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ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
「(……「表」っていっても、広くなっただけで部屋は「裏」とそんなに変わらないな……)」
吉秋は、手に持った杖で体を支えながら、レースのカーテンを捲って外を眺めていた。
長時間は無理だが、部屋の中を移動するぐらいは、車椅子を使わなくても大丈夫なくらい回復したので、今朝から吉秋は一般の病棟に引越ししていた。
「(……窓があるのは違ってるけど……)」
そんな風に吉秋は思っているが、この部屋は所謂VIPルームであり、ベッドの置いてある場所以外に、かなり広い空間がある。
5階建ての最上階であるここからは、遠くにブダペストの市街地が見えた。
『サクラ お茶にしましょう』
『……うん ありがとう』
ニコレットの声に、吉秋は振り返った。
小さな応接セットのテーブルに、チーズケーキと紅茶のポットが置かれている。
『……ねえ ニコレットは 食べないの? チーズは嫌い?』
チーズケーキが一つしかないのを見て、吉秋が首を傾げた。
『ううん 嫌いじゃないわ でも、今はサクラのトレーニングよ 私はメイド役ね……』
ナース服のニコレットが、お腹に手を当てて優雅にお辞儀をする。
『……お嬢様 どうぞお座りください』
『……う、うん……』
吉秋は治療に便利な……今は入院衣は着てない……前開きのワンピースの裾をソファーの前に落とし、膝を揃えて座った。
それを見てニコレットは、ティーポットからカップに紅茶を注いで、吉秋の前に出した。
『……う~ん いい香り……』
カップを取った吉秋は、口を付ける前に香りを嗅いだ。
『……なんか 落ち着くね これって、何のお茶?』
『ヌワラエリヤよ スリランカのお茶ね……んで、香りを嗅ぐのは良かったけど この場合はソーサーもカップと一緒に 手にとってね』
『……えっと スリランカは分かった けど……その後は 何て言った?』
かなり理解できるようになったが、未だ吉秋は長いセンテンスのハンガリー語は理解できなかった。
『……香りを 嗅ぐのは いい事 でも、ソーサーを カップと 一緒に持ち上げたら もっと良かった……』
『……あ、そうなんだ。 ……こうかな?』
ニコレットの説明を聞いて、吉秋はカップの下にソーサーを添えるように持ち上げた。
『いいわ お嬢様に見えるわよ』
『……はぁ……俺がお嬢様ねー ……』
『ダメよ! 英語は禁止でしょ。 男言葉も禁止』
つい英語を使った吉秋を、ニコレットが諭す。
「……はいはい。 これじゃ日本語を忘れそうだ……」
日本語で愚痴を吐いて、吉秋はチーズケーキにフォークを突き刺した。
吉秋がチーズケーキを平らげた頃、病室のドアがノックされた。
『やっと来たわね……』
ニコレットが、ドアを開けるために歩いていく。
『ハイ! ヨシアキ 元気ー』
しかし、ニコレットがたどり着く前にドアは開き、大きなトランクを引いたイロナの陽気な声が飛び込んできた。
『……やあ、イロナ 元気だよ。 それは何?』
ソファーの上から吉秋がトランクを指差した。
『……んー これは サクラ様の 部屋から 持って来たんだよ……』
言いながらイロナは、ソファーの近くにトランクを運んだ。
『……サクラ様? サクラの事? ……っあ、そうか そうだよね 住んでた部屋が あるんだ……』
納得がいった吉秋が「うんうん」と頷く。
『そうよ。 郊外にある ヴェレシュ家の お屋敷と 市街のマンション……』
『……これは マンションから……』
ニコレットの言葉を遮るように、イロナがトランクを開いた。
「……っつ……こ、これって……」
それを見て、吉秋がニコレットを振り仰いだ。
開かれたトランクの片側には、シンプルなTシャツやジーンズが入っている。
そしてもう片側には、薄いピンク、濃いピンク、水色等の色とりどりな布が小さく丸められ、ぎっしりと入っていた。
『そう サクラの 下着と 衣類よ……』
ニコレットは、吉秋に向かって微笑み、
『……これなら サイズは ピッタリの筈ね……』
ブラを一つ取り出した。
『……F……』
広げたブラのタグを見るとニコレットは目を逸らし、そっとそれを片付けた。
『さあ ブラを着けましょうか……』
お茶のセットを片付けたニコレットが、吉秋の後ろに立った。
『……え……や、やっぱり 着けなきゃ ダメなかなぁ……』
吉秋は、背中を丸めた。
『……今まで 着けてなかった よ? ……こう すれば 分からないし……』
之まで入院衣のときは下着は着けず、そして今は診察に便利なようにワンピースの下には、前開きのキャミソールを着ていた。
『ダメよ。 あなたって 大きいんだから 部屋の外を 歩いたら 衆人注目の的よ』
『……ごめん 最後 何て言った?』
吉秋が後ろに反り返って、下からニコレットを見た。
『……衆人注目の的……そうね 胸が 揺れて 男の人が ガン見 するわよ……』
『……そ、それは いやだ……』
慌てて吉秋は、胸を押さえ、
「(……や、柔らかい……)」
頬を紅に染めた。
『こうして 膨らみの 下側に合わせて……』
ニコレットが、薄い水色のブラを吉秋の胸に合わせる。
『……う、うん けっこう苦しい 姿勢だね……』
吉秋はベッドの縁に座って、上体を深く倒していた。
『仕方が無いわ あなた 大きいから そうしないと 膨らみの 下側が ハッキリしないもの……』
ニコレットの手が……重力のせいで……大きく垂れ下がったバストを弄っている。
『……ちょ、ちょっと……なんかくすぐったい……』
『……我慢しなさい……』
ニコレットは吉秋の抗議を無視して、後ろに回したブラのホックを止めた。
『……ちょ、……何するんだ! 手を突っ込んでー……』
ブラの中に手を入れられ、焦った吉秋が英語で叫ぶ、
『……止めろよー!』
しかし
『煩いわねー こうして 肉を カップに 入れるのよ……』
平然とニコレットは、手を動かし……
『……さあ 起き上がっても いいわ』
吉秋の肩を掴んで、起き上がらせた。
『……どう?』
ニコレットが、肩紐の長さを調整している。
『……ん? どうなのかな 結構キツイんだね……』
吉秋は、首を捻った。
『……ちょっと立って歩いてみて』
『……うん……』
ニコレットの腕に掴まって立ち上がると、吉秋は杖をつきながら部屋を歩き始めた。
『……どう?』
ゆっくり歩く吉秋を、ニコレットは目で追っている。
「……うわ! 凄いや。 肩が凄く楽になった」
『サクラ 日本語に なってるわよ』
『……あ ごめん。 肩が楽だね 気持ちいいよ……』
吉秋が、胸を下から手で持ち上げて見せた。
『そうでしょ それがブラの役目なの。 それに 今は 揺れてないわ……』
ニコレットが「うんうん」と頷く。
『……でも 人前で 胸に触っちゃダメよ。 娼婦じゃないんだから』
『……えっとー なんて言った?』
『……人前で 胸に 触るのは 娼婦よ……』
『……娼婦? ってなに?』
『……男と 寝るのを 仕事に している 女……』
「……あ 娼婦のこと……」
慌てて吉秋は手を下ろし、支えを失った胸が少しだけ揺れた。
『……ヴェレシュ サクラ様は 1998年6月3日生まれ 19才ね……』
応接セットのテーブルにファイルを広げて、ニコレットが英語で説明している。
『……19才 俺は29才だった 10才若くなった……』
ニコレットの向かいに座った吉秋が、呟いた。
『……そうなるわ 間違えないで……ちなみにブダペスト大学の学生よ……』
吉秋が、サクラとして生活するために、ニコレットがプライベートデータを教えているのだ。
『……父親は ヴェレシュ アルトゥール 61才 これは知ってるわね……』
『……ああ 知ってる……あの人は何の仕事をしてるんだ?』
『……それは 今は 知らなくていいわ……』
ニコレットが、ゆっくり首を振る。
『……そして 母親は ツェツィーリア……』
『……ん? 何歳なんだ?』
口をつぐんだニコレットに、吉秋は訪ねた。
『……彼女は 亡くなっているわ……15年前 サクラ様が4歳の時ね……』
「(……そ、そんな……そんなに小さなときに母親を亡くしたんか……)」
『……サクラ様には兄と姉が一人ずつ居るわ……』
数分の沈黙の後、ニコレットが続きを話し始めた。
『……兄はダニエル。 35歳で未婚ね……』
『……随分と 歳が 離れてるんだな。 まさか 魔法使い じゃないよね……』
吉秋が、首を傾げる。
『……ん? 普通の人間よ。 父親の仕事を手伝ってるわ……(……変なこと聞くわねー……)』
『……あ、そう……』
「(……そうだよな。 まさか童貞じゃないよな~……)」
『……それで 姉は……ん?……』
ニコレットの言葉は、ドアをノックをされたことで途切れた。
『……お待ちください……』
テーブルの上に広げた資料を片付け、ニコレットはドアに向かって歩き出した。