グランドループ
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{ }で括られたものは無線通信を表します。
サクラは「エクストラ300L」のエンジンを、スクールの格納庫前で切った。
『……ふぅ……』
ヘッドセットを外し、おおきく溜息を吐く。
『はは、疲れたか?』
前席に居るベンが、振り向いた。
『ええ、少し……』
サクラは、キャノピーのラッチを外して上に持ち上げた。
『……ふぅ……涼しい』
ここ、カリフォルニアに来て2週間が経った。
毎日晴天が続き、雨はまったく降っていない。
『もうすぐ6月だからな。 段々暑くなってくる』
『そうですよねー 今からウンザリする……』
ベンと話しながら、サクラは機体から下りた。
『……ベンは? 降りないの?』
『俺は、これから又フライトだ……』
ベンが、顎で事務所を示した。
『……あいつのトレーニングさ』
『ん?……』
サクラは、事務所の方を見た。
『……ああ……最近入った彼ね。 ベンも大変ねー 休憩も無くて』
『まあな。 でも飛べば飛ぶほど給料が増えるんだ。 ありがたい事さ』
ベンは、ウインクをした。
『ま、頑張って。 それじゃ、また午後にお願いね』
サクラは、事務所に向けて歩き出した。
『やあ、サクラ』
サクラが、事務所のドアを開けようとした所で、これからフライトをする男が話しかけてきた。
『はい。 何かしら? ジャック……』
疲れていることもあり、サクラの答えは「ぶっきら棒」になった。
『……私は、これから休憩するんだけど』
『へ! たった1時間のフライトで疲れてちゃ……女は、どうしようもないな』
『何? 貴方喧嘩売ってるの? 受けて立つわよ』
サクラは、持っていたヘッドセットをドアノブに掛けた。
『あ! いや……そういう訳じゃ無いんだ……』
ジャックが、慌てて首を振る。
『……機体の調子は、どうだった? ってのを聞きたかっただけなんだ』
『良かったわよ。 ベンが見てるんだもの……当たり前よね……あ、そうそう。 今日は横風が強いから気をつけてね……』
サクラは、ドアノブからヘッドセットを取った。
『……っじゃね』
『あ……』
サッサと行こうとしたサクラに、ジャックは何か言いたそうだ。
『何よ、まだ何か有るの?』
『……いつか食事でもどうかな?』
『はぁ? 貴方と? 冗談はよして……』
サクラは、盛大に顔を顰めた。
『……お断りよ。 じゃね』
『あ、ああぁ』
ジャックの目の前で、ドアは勢いよく閉められた。
『サクラ。 ジャックが、貴女のこと気にしてたわよ』
休憩しようと、サクラがソファに座ったとき、事務所に居た女性が声をかけてきた。
『はぁ……さっきドアの所で会ったわ。 食事でもどう? だって』
サクラは、ソファに凭れた。
『返事は? 彼、割と良い男じゃない?』
女性は、デスクを回ってやって来た。
『断ったわ。 タイプじゃないもの。 ジェニーは? あんなのがタイプ?』
『私? 全然……』
ジェニーは、サクラの前に座った。
『……もうチョッと逞しくなくちゃねぇ』
『そうねー あいつは、インテリって感じだものねー 男は、逞しくなくちゃ』
「(……はぁ……男と付き合うつもりなんて無いんだよ……女は、恋話が好きだよなー……)」
サクラは、スマホを取り出した。
『ん? イロナを呼ぶの?』
『ええ。 一度帰って、食事をしてくるわ。 午後にまた来るから……』
『事故だ!』
突然ドアが開き、男が事務所に飛び込んできた。
『ここの「エクストラ300L」だろ? シルバーにブルーのチェックは』
『ええ、そうよ……』
ジェニーは、入ってきた男の前に行った。
『……何が起きたの?』
『離陸に失敗した。 グランドループを起こして……あれは多分、メインギヤを折ったな』
『怪我は? 二人乗ってた筈だけど』
『判らない。 事故が起きたのを見て、すっ飛んで来たんだ』
『ジェニー! すぐに救急車を呼んで……』
サクラが、二人の間に入った。
『……社長は何処?』
『え、ええ……分かったわ……』
ジェニーは、デスクの上の電話を取った。
『……社長は、出かけてるの。 ハロー 救急を!……救急車をお願い。 飛行機の事故よ……』
『イロナ。 今すぐ滑走路に来て……』
サクラは、ジェニーが救急車を呼ぶ様子を見て、持っていたスマホでイロナに電話をした。
『……ベンが事故した。 イロナは看護師の資格を持ってるよね。 応急処置をして』
電話を切ると、サクラは男を見た。
『えっと……貴方は?』
『……ジョンだ。 そこの倉庫で働いてる』
一瞬、何を言われたか分からなかった様だが……男は名乗った。
『ジョン。 すぐに現場に連れて行って……』
サクラは、ジョンの手を取ってドアを開けた。
事務所を出ると、目の前に「トヨタ タンドラ」があった。
『これが、ジョンの車?』
『ああ、そうだ。 乗ってくれ』
ジョンは、助手席のドアを開けた。
『ありがと。 意外と紳士ね』
『よしてくれ。 これぐらいは、誰だってするさ……』
ジョンは、前を回って運転席に乗り込んだ。
『……行くぜ』
『ええ……』
「タンドラ」は急加速、Uターンした。
『……あそこ?』
『そうだ。 ああ、消防車が来てるな』
車が滑走路の方を向いたので、止まっている「エクストラ300L」と消防車が見えた。
「(……うわぁ……思いっきり撒いたなぁ……)」
近づいてみると、機体の周りが消火剤で真っ白になっている。
「(……あ、イロナが居た……)」
そして少し離れた場所に「スバル アウトバック」が止まっていて、丁度走っていくイロナの後姿が見えた。
『あそこに止めて』
サクラは「アウトバック」の側を指差した。
『……動かないで』
イロナのしゃがんでいる所にサクラが走っていくと、イロナが言っているのが聞こえた。
見ると……助け出されたのだろう、ベンとジャックが……何処から持って来たのか……汚れたブランケットの上に寝かされている。
ジャックは、まったく動いていないが……ベンは「もぞもぞ」と体を動かしていた。
『二人は? 如何なの? 怪我は?』
『……ああ、サクラ。 どうやら二人とも、命に関わる怪我をしてる様子は無いわ……』
サクラの声に、イロナは振り向いた。
『……ただ……こっちの方……』
イロナは、ジャックを指した。
『……彼は、頭を強く打ってるみたいね。 精密検査をしたほうが良いわね』
『……やあ、サクラ……』
左手で右肩を押さえたベンが、サクラが来たのに気が付いた。
『……無様な所を見せたな。 教官として、失格かな?』
『何が起きたの? ベン……』
サクラは、ベンの横に膝を付いた。
『……貴方ほどのベテランが、グランドループを起こすなんて』
『……分からん。 ただ……ジャックが、ラダーを上手く操作出来なかったんだろう。 サクラも知ってる通り、基本的に操作は生徒に任せてるからな』
『その生徒のミスをカバーするため、貴方が乗ってたはずよね』
『……その通り。 それが出来なかった事に、弁解はしない。 ……っつ……』
右肩が痛むのか、ベンは顔を顰めた。
『……しかし……言い訳させてもらえば……今日のジャックは、おかしかった。 心此処にあらず……って感じで……グランドループを起こしたときも、ペダルを踏み込んでいて……俺が修正しようにも、まったく動かせなかった。 何かショックを受けたんだろうか?』
「(……えっ!……)」
サクラは、ブランケットの上で気を失っているジャックを見た。
「(……まさか……俺が振ったから?……)」
『……何か心当たりが有るのか?』
サクラが無言でジャックを見るのに、ベンが気が付いた。
『え!……』
サクラは、視線をベンに戻した。
『……まさかと思うけど……さっき食事に誘われたのを断ったの。 もしかして、それが……』
『……振ったのか? それは……ご愁傷様と言うしかないな……』
ベンは、ゆっくり首を振った。
『……サクラは、悪くはない。 受け入れるか、受け入れないかは……それぞれ自由だからな』
『でも……それでベンが怪我をした』
『……はは……それこそ気にすることじゃない。 ただ俺が自分の仕事が出来なかった、ってだけだ……っつ!……』
ベンは、イロナを見た。
『……イロナ。 俺の肩はどうなったんだろう?』
『そうね……レントゲンを取らなきゃ分からないけど……私が見たかぎり、打撲だと思うわ。 一週間ほどしたら、痛みは無くなると思う。 薬局で湿布を買って使うと良いわ』
ジャックの様子を見ていたイロナは、尋ねられて顔を上げた。
『ねえ……ジャックは? さっきから気を失ったままだけど』
サクラは、イロナの隣に来た。
『かなり激しく頭をキャノピーに打ち付けた様ね。 頭蓋陥没はしてないけど……ヒビくらい入ってるかも』
『それって……大丈夫?』
『今のところ……呼吸は安定してるし、心拍もしっかりしてる。 脳に致命的なダメージは、入ってないわよ』
『そう……よかった……』
サクラは、胸を撫で下ろした。
『……不思議だね。 ベンとジャック……ベンの方は打撲ですんで、ジャックはヒビが入ってるなんて』
『……それはだな……』
ベンが、口を挟んだ。
『……ジャックが後席で、俺が前席だったからだ。 前席は、重心位置にあるから……グランドループをしてる間も、ただクルクル回ってるだけなんだ。 ちょうど回転椅子に座って回ってるようなもんだ。 それに対して……後席は振り回される』
『そうなんだ……』
サクラは、頷き……そして首を傾げた。
『……でも……振り回されたって、頭をキャノピーにはぶつけないよ?』
『……頭を打ったのは、ギヤを折って回転が急に止まったからだ』
『あ! そうだよ。 「エルちゃん」は?……』
サクラは、慌てて「エクストラ300L」を見た。
『……ああ……酷い』
サクラの視線の先で……右の脚を根元から失った「エクストラ300L」は、プロペラは全て曲がり……右主翼を地面に打ち付けていた。
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ベンとジャックが救急車で運ばれ、「エクストラ300L」は格納庫に入れられた。
「(……酷くやられたな……)」
昼食を済ませたサクラは、その前に立って……折れた脚の場所をジャッキで支えて、今は水平になっている……茫然と眺めていた。
「(……メインギヤとプロペラは交換すれば良いとして……主翼は、すぐに治らないよなぁ……)」
そう……激しく打ち付けられた右翼は、中央より外側の前縁が潰れてしまっていた。
『サクラ……』
いつの間にかタッカーが来ていた。
『……今日は、助けてもらったようだな。 ありがとう』
『タッカー社長……いいえ、当然のことをしたまでです。 それで……二人は?』
あの後、出先から大急ぎで帰ってきたタッカーは、救急車を追って病院に向かったのだ。
サクラは、機体を見たまま尋ねた。
『ああ……ベンは、打撲だそうだ。 ジャックは……頭の骨にヒビが入っているらしい……ふぅ……』
タッカーは、溜息を吐いた。
『……イロナの見立て通りだったな。 彼女は優秀だ』
『ええ、とても頼りになります……』
サクラは、タッカーを見た。
『……これからは? このスクールはどうなります?』
『その事だが……残念ながら「エクストラ300L」での訓練は、中止するしかない……』
タッカーは、ゆっくり首を振った。
『……「ピッツ」での訓練は続けるが……サクラはどうする?』
『そうですか……少し考えさせてください』
『分かった。 急がないから……考えが決まったら教えてくれ』
タッカーは、格納庫から出て行った。
とある町の、とあるビルの中……
『……旦那様。 坊ちゃんが、怪我をされた様です』
『ん! ジャックが怪我だと? 詳しく話せ』
『はは!……くだんのフライトスクールで、離陸に失敗して……頭を強打されました。 全治一ヶ月との事で御座います』
『何と言うことだ……あれの我侭で、アクロバット飛行などさせて置いたが……頃合だな。 辞めさせて、後を継がせるか』
『それが宜しいかと』
『そろそろいい年だし……結婚させるのも良いな。 いい娘でも居ないか?』
『実は、で御座います。 そのフライトスクールの生徒に、坊ちゃん……気になる娘が居るようで御座います』
『ほう……どんな娘だ?』
『名はサクラ。 国籍は日本、という事で御座いますが……見た目は白人。 マジャールだと思われます』
『ふむ……マジャールと言えば、ハンガリー人か』
『はい。 その通りで御座います』
『ハンガリーは、それほど裕福な国ではない。 少し現金を見せれば、結婚するだろう』
『は! では、その様にいたします』
『うむ。 下がってよい』