チェックライド
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
格納庫の前に引き出された「エクストラ300L」……シルバー地にブルーのチェック……それにレッドのラインが大胆に引かれている……の主翼に凭れて、ベンジャミンは腕を組んでショーンと話していた。
『……それで? そのお嬢様、とやらは……飛べるのか?』
『ああ……飛べるらしい。 室伏の言うには、日本で練習をしていたそうだ』
ショーンは、軽く頷いた。
『あの室伏か? なら大丈夫か……』
ベンジャミンは、脚の位置を変えた。
『……しかし、日本人だろ……話せるのか? これまで来た生徒には、随分苦労したからなぁ』
そう……ここはフライトスクール……初心者向けではなく、エアロバティックを教える……なのだから。
『まあ……そうだな。 言葉が通じないと……特に微妙なニュアンスが分からないと……エアロを教えるのは難しいな』
ショーンは、鼻から息を吐いた。
『まったくだ。 よりにもよって……祐一が、留守だときてる……』
実は、日本人のインストラクターも居るのだが……今は東海岸の方に行っていた。
ベンジャミンは、組んでいた腕を解いた。
『……あれか?』
『ん?……』
ショーンは、ベンジャミンの視線を追って振り向いた。
『……ああ、そうらしいな』
そこには、女性職員に案内されて歩いてくる……真っ赤な髪の、背の高い女性が見えた。
『サクラさん、こっちよ』
金髪の女性が、ドアを開けた。
『ええ……んじゃ室伏さん、先に行ってます』
「直ぐに行くから」と言う室伏と別れて、サクラは女性に続いて事務所から出た。
直ぐ先に「エクストラ300L」が置いてあり、その前に男性が二人立っている。
『あれが、練習用の機体よ。 そして、あの二人が社長とインストラクターね』
『綺麗な機体ね……』
サクラは、女性の説明に頷いた。
『……どっちが社長?』
『ちょっとシルバー掛かった髪の毛が、社長よ。 カッコいいけど、それなりの歳だわね』
女性は、サクラに向かってウインクをした。
『始めまして、タッカー社長。 戸谷サクラです』
サクラは、右手を出した。
『こちらこそ、よろしく。 ミス サクラ』
ショーンは、サクラの手を握った。
その視線は、サクラの髪の毛、目、胸を往復している。
『何か?』
視線に気付いたサクラは、首を傾げた。
『あ! いや……』
ショーンは、慌てて視線を遠くに向けた。
『……失礼だが……貴女は、本当に日本人? 私の知ってる日本人は、髪は黒く、瞳はブラウン……その……あまりグラマーな女性は居なかったんだが』
『日本人ですよ。 人種、という意味では違いますけど……』
サクラは、胸の上に腕を置いて……イロナの言う通り、今日は谷間の見えるシャツだった……視線を遮った。
『……生まれはハンガリーです』
『そ、そうか……いや、失礼した……』
ショーンは、隣の男を指した。
『……これが、貴女の教官になるフリーラブだ』
「(……フリーラブだって? まさか……サングラスでよく分からないが……ベンか? こいつ……こんな所でインストラクターなんてやってたんだな……)」
そう……以前ベンは、吉秋と同じフライトスクールに通っていたのだった。
サクラは、つい「まじまじ」と顔を見てしまった。
『はじめまして、ミス サクラ。 ベンジャミン フリーラブだ』
ベンジャミンは右手を出した。
『はじめまして、ミスター フリーラブ?……』
「(……とりあえず……サクラとしては初めてだからな……知らない振りしとかないと……)」
サクラは、握手をしながら首を傾げた。
『……自由な恋愛さん?』
『そうさ。 俺は自由恋愛主義なんだ……』
ベンジャミンは、サングラスを取ってウインクをした。
「(……よせよ! 俺にそんな気は無いぞ……)」
「ずさっ」っとサクラは、間を取った。
『……っと、冗談だよ。 そんな反応されると傷つくなー』
『で、ですよね。 冗談ですよね……』
「(……だよな……冗談キツいぜ……)」
サクラは、引き攣った笑みを浮かべた。
『……本当?』
『本当、本当。 俺は奥さん一筋だから。 それと、俺の事は「ベン」と呼んでくれ』
ベンは、何度も頷いた。
室伏とショーンは、並んで「エクストラ300L」の周りを回るサクラの様子を見ていた。
『彼女は、日本で練習してたんだよね? どの位飛べるのかな』
ショーンの見ている前で、サクラはエルロンの具合を確かめている。
『去年の夏に「インターミディエット」のノウンを飛んだ。 それからは、俺の前でエアロバティックを飛んでないから……今は、わからないな』
サクラは、翼端を周り主翼の前縁を触り出した。
『「インターミディエット」は上手く飛べるのか?』
サクラは、主翼の燃料タンクを覗き始めた。
『飛べたと聞いている。 直接見たわけではないからな』
サクラは、プロペラを確認し始めた。
『つまり、未知数か?』
サクラは、反対側の主翼前縁を触っている。
『そうなるな。 そして、あと2ヶ月で競技会に出なくちゃならない』
サクラは、スペードを調べ出した。
『レースに出るためか?』
『そうだ。 出来るよな? このスクールなら』
『ああ。 やって見せよう』
『点検、終わりました』
ベンに報告するサクラの声が、二人のところに聞こえて来た。
滑走路の端で、サクラの乗った「エクストラ300L」は、静かにアイドリングをしていた。
『それじゃ、サクラ……』
インカムからベンの声が聞こえる。
『……普段通りの離陸をしてくれ』
『分かりました』
サクラは、マイクを管制に切り替えた。
{『KICトラフィック N771TA RW29より離陸』}
1365メートルの長さの滑走路を持つ「メサ・デル・レイ」空港だが、ここには管制塔はない。
笠岡飛行場と同じように、各自で位置と行動を宣言する必要がある。
「(……よっし……クリアーだな……)」
特に何も無線に反応がないことを確かめ、サクラはスロットルレバーを進めた。
「(……あの山が、少し左に見えるように……)」
雲ひとつない青空なので……まっすぐ走る目標がない……とりあえずサクラは、遠くに見える山を基準にして「エクストラ300L」を走らせた。
サクラの「ルクシ」よりパワーが無いといえ、アクロ機である。
すぐに尾翼は浮き上がり、視界が開けた。
「(……ちょっとラダーが強すぎた……)」
どうやら「ルクシ」のつもりで右ペダルを強く踏みすぎたようだ。
機体は、滑走路の右側を走っている。
サクラは、一瞬左ペダルを踏み……機体は、左を向く……すぐに右ペダルを踏んだ。
蛇行はしたが「エクストラ300L」は、滑走路の中央を走り出した。
『よし……この高度で水平飛行……』
3000フィートに上昇したところで、ベンがサクラに言った。
『……100ノットで。 トリムは触るなよ』
『了解。 100ノットで水平飛行』
マニュアルで真っ直ぐ飛ぶのは、意外に難しい。
サクラは、ラダーを使って遠くの地形に機体を向け……左右を見て機体の傾きを修正する。
「ちらちら」と計器盤を見て……高度が変わってないことを確かめ、速度が100ノットになるようにスロットルレバーを調整した。
『ようし、いい調子だ……』
数分飛んだところで、ベンの声がインカムから聞こえた。
『……ライトターン90度。 バンク45度で水平旋回。 速度を変えるなよ』
『了解。 バンク45度で90度右旋回』
サクラは、右側を見た。
「(……雲が全然無い……目標が無いじゃないか……)」
そう……有視界飛行では、旋回前に目標を設定するのだ。
『何時になったら旋回するんだ?』
サクラが悩んでいると、ベンが言ってきた。
『旋回後の目標が無いんです』
『ああ、そうだな。 そんな時は、旋回率を使って時間で飛ぶんだ』
『旋回率? ですか』
サクラは、コックピットの中で首を傾げた。
『そうだ。 100ノットで45度バンクなら……大体1秒で10度旋回する。 この辺は覚えて置けよ。 でだ……90度旋回なら9秒だ。 分かったな』
「(……ああ、そうだ。 そうだよ……しばらく、そんなことしてなかったから、忘れてた……)」
そう……時計を使って旋回角度を知る方法は、ライセンスを取るときに習っていた事だった。
しかし日本では、雲の一つもない空などは滅多に無いし、たとえ雲が無くても何かしら山や町が見えるので、旋回の目標に困る事が無かったのだ。
サクラが忘れてしまっても、仕方の無い事だった。
『分かりました……』
サクラは素早く右方向を見た。
『……ライトサイド・クリヤー。 ライトターン』
「エクストラ300L」は、右にバンクを取った。
『……OKだろう……』
暫くの間、サクラに水平飛行、水平旋回、降下旋回、上昇旋回等をさせた後、ベンが言った。
『……サクラは、十分エアロバティックのトレーニングが出来る』
『ありがとうございます』
『それじゃ、早速始めようか? それとも、一度降りて休憩するか?』
離陸して、もう1時間近く経っている。
『ん~ 出来れば、休憩にしませんか?』
『ん! そうだな。 集中力も切れるし、そろそろ降りたほうが良いだろう』
サクラの提案に、ベンはあっさりと賛成した。
『はい。 それじゃ、帰ります』
サクラは、空港に機首を向けた。
{『KICトラフィック N771TA 現在北西3マイル 着陸のため接近中』}
サクラは、件の枯れ川……キングシティーに入るときに渡った……の上流で位置の連絡をした。
{『KICトラフィック N50AL 離陸のためタキシー RW29』}
どうやら、誰かが離陸するようだ。
『ウチの「ピッツS2B」だな』
ベンの言によれば、スクールの機体らしい。
『誰かが練習に飛ぶんですか?』
『ああ、ウチは曲技飛行のスクールだからね。 当然、何人か生徒が居るよ』
お陰さまで儲かってるよ、とベンの声はインカムの中で明るかった。
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午前と午後の2回飛んだサクラが、帰った後のスクール……
機体の整備をするベンのもとに、タッカーが来た。
『ベン。 お嬢さんの飛びは、如何だった?』
『やあ、タッカー。 そうだなー……上手いものだったぜ』
『そうか……じゃ、コンペに出るのも問題ないな』
『……んーー それなんだが……』
『ん? 気になることでも有るのか?』
『……そう……俺の気のせいかも知れないんだが……彼女、心に体が付いて来てない……変な言い方だな……』
『なんだ? それ……気持ちが逸ってる、って事か?』
『……いや……それでは無いんだ。 脳からの指令に、体が遅れる?……俺達でも有るだろ? もどかしい時が』
『ああ、有るある。 こう……こういう風にスティックを動かしたいのに……腕がその通り動かなくて悔しくなるな』
タッカーは、握った右手を左右に動かした。
『ちょっと違うが……まあ、そんな感じだ。 彼女、そういう事が頻繁にあった』
『それって、単純に「頭でっかち」になってるだけじゃないか? 日本じゃ、あまり飛ばすことが出来ないだろう? 「イメージトレーニング」のしすぎじゃないか?』
『……そういう事なんだろうか……(……何か、あの飛び方は……誰かに似てる……ああ、吉秋だ。 アイツが練習生だった頃がそうだったな。 って……確か事故で死んだんだったな……)』
ベンは、暗くなった空を見上げた。
『ベン、お嬢さんの事が、少し分かったぜ。 彼女、意識不明になるほどの事故に遭ったらしい』
『何だ? タッカー……何故そんな事を』
『いや、彼女の秘書のイロナが、簡単に教えてくれた』
『そうか……それが、あの違和感の正体かな』
『それだけじゃない……その事故、ってのが……お前も知ってるな? あの吉秋の事故だったんだ』
『なんだと! ……馬鹿な……吉秋は、絶対に他人を巻き込んだりしないはずだ。 彼女が巻き添えになったなんて……信じられない』
『そうだ、その通り。 イロナの言うには……吉秋は、彼女の乗ったヨットを避けて……もしそこにヨットが居なければ無事に着水できただろうに……水面に突っ込んだそうだ』
『そうか……アイツらしいな。 ん? それじゃ、サクラは何故意識不明になったんだ?』
『どうやらサクラは、ドナウ川に落ちたらしい』
『はぁ……そんな事があったんだな』