お嬢さん、冗談はよしてくれ
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ブダペスト西駅に隣接しているハンバーガーショップ。
その入り口に背の高い男が立った。
今しがた駅に着いたのだろう……キャリーバッグを引いた彼は、その端正な顔を店内に巡らせた。
『ヘイ! マーティン』
奥の方から声が掛かる。
そこには好好爺と言って良い風貌の男性と、細い目に大きな口をした髭面の男が座っていた。
『……やあ。 ペーテル、ハンネス……』
マーティンは、歩いていくと……
『……バッグを見ててくれ。 コーヒーを買ってくる』
キャリーバッグを置いて、レジに向かった。
『で? 二人が揃って、いったい何が起こってるんだ?』
マーティンが、コーヒーカップを持って帰ってきた。
『まあ、座ってくれ……』
ハンネスが、向かいの椅子を指した。
『……ペーテルが、良い話を持って来た』
『良い話し?……』
マーティンは、カップを置いて座った。
『……そんな物が、このヨーロッパに残っているんか? 何処に行っても……無理だ、ダメだ……マシな所でも「考えさせてくれ」……それだけだ』
『ところが……あったんだよ。 な、ペーテル』
『ああ……』
ハンネスに振られて、ペーテルは頷いた。
『……ハンガリーには、ヴェレシュという……途轍もないグループがある。 金融、貿易、輸送、等‥ 何でも御座れの巨大企業グループだ』
『そんな事は知ってる。 最初にスポンサードの話を持っていったんだろ?……』
マーティンは、コーヒーを一口飲んだ。
『……ダメだったんじゃないか?』
『ああ。 「けんもほろろ」だった……』
ペーテルも、コーヒーを口に含んだ。
『……考えてみれば、当たり前だ。 あの事故のとき、ヴェレシュの末娘が巻き込まれて、意識不明の重傷を負ったんだからな』
『それは……穏やかじゃないな。 それで、その娘は?』
マーティンの声が、小さくなった。
『数週間で意識は戻って……今は……』
ペーテルが、マーティンを手招きした。
『……大きな声じゃ言えないが……どうやら日本に居るらしい』
『それはまた……どうして?』
『それは、分からない。 ヴェレシュが、情報をシャットアウトしてる。 ただ……詮索するなよ。 消されるからな』
『ああ、分かった』
マーティンは、頷いた。
『で……そのヴェレシュが、どうしたんだ? 今更』
『それだがな……ヴェレシュの息の掛かった企業から、スポンサードの話が来たんだ』
驚くだろ、とペーテルが口角を上げた。
『そりゃ凄い。 だが、どうして? 向こうから言ってきたんだろ……』
マーティンは、腕を組んだ。
『……訳が分からない』
『それを聞いたとき、俺も驚いたさ……』
ハンネスは、傍らのバッグを取った。
『……だから、その企業を調べてみた』
『そうか……どんな会社だ?』
マーティンは、ハンネスが資料を取り出すのを見た。
『ここに纏めてみたんだが……』
ハンネスは、資料をテーブルに広げた。
『……ミュンヘンの会社だな。 設立は、それなりに古い……あまり上手くは、いってなかったようだ』
『そこにヴェレシュが入ったのか……って、待てよ。 ヴェレシュは、株を半分も持ってないのか? 誰だ? このサクラってのは』
マーティンは、資料から顔を上げた。
『それが、ヴェレシュの末娘だ。 ふぅ……どうなってるんだろうな』
ペーテルは、大きく息を吐いた。
暫くの沈黙の後……
『こういう事じゃないのか……』
マーティンが、口を開いた。
『……その末娘に社会経験を積ませよう、ってヴェレシュの親玉……なんて言うんだ? 知らないけど、その娘の親が与えたんじゃないだろうか』
『アルトゥールだ。 ヴェレシュのトップの男は』
ペーテルが、ぽつりと零した。
『そうか。 そのアルトゥールが、末娘のサクラに「おもちゃ」を買い与えた、ってところじゃないだろうか』
『なるほどな。 そう考えたら……』
ハンネスは、大きく頷いた。
『……この話も、おかしくは無い』
『待てよ。 何でおかしくないんだ? こんな……こう言っちゃ何だが……ドマイナーな競技のスポンサーになろうって……』
マーティンは、苦笑を浮かべて首を振った。
『……自分で言って悲しくなるな』
『いや、それがおかしくないんだ……』
ペーテルは、ニッコリした。
『……この娘。 この辺りではサクラ様、と様を付けるけどな……レースのファンだった。 サインをせがまれた事もある』
『ほう……可愛いか?』
マーティンは、ペーテルを見た。
『そうだな……そう……可愛かったと思う』
ペーテルは、瞳を宙に彷徨わせた。
『何で「思う」なんだ?』
『いやな……俺からしたら、孫と言ってもいい位の歳だぜ。 どの子も可愛いさ』
『はぁ……枯れ切った奴には、聞くだけ無駄だったな』
マーティンは、大げさに肩を竦めた。
『ばかやろ! 俺の何処が枯れてるってんだ?』
ペーテルは、立ち上がった。
『そこだよ、そこ』
マーティンの人差し指は、目の前に在るペーテルの股間を指していた。
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ミュンヘンでの株主総会から3週間経ち、サクラは「宮殿」の執務室にいた。
『サクラ。 これに目を通しておいて』
同じ部屋には、イロナのデスクも有り……イロナは、一つのファイルを持ってきた。
『ん……』
サクラは、それをデスク越しに受け取り開いた。
『……へえ、フランツィシュカお姉様……また一社、スポンサーを捕まえたみたいだね。 これで……お姉様だけで五社になった』
『そうね。 流石はフランツィシュカ様だわ……』
イロナは、自分のデスクに戻った。
『……ダニエル様も顧客になる配信会社をドンドン見つけるし。 この会社、上手くいくかも』
『そうだねー 配信するイベントも、幾つか良いのが手に入ったし……』
サクラは、ファイルを持ってイロナのデスクに向かった。
『……最初から黒字になるかな?』
『そうなると良いわね……』
イロナはファイルを受け取り、後ろのキャビネットに差し込んだ。
『……そして、そろそろ本命のレース関係者が来る時間ね。 サクラの用意は出来てる?』
『うん。 問題ないよ』
『……サクラ様。 ペーテル様と、後お二人が見えられました』
サクラが頷いたとき、ドアの向こうからドーラの声が聞こえた。
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『(……っく……何が可愛いと「思う」だよ。 可愛いじゃないか……)』
三人の中で一番年下のマーティンはソファの隅に腰掛けて、ペーテルと話をするサクラを見ていた。
『(……だが……可愛いだけじゃないな。 歳の割りに、堂々としてる……)』
そう……喋り方は「良い所」のお嬢様、といった物だが……眼光鋭いペーテルに対しても、サクラは臆せずに対峙していた。
『……それでは、我々の活動に対して資金を出していただける……そう思っていいんですね?』
『はい。 先ほどから、そう申し上げています』
ペーテルの何度目かの確認に対して、サクラも何度目かの返事をした。
『……ちょっと良いかな?』
さっきまで一言も喋らず資料を読んでいたハンネスが、口を挟んだ。
『はい。 アルヒさんでしたよね。 何でしょうか?』
サクラは、ちょこっと首を傾げた。
『(……か、可愛い……)』
その仕草を見て、マーティンは「ぽかん」と口をあけた。
『この……放映権は、全て其方に有る……と言うのは……』
マーティンの様子には気付かず、ハンネスは話を続けた。
『……私的な録画も全て、ということなのか?』
『はい。 私的に録画して……戦略などを立てるために必要でしょうから……私的に視聴するのはかまいませんが、それを不特定多数が見られるようにするのは止めて頂きます……』
真っ直ぐにハンネスを見て、サクラはしっかりと話をした。
『……それこそが、私たちの……簡単に言えば「売り」ですから。 これに違反されたら……申し訳ないですが、資金は引き上げさせていただきます』
『う、うんうん。 分かった』
ハンネスは、口を閉じて頷いた。
『俺からもいいかな?』
マーティンが、手を上げた。
『はい、ソンカさん。 学校じゃないですから、手を上げなくてもいいですよ』
サクラは、小さく微笑んだ。
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「(……へぇ……こんなベテランのパイロットでも、緊張するんだ……)」
年上の三人……全員レースではエキスパートクラスでトップを競っていた……を前に、サクラは自分が意外と落ち着いていられる事に……自分で驚いていた。
『これによると……』
さっき上げた手を「そそくさ」と下ろして、マーティンは資料を指した。
『……そちらの推薦するパイロットを参加させる、って事が条件になってるんだが……』
マーティンは、顔を上げてサクラを見た。
『……言っちゃ何だが、俺たちのレースは素人のパイロットでは飛ぶことすら難しい。 こちらで十分な試験を課しても構わないか? もっと言うと……俺達と同じぐらいの技量が無いパイロットは、お断りしたい』
『はい、その事は十分心得ています……』
サクラは、大きく頷いた。
『……公平な試験を課されて……それで不合格になっても、融資を引き揚げる事はしません。 公平な試験ですよ……「見た目」や「性別」や「社会的な立場」などに左右されない、ということです』
『OK。 それならいい……』
マーティンは、ペーテルに視線を向けた。
『……俺は、良いと思う。 ペーテルは、どうなんだ』
『俺もこの話は……願っても無い事だし……受けていいと思う……』
ペーテルは、頷いた。
『……ところで、其方の推薦するパイロット、ってのは誰だろうか? 我々の知ってる者かな?』
『室伏さんです。 彼は今、ヴェレシュから資金を受けています……』
『なんだ、室伏か。 彼ならまったく問題ない、と言うか……もともと声をかけようと思っていた』
ペーテルは「ほっ」と息を吐いた。
『……それと、チャレンジクラスにもう一人……』
サクラは、ニッコリした。
『……この私です』
『ちょ、チョッと待て……お嬢さん。 あんたがレースに出る? 冗談はよしてくれ!』
あまりの衝撃に、ペーテルは立ち上がった。
『冗談ではありません。 私は、日本でトレーニングをしています。 当然テストに受かれば、ですが』
サクラは、ペーテルを見上げた。
『いや……サクラ様は女性ですし……』
ペーテルは、慌てて腰を下ろした。
『……ヴェレシュの正当な血筋の方ですし』
『ナタリーさんという、女性が参加していましたね。 つまり女性でも……それは問題ではない、という事でしょう?……』
サクラは、ペーテルから目を離さない。
『……ヴェレシュの血、といっても……私は末の子供です。 上に兄や姉がいます。 父、アルトゥールの許可も貰っています』
『ペーテル……』
マーティンが、口を挟んだ。
『……飛べるかどうか、試験をする訳だから……このお嬢様が出場できると、決まったわけじゃない』
『そ、そうだな。 試験をするんだったな』
『マーティンさん……』
サクラは、マーティンを睨んだ。
『……貴方、私を見くびってませんか? お嬢様の「おままごと」じゃないかと思ってますね?』
『い、いや……けして馬鹿にしてるわけでは……』
マーティンは、激しく首を振った。
『……しかし、貴女は曲技飛行の実績がある訳ではないので、先ずはそこからクリヤーしていただかないと……』
『クリヤーしないと?』
サクラは、首を傾げた。
『……えー、っと……基本的に曲技飛行の出来る事が、出場条件になっているので……それなりの大会で上位に入ることが、その事の証明になります。 そこをクリヤーして、初めて試験を受けられる。 そういうふうに決めています』
『分かりました……』
マーティンに向かって、サクラは頷いた。
『……それでは何処かの大会に出て、私が十分な技量を持つことを証明しましょう』
『そ、それが良い。 そうして頂けると、私たちも納得できる……』
ペーテルは、大きく頷いた。
『……それでは、これで決めて良いかな?』
『そうですね、契約書を作りましょう。 イロナ』
サクラは、イロナを呼んだ。
『マーティン……お前上手い事を考えたなぁ』
『いやー とっさに思い付いたんだが……ハンネスは、何か有ったか?』
『突然のことで、俺は何も思いつかなかった。 ペーテルは?』
『俺もだ……しかし、サクラ様が納得してくれて良かった。 まさか、あのお嬢様がレースに出たい、なんて……思いも寄らなかった』
『そうだよなー でもこれで……上手くやれば、出場させなくてもよくなるな』
『そうだな。 もし事故でもあれば……あのヴェレシュだろ? 翌日には、俺たちは息をしてないぜ』
『ま、これで開催する資金が、十分集まった。 レースができるぜ』
『そうだなー やっとだな』
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彼らは知らない……ヴェレシュの諜報員は、どこにも潜んでいる事を……