を見た。
『……でも、10時頃には晴れるんじゃないかしら? エフラタまで行くのに、少しぐらい遅くなっても問題ないでしょ?』
そう……今日は珍しく飛行場に霧が流れ込んでいて、視界が数百メートルしか無かった。
『そうだねー……休憩を入れても6時間位だから……十分今日中に着けるよね……』
サクラは、日焼けしたジェニーに頷いた。
さて、サクラは何処まで行こうとしているのか……実は、ここキングシィティから650海里ほど北にある町……ワシントン州のエフラタという所で「パイン カップ」という曲技飛行の大会があるのだ。
『……早めに着いて、練習が出来れば良いんだけど』
『大丈夫よ……』
ジェニーはサクラに微笑みかけた。
彼女は、生まれも育ちも此処キングシティだから……
『間違いないわ。 カリフォルニアの太陽には、どんな霧も勝てっこないんだから』
どんなAIが天気予報をしても、敵うはずが無かった。
『……んで? サクラは、霧が晴れたら直ぐに飛ぶの?……』
ふと顔を上げると、サクラが所在無さげにソファに座っているのを見て、ジェニーは聞いた。
『……それなら、手続きをしてあげるけど』
『ん? うん。 ベンや高槻さんが来たら、だけど……』
サクラは、背凭れに体を預けた。
『ハイ! サクラ、ジェニー……』
ドアが開き、元気な声と共にベンが入ってきた。
『……俺は復活したぜ』
『おはよう、ベン。 肩は、もう大丈夫?』
サクラは、ソファから立ち上がった。
『ああ、心配かけた。 痛みがなくなるのが遅くなったけど、もう問題ない……』
そう……二週間ほどで痛みが消えるかと思われた肩の打撲だが……何故かなかなか消えずに、一ヶ月仕事に出る事が出来なかったのだ。
『……今日からバリバリ働ける』
『そう……それは良かった。 それじゃ、航法を頼むわね』
『おう、任せておけ。 しっかりエフラタまで案内してやる……』
ベンは、パソコンを置いてあるデスクに座った。
『……と言うわけで、これから途中の情報を調べるから……サクラは、機体の準備だな。 もうユウイチは始めてたぜ』
『え! うそ! 高槻さんって、此処に寄らずに格納庫に行ったの?』
サクラは、慌てて霧の中に飛び出して行った。
「(……さすがはジェニーだね。 きっかり10時には霧が晴れてたよ……)」
青空の下、サクラは「ルクシ」を滑走路に向かって走らせていた。
『これが、ヨシアキの使っていた「エクストラ300L」か』
前席に座ったベンの、独り言のような言葉がインカムから聞こえてきた。
『そう言えば、ベンは初めて乗るのね。 ええ、そうよ。 大分弄っちゃったけど』
そう……仕事を休んでいたために、ベンは今日初めて「ルクシ」を見て、そして乗ったのだ。
『そうか……奴と俺は、フライトスクールで一緒だったんだ。 卒業してからも、しばらくの間連絡を取り合ってたんだが……ある時「エクストラ300L」を手に入れた、と嬉しそうに電話をしてきたんだよな。 エンジンは付いてないけど、って言って……それを聞いて、俺は「変わった名前のグライダーだな!」って言ってやったんだ。 はは……おかしいだろ? エンジン無しで、どうやって飛ぶんだ? そしたら、奴はなんて言ったと思う?』
『え?……えっと……』
ベンに聞かれ、サクラは口籠った。
それもそうだろう……吉秋であるサクラは、そのやり取りを覚えているのだから。
『……いつかエンジンが手に入るまで、地上でイメージトレーニングをしてる。 かな?』
『当たり! そう……奴もそう言って……二人で笑い合った事だった。 しかし……サクラは、よく分かったな。 流石は兄妹だ……もしかして、サクラはヨシアキの生まれ変わりなのか? はは……それは無いか……それじゃ、サクラは2歳ってことになるもんな』
『プッ……流石にそれは飛躍しすぎ。 私は21歳ですよ……そろそろ滑走路に入るわ』
ヤバくなってきたベンの話をぶった切って、サクラはマイクのスイッチを入れた。
{『KICトラフィック JA111G RW29より離陸』}
いつもの様にATCに告げて、サクラは耳を澄ました。
{『KICトラフィック N345DW KICの北西15マイル』}
随分遠くを飛んでいる機体から無線が入った。
『高槻さんだ……結構遠くまで行ってる……』
そう……同じ大会に出場するため、高槻も一緒に飛ぼうと言っていたのだ。
少し前に離陸して行ったのだが……意外と距離が離れたようだ。
『……ヘディングは、取りあえず310で良い?』
『ああ、それで良い』
『OK』
サクラは、スロットルレバーを進めた。
「(……110ノット……)」
サクラは、スティックを引く量を加減して、いつもの速度に合わせた。
「(……2550フィート……って、随分上昇速度が大きい……)」
確か、この「LX」用エンジンは……数日前に森山が持ち帰って載せ換えた……昨日慣らし運転はしたけれど、フルパワーでの上昇はしてなかった……日本で調子の良い時でも、2400フィートだった筈だ。
「(……おかしな所は無いよなぁ……)」
サクラは「きょろきょろ」とコックピットを見渡した。
『ん? どうした?』
後ろの様子が気になったのだろう……ベンが聞いてきた。
『ん~ 上昇速度が、早いなって……パワーが上がったのかな?』
森山の事だ……勝手にチューンしたのかもしれない。
『そうだな……』
ベンが、コックピットを「きょろきょろ」見渡すのが見えた。
『……どこもおかしな所は無いようだな。 以前よりパワーが上がったと見たほうが良いようだ』
『多分、そうですね。 ま、悪い事じゃ無いから……良いけど。 でも、信頼性は大丈夫ですかねー 着いたら森山さんに確かめないといけないですね』
やれやれ、とサクラは首を振った。
高度7100フィートで水平飛行に移って30分ほど経った頃……
『見ぃつっけた』
サクラは、先を飛んでいる赤い小さな複葉機を見つけた。
『ああ、ユウイチだな』
ベンにも見えたようだ。
『こっちに気が付いてるかな?』
『どうだろう? 意外と後ろってのは見えないもんだ』
『じゃさ……悪戯しない?』
『ほう……面白そうだな。 ユウイチなら、驚いても落ちる事はないだろう……』
黒い笑顔を浮かべているような……そんな声色でベンが答えた。
サクラは、スロットルレバーを進めスティックを僅かに押した。
「ルクシ」は、高度を下げながら加速を始めた。
「(……まだ、まだ……)」
高槻の「ピッツ S-2S」が、どんどん大きく頭上に見えてくる。
「(……あ! 気付かれた……)」
動揺がスティックに伝わったのか……「ピッツ」が僅かに揺れた。
{「高槻さん! そのまま飛んで」}
離陸前に打ち合わせておいた周波数で一言伝え、サクラは機首を左に振った。
次の瞬間……
「(……くっ!……)」
サクラは、スティックを手前やや右に引いた。
「ルクシ」は、螺旋を描いて「ピッツ」の周りを飛び始めた。
「(……ちょい引いて……戻して……もっと右……行き過ぎ……ちょっと引いて……)」
サクラは、頭上に見える「ピッツ」が、同じ位置に居るようにスティックを調整する。
その向こう側で地平線が上から下、下から上、と「ぐるぐる」回った。
{「おおおい! さ、サクラちゃん……脅かすなよ!」}
やっと我に返ったのか……高槻から無線が入った。
{「追いつきましたよ、高槻さん。 ちょっと見張りが疎かでしたね」}
サクラは「バレルロール」を止めて「ピッツ」の横に「ルクシ」を移動させた。
{「それにしたって、いきなり俺の周りでロールは無いだろ? 放心してたぜ……」}
高槻が、キャノピーの中から「ルクシ」を見ている。
{『……ベン! お前は止めなかったのか?』}
{『俺? とめるわけ無いだろ、こんな面白い事。 お陰で間抜け面のユウイチが見られたしな』}
アッケラカン、とベンが答える。
{『はぁ……そうだった。 真面目そうでいて、お前はそんな奴だったな』}
高槻の大きなため息が、レシーバーから流れてきた。
巨大なサンフランシスコ空港を通過したのは、もう2時間前……
「(……お腹すいた……)」
既にお昼を過ぎていて、サクラは空腹に苛まれていた。
「(……もう少し……もう少しでお昼御飯……)」
そう……サクラ達は休憩しようと……着陸のため高度を下げつつあった。
「(……海だなぁ……砂浜が見えて……奥には山……)」
「ルクシ」はさっきから海の上を飛んでいる。
右手に見える海岸には、ゆったりと波が打ち寄せていた。
「(……まるで……高知みたいだ……っと、ALT2900……)」
サクラは、スティックを引いて降下を止めた。
「(……120……110……)」
降下の為に下げていたパワー……それを変えなかった所為で、どんどん速度が落ちる。
「(……100、OK。 少し進めて……)」
サクラはスロットルレバーを調整し、スティックを左手に持ち替えた。
「(……トリムを合わせて、っと……こんなもんかな……)」
そして水平飛行するように、右手でエレベータートリムを調整した。
『手慣れたもんだ……』
黙ってサクラの手並を見ていたベンが、話しかけてきた。
『……やっぱりスクールの機体とは違うね』
『そりゃ……こっちに来るまでは、毎日のように乗ってたから。 そろそろ10マイルかな?』
『そうだな。 俺がするか?』
『私がする……』
サクラは、無線機のマイクのスイッチを入れた。
{『CECトラフィック JA111G RW36の南10マイル 高度2900 着陸のため侵入中』}
ここはカリフォルニア州の北の端……クレセントシティ。
航程の真ん中辺りのこの町で、やっとサクラはお昼御飯にありつける事になった。
{『CECトラフィック JA111G RW36の南2マイル 着陸します』}
もう滑走路は目の前だ。
「(……けっこう風がある……)」
海の近くにある所為か、左からの風が強くて「ルクシ」は大きなクラブ角を取っていた。
「(……もうちょい……もうちょい……よし! エンドを通過……)」
右の主翼の下に、ストライプ模様に塗装された滑走路端のマークが消えた。
「(……右を踏んで……)」
サクラは、右のラダーペダルを踏んで……左を向いていた機首を滑走路に平行にする。
「(……左……少し……)」
このままでは風に流されて滑走路からはみ出してしまうので、機体を左に傾ける事で風上に横滑りをさせる。
「(……アイドル……80……70……)」
スロットルレバーをアイドル位置まで引き、速度が落ちるのを待つ。
「(……フレア……)」
そして最後にスティックを引くと……「トン・トン・トン」とテールギヤ、左メインギヤ、右メインギヤの順に接地した。
『サクラ様、お疲れ様でした』
ビジター用の駐機場に「ルクシ」を止めると、アンナとマールクが揃ってお辞儀をした。
二人は昨夜のうちにキングシティを発って、ここクレセントシティに来ていたのだ。
『二人とも、ご苦労様……』
サクラは、マールクが置いた踏み台に降りた。
『……昼食に行くから、二人は打ち合わせ通りに給油と整備をお願いね。 レンタカーは、用意してくれた?』
『はい、キーはこれです。 車は、出て正面の「カローラ」で御座います』
マールクが、ポケットから車のキーを取り出した。
『いや……流石はお嬢様だ。 平然と挨拶を受けるんだから』
ベンが「ルクシ」から降りてきた。
『そうですか? 今日は二人だけだから……大した事ないでしょう? 実家に帰ると、10人くらい並びますよ』
『それは……ちょっと遠慮したいぜ……』
ベンは首を振った。
『……っと、ユウイチが降りてきたな』
『あ、そうですね。 マーシャラーにマールクを向かわせますか?』
こちらに向かってタキシーしてくる赤い「ピッツ」が見えた。
『俺が行こう』
一言言って、ベンは歩き出した。
街で昼食を食べようと、三人はカローラで飛行場を出た。
「サクラちゃん、ここを左折だ」
助手席の高槻が、ハンドルを握るサクラに言った。
「はい……」
サクラは、一旦停止の線で車を止めた。
見晴らしのいい交差点は、遠くまで見通せる。
「……何も来てないですね。 えっと……左折は大回り、っと」
「そうそう。 それで良い」
『二人で、何を話してるんだ? 俺にも分かるように英語で頼む』
後ろからベンの声がした。
『あ、気が付かなくてゴメン……』
サクラは、前を見たままだ。
『……大した事は話してないよ。 ただ走り方を聞いてただけ』
『走り方って……おいおい、大丈夫なんか? サクラは免許、持ってるんだよな?』
ベンは、運転席と助手席の間に顔を突っ込んできた。
『持ってるよー。 もう10年は無事故無違反だから』
交通量の少ない道に、サクラはアクセルを踏み込んだ。
『10年? 日本は11歳から運転できるのか?』
ベンは、サクラの方に顔を向けた。
『まさかー。 日本は18歳から』
視線を感じて、サクラは右横を見た。
そこにはベンの顔がある。
『なら、おかしくないか? サクラは21歳だろ。 最長でも3年の運転暦しかないはずだよな』
ベンの頭の横で、大きな胸の膨らみが揺れている。
『あ! 間違えた……そ、そうー。 3年だった……無事故無違反は』
サクラは、慌てて前に向き直った。
『怪しいな……サクラは、本当は30近いんじゃないか? 若く見えるけど……』
ベンの声が低くなった。
『……日本人は、若く見えるって言うし』
『ベン……流石にそれは無いよ……』
高槻は、ベンの肩を叩いた。
『……サクラは、どう見ても日本人じゃ無い。 国籍は日本でも……人種って事なら……中央アジア? 東ヨーロッパ? 辺りじゃ無いかな。 それと、お前……近くで胸を見るな』
『あ! 悪い……』
ベンは、慌てて頭を引っ込めた。
『……そうだなぁ……ハンガリー生まれだったっけ?』
『はい。 だから、マジャールですね』
サクラは「うんうん」と頷いた。
『ふ~ 言い間違えただけかぁ』
ベンは、腕を組んで背もたれに上体を預けた。