ハンガリーの女
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
セミダブルベッドの上でブランケットに包まれ、サクラは枕に顔を埋めていた。
『サクラ様。 サクラ様。 お時間で御座います』
そこにノックと共にドーラの声が聞こえてきた。
『……ん!ドーラ?……』
サクラは、枕から顔を持ち上げた。
『……入って』
『失礼いたします……』
間髪を入れず、ドーラはサクラの部屋に入ると深くお辞儀をした。
『……おはよう御座います。 朝食は如何なされますか?』
『おはよう……ん~ 夕べ食べ過ぎて、食欲が無いんだよね……』
そう……ビアガーデンの食事が美味しくて……ビールが飲めない憂さ晴らしもあって……サクラは、普段より食べ過ぎたのだった。
『……イロナは如何するのかな?』
『イロナ様ですか……』
ドーラは、隣の部屋との壁を見た。
『……いささか飲みすぎたかと……』
『ひょっとして……二日酔い?』
サクラも隣を見た。
『……頭を抱えていました』
ドーラは、頷いた。
『はぁ……そりゃそうだよね。 いったい何リットル飲んだのやら……』
そう……ここぞとばかりに、イロナはビールを御代わりしていたのだった。
『……それじゃ、朝食は無理だよね。 私はどうするかなー』
『軽いものを用意いたしましょうか?』
ドーラは、サクラの為にルームウェアをトランクから取り出した。
『そうだねー 何かフルーツを持ってきて』
『畏まりました』
ルームウェアをベッドに置くと、ドーラはドアから出て行った。
テーブルの上にカットされたフルーツ……オレンジやパイナップル、バナナ等……の盛られた大皿が置かれていた。
『……ん! 美味しい……』
そしてそれを取り皿に盛って食べているのは……
『……イロナ~ 二日酔いじゃなかったの?……』
さっきまで頭を抑えて臥せっていたはずのイロナだった。
『そんな物、根性で押さえてるわ。 そんな事より、貴女はもう食べないの?』
『ん~ もうお腹イッパイ』
サクラは、お腹を擦った。
『たった二皿食べただけじゃないの。 お昼まで持たないわよ……』
イロナは、取り皿にバナナを取った。
『……バナナは、お通じに良いのよねー』
『良いの。 肥りたくないから』
サクラは、イロナのウエストをジト目で見た。
『……それで結局は、以前お姉さまたちと話した通りで決まったんだよね』
市街を走る赤いBMW850iの後部座席で、スーツ姿のサクラはイロナとこれからの予定を確認していた。
『ええ、そうよ。 株は、完全にサクラとヴェレシュ家が押さえたわ。 貴女の方が多く株を持ってるから、思い通り……ヴェレシュが反対しなければ……会社を運営出来るわよ』
『ヴェレシュが反対しなければ、って事は……あんまり勝手な事は出来ない、って事かな?』
サクラは、首を傾げた。
『そうね。 ヴェレシュが1/3以上の株を持ってるから……重要な事は反対が出来るのよ。 つまり2/3以上の賛成でないと議決できない事柄があるのね』
イロナは、頷いた。
『そうなんだ』
サクラは、シートに深く座った。
車は、駅前のホテルに停まった。
空かさずドアマンが、サクラの乗った側のドアを開ける。
『ありがと』
サクラは、彼の差し出す手を取って車から降り立った。
『サクラ様。 当ホテルの支配人で御座います……』
そこには、やや老境に入った紳士が立っていた。
『……この度は、私どものホテルをご指名頂き、ありがとう御座いました』
『わざわざ、ありがとう。 ここは立地が良いわね……』
サクラは、支配人の差し出した手を握った。
『……それに、デザインが素晴らしいわ』
『ありがとうございます。 さ、ご案内いたします』
支配人は、先に立って歩き出した。
『さてと……』
案内された部屋に入り、サクラは椅子に座った。
『……ドーラ、コーヒーを入れて』
『畏まりました。 イロナ様は?』
ドーラは、頷くとイロナを見た。
『私もコーヒー……』
イロナもサクラの隣に座った。
『……今朝、ニコレットから連絡があったわ』
『あ、そうなんだ。 で? もう生まれる?』
そう……臨月に入ったニコレットは、ブダペストに残っていた。
『まだみたいよ。 連絡の内容は、この株主総会をどう乗り切るか、と言う事』
『ん? さっきは、もう決まってる、って言ったよね』
サクラは、首を傾げた。
『ええ、決まってるわ。 決まってるのは、こちらから……サクラからの要求ね……』
イロナは、珍しく表情を引き締めた。
『……そして、絶対ヴェレシュから厳しい要求が来るわよ。 なんたって、あのフランツィシュカ様だから』
『お姉様が? 優しいよ?』
再びサクラは、首を傾げた。
『それはプライベートな時だけ。 仕事になると……ふぅ……』
イロナは、溜息を付いた。
『……あの方は鬼よ』
『そ、そうなんだ……』
サクラは、顔を引き攣らせた。
『……んで? ニコレットはなんて言って来たの?』
『ダニエル様を味方にしなさい、だって。 ま、そうよね。 ニコレットのお腹にいる赤ちゃんの父親だもの……ニコレットの為には、サクラの方に付かざるを得ないわよね』
『ひょっとして……ニコレットって……もうダニエルを尻に敷いてる?』
『状況証拠からみて、そうなってる、と思っていいようね』
『うわぁ……ハンガリーの女って……怖い』
再びサクラは、盛大に顔を引き攣らせた。
『何言ってんのよ。 貴女も、そのハンガリーの女でしょ』
イロナは、口角を上げた。
**********
『Prost!』
『エゲシェーゲドレ!』
ダニエルの掛け声で、サクラは生ビールの入ったジョッキを掲げた。
ここはミュンヘンでも有名なビアホール。
株主総会が終わり、サクラたちは昼食でも取ろうと来たのだった。
『あー、悔しい。 サクラには、してやられたわ……』
フランツィシュカは一息に飲み干すと、ジョッキをテーブルに叩き付けた。
『……まさかダニエルがそっちに付くなんて』
『ははは……先ずは味方から騙せってね』
ダニエルは、ウインクを飛ばした。
『ムカつく……』
フランツィシュカは、次のジョッキをドーラから受け取った。
『……ニコレットが居ないから、チャンスだと思ったら……』
フランツィシュカは、ダニエルをジト目で見た。
『……って、考えてみたら……ダニエルってシスコンだったわね』
『フランツィシュカだって、シスコンだろ?……』
ダニエルは、爽やかな笑顔を浮かべた。
『……サクラが可愛くて、仕方が無いんじゃないのか?』
『はぁ……そうね、認めるわ。 だ・か・ら……私が経営の主導権を握って……サクラには、のんびりして欲しかったのに……大人の世界の「ドロドロ」したところなんて、知って欲しく無いのよ』
フランツィシュカは、嬉しそうにソーセージを齧るサクラを見た。
『ん? なに、お姉様……』
視線を感じたサクラは、顔を上げた。
『……社長、って呼んだ方が良いのかな?』
『プライベートでは、お姉様にしてちょうだい。 最高経営責任者(CEO)様……』
フランツィシュカは、ジョッキを掲げた。
『……これからの発展を願って、乾杯』
『乾杯……』
サクラもジョッキを掲げた。
『……なんかCEOって恥ずかしいから、お姉様もこれまで通り「サクラ」って呼んで』
『ええ、そうするわ。 これからも仲のいい姉妹でいましょうね。 そして、貴女の夢を叶えましょう』
フランツィシュカは、ジョッキを口に当てた。
**********
サクラ達は、ミュンヘンの北東部のウンターフェーリングに来た。
「(……何か、学校……お洒落な大学みたいな建物だな……)」
今居るのは、ガラスの面積が広く、白で統一された4階建てビルの前だった。
見渡すと、同じようなビルがいくつか見える。
『さ、入るわよ……』
フランツィシュカが、先にたってビルに入っていく。
『……此処の3階と4階を使ってるわ』
『うん……こんな綺麗なところに会社があるの?』
サクラは、慌てて後を追った。
『そうよ。 ここが貴女の……サクラの物になった会社のオフィスよ』
そう……サクラ達は、サクラの会社……今は広告代理店……を見に来たのだった。
『レンタルオフィスなんだよね。 賃貸料は幾らなんだろう? 高そうだけど』
カーペット敷きのロビーは広く、明るい。
『うふふ……いい事を教えてあげましょうか……』
フランツィシュカは、エレベーターを呼ぶボタンを押した。
『……このビルは、ヴェレシュの物なのよ。 だから……サクラにも分かるわよね』
『何となく分かるけど……そんな……私が思うような事って、許されるの? 税務署が目をつけてきそう』
サクラの目の前で、エレベーターのドアが開いた。
『んふふ……ヴェレシュの力を侮っちゃいけないわよ……』
フランツィシュカは、エレベーターに入った。
『……主な国の公務員に、関係者は入ってるわ。 日本にも居たでしょ』
『居た……確か、航空局の役人がそうだった。 まさか国税局にも?』
サクラは、フランツィシュカを「ポカン」と見た。
『そう言う事』
フランツィシュカは、ニッコリとした。
エレベーターを4階で降りると、正面は……渡り廊下だろうか……両側がガラス張りの通路が見えた。
『こっちよ』
フィランツィシュカは、しかし其方ではなく、左の方に歩き出した。
『あっちに行くと?』
サクラは、後に続きながら尋ねた。
『別の棟に行くわね。 そっちは別の会社が使ってるわ……』
フランツィシュカは、ひとつのドアを開けた。
『……さ、ここが貴女の……って言うか、私たちの執務室よ』
『お帰りなさいませ。 サクラ様。フランツィシュカ様』
部屋の中から、女性の声が聞こえた。
サクラが部屋の中を見ると、丁度金髪の女性がデスクを回って歩いてくるところだった。
『うん。 ただいまフリーダ……』
フランツィシュカは、頷いた。
『……貴女は、サクラに会うのは初めてよね』
『はい。 初めてお目にかかります……』
フリーダは、サクラの前に立った。
『……初めまして、サクラ様。 私は、此処で秘書を勤めさせていただいております、フリーダで御座います』
『フリーダね。 サクラよ。 よろしくね……』
サクラは、フリーダの差し出した手を握った。
『……此処の秘書、って言うのは……どういう事? イロナとは、どういう関係になるのかな?』
『私が説明するわね……』
フランツィシュカは、ソファに向かった。
『……とりあえず座りましょ。 ドーラ、紅茶を入れて』
『畏まりました』
後ろに控えていたドーラは、横のドアに入っていった。
ソファに全員……サクラとフランツィシュカ、イロナとフリーダ……一緒に来たはずのダニエルは、どこかに行った……が座った。
全員の前に、ドーラの入れた紅茶とクッキーがある。
『さて……イロナとフリーダの違いね……』
フランツィシュカは、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
『……サクラに分かりやすく、簡単に言うと……フリーダは、この会社の中で私たち……私とサクラ、ニコレットの手助けをしてくれるの』
『つまり、3人の秘書って事?』
サクラも紅茶のカップを持った。
『そう……私たちって、ここに居ない事が多いでしょ。 だから、彼女は私たちからの指示を社内に伝える事をしてもらうわ』
『って事は……私が、何か指示するときは……フリーダに言えばいい、って事かな?』
サクラは一口飲むと、カップをテーブルの戻した。
『そうよ。 一々誰に言おうかな、って考えなくていいの。 さらに彼女には、その事を残りの二人に知らせてもらうわ』
『つまり……一人で勝手な事は出来ない』
サクラは、まっすぐにフランツィシュカを見た。
『その通りよ……うふ……真剣な顔も素敵ね』
フランツィシュカは、ニッコリとサクラを見た。
『さて……イロナは……これは言わなくても分かるわよね』
フランツィシュカはクッキーを一つ摘んだ。
『うん。 イロナは、私の秘書だから……私の指示だけを聞く、で良いんですね』
サクラも真似をしてクッキーを取った。
『その通り。 悔しいことに、イロナは貴女に……貴女だけに忠誠を誓ってるわ……』
フランツィシュカは、クッキーを齧った。
『……ヴェレシュの人間なのに……彼女は、サクラのためにヴェレシュをも利用するのよ……』
フランツィシュカの持つクッキーは、ドンドン小さくなった。
『……ま、いずれヴェレシュは、サクラの物になるから……問題は無いんだけどね』
『それ……私がヴェレシュを継ぐ、って……本当の事かなぁ……』
サクラは、首を傾げた。
『……お姉さんも、お兄さんも居るのに』
『この世に絶対は無いから……まあ、分からないところも有るけど……お父様は、そう考えてるわ』
フランツィシュカは、頷いた。
サクラ達が居るフロアから一つ下の3階。
ガラス張りの明るい渡り廊下を利用して作られた休憩場所に、男が数人居た。
『……知ってるか? 今日、経営陣が全て変わったらしいぜ……』
『……ああ、噂では知ってたが……そうだったんだな……』
『……どうしてそれが分かったんだ?……』
『……ダニエルって男が、俺達営業チームの所に来たんだ……』
『……ダニエル? 誰だそれ……』
『……お前は知らないのか? ヴェレシュのダニエルだぜ……』
『……ヴェレシュ! それは、あのヴェレシュか?……』
『……そうだよ。 あのヴェレシュのダニエルだ……』
『……そんな大物が、どうしてこんなチッポケな会社に現れるんだ?……』
『……何でも、ヴェレシュが経営に参加するそうだ……』
『……そうかー それなら、この会社も安泰だな……』
『……そういうことか! だから役員室に新しい秘書が来たんだな……』
『……お? 美人か?……』
『……フリーダ、だったかな? 美人の方だが……ありゃ、30以上だな……』
『……待てよ。 その新しい秘書と、ヴェレシュが経営に参加するのと……どんな関係が有るんだ?……』
『……そりゃ……ダニエルって言えば、ヴェレシュの跡取りって噂だろ? ヴェレシュのボスに付いて動いてるってそうじゃないか。 絶対忙しくて、此処には殆ど居ないだろうぜ……』
『……そうか、つまりフリーダは連絡係って事だな……』
・
・
・
『……おい、大変だ。 赤毛の凄く可愛い娘が、役員室に入っていったぜ……』
『……はぁ? そんなのは、今は関係ないよ。 ヴェレシュが経営に参加する、ってんだぜ……』
『……え~~ 可愛かったのになー ……誰だったんだろう?……』
・
・
・