ビールを奢ってくれ
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
サクラの乗る「ムーニーM20C」は、高度6500フィートを時速250キロ(約140ノット)で順調に飛行していた。
「(……さっきイン川から分かれた、ザルツァハ川を越したから……ドイツに入ったな……)」
何てことを……地文航法なので、地形を確認しながら飛んでいる……考えていたら……
{『ムーニーYCT ザルツブルグアプローチ 118.825でミュンヘンアプローチにコンタクトしてください』}
管制圏が変わるようで、ここまでお世話になったオーストリアの管制から連絡が入った。
{『ザルツブルグアプローチ ムーニーYCT 118.825でミュンヘンアプローチにコンタクト グッデー』}
{『ムーニーYCT ザルツブルグアプローチ グッデー』}
「(……さてさて……ドイツの管制官は、どんな調子かな?……)」
サクラは無線機の周波数を118.825に合わした。
{『ミュンヘンアプローチ HA-YCT 機種はムーニーM20C』}
取りあえず、最初なのでコールサインは機体記号にしておく。
{『HA-YCT ミュンヘンアプローチ 気圧1018ヘクトパスカル』}
ザルツブルグから連絡が入っていたようで、すんなりと返信が来た。
{『ミュンヘンアプローチ HA-YCT Q1018 了解』}
「(……気圧はザルツブルグと変わらないな……)」
サクラは「ちらっ」と高度計の補正窓を見た。
「(……ん! 大丈夫……)」
飛行機の高度は、大気圧を計る事で求めている。
よって、基準になる地上の気圧を教えてもらう事は、重要なのだ。
「(……EBEDAまで、もうすこし……そろそろOTTの電波が入るかな?……)」
OTTポイントはVOR/DMEの基地だが、EBEDAポイントには何も無い。
この辺りに不案内なサクラは、EBEDAポイントを見つけられるか不安だった。
サクラは、ナビゲーション受信機の周波数を112.3に合わした。
「ピ ピ ピ……」とモールス信号がレシーバーから流れてくる。
「(……OK 受信できた……)」
サクラは、ハンドブックの記載と聞き比べて、OTTからの電波だと確認した。
「(……18マイルか……)」
DMEの表示窓に数字が現われた。
「(……あと6マイルでEBEDAだ……)」
EBEDAポイントとOTTポイントは、12マイル離れている。
よって今いるのは、EBEDAポイントの6マイル手前だと言うことになる。
「(……この辺りかなー……)」
DMEは、OTTポイントまで12マイルを表している。
「(……方向は278度だし……ここだよね……15時55分っと……)」
下には小さな森が見えている。
サクラは、ここをEBEDAポイントとして通過時間をメモした。
そして……
『あと1分ぐらいで降下を始めるね』
イロナに向けて言い、コントロールホイールを少し左に回した。
機体は、緩やかに左バンクを取る。
「(……ヘディング278度……OK……)」
「ムーニーM20C」はOTTポイントに向かって飛び始めた。
「(……10マイル……さあ、降りよう……)」
DMEが10マイルになり、サクラはスロットルレバーを手前に引いた。
「ムーニーM20C」は、降下を始めた。
「(……毎分700フィート……これで良いはずだよな……)」
現在6500フィートで、OTTまでに3000フィート降下して3500フィートにしたい。
10マイルを140ノット……エレベータートリムを変えてないので、エンジンパワーを下げて降下していても速度は変わらない……で飛ぶと、4分少々掛かる。
3000フィート÷4分少々=毎分700フィート、という計算になるのだ。
ところで、なぜ3500フィートにするのか……
実は、この先ミュンヘン空港に近づくため「VFRは3000フィート以下」という高度制限がある。
その高度制限の境界は、OTTから1.6マイル先にある。
このままの降下率なら、良い具合に3000フィートになるだろう。
右の方角、遠くに大きな空港が見える。
「(……あれがミュンヘンだよな……)」
そんな中、DMEの表示は「0マイル」になった。
VOR/DMEのアンテナは、機首の下に隠れて見えないが……ここがOTTの筈だ。
サクラは、降下しながら右に旋回した。
左下に大きな湖が見える。
「ムーニーM20C」は、その湖の東端にいた。
「(……3100……そろそろ降下を止めよう……)」
サクラは、エンジンパワーはそのままでコントロールホイールを少し引いた。
機首が上がり、速度が下がる。
すると揚力が減るので、機体は降下しようとする。
降下しないように、さらにコントロールホイールを引く。
これが続くと、やがて失速してしまうのだが……今回の場合、エンジンパワーが効いてきて……「ムーニーM20C」は、時速180キロ(約100ノット)で水平飛行を始めた。
「(……3000フィートで100ノット……こんなもんかなー……)」
サクラは、エレベータートリムを回して、手放しができるように調整した。
{『シュライスハイムインフォ HA-YCT 機種はムーニーM20C』}
目的地の飛行場は、ゲデレーと同じようにタワーが無い。
しかし、当地の飛行機クラブが飛行場の管理を行なっている。
あらかじめネットで情報を調べていたサクラは、無線で呼びかけた。
{『HA-YCT シュライスハイムインフォ 用かね?』}
何か、フランクな小父さんの声が帰ってきた。
{『シュライスハイムインフォ 現在南東10マイルを飛行中 着陸申請書は送ってあります』}
{『ん? ちょっと待てよ』}
ガサガサと書類を探す音が聞こえてきた。
{『HA-YCT ハンガリーからの飛行だね。 書類は届いてる。 これから降りるかい?』}
{『はい。 飛行場の情報を教えてください』}
なんだか砕けた話ぶりに、サクラも釣られてきた。
{『ん……200度から5メートルの風。 気圧1018ヘクトパスカル。 滑走路は25を使用中。 飛行場の南をグライダーが飛んでいる……お嬢ちゃん、南に居るって言ってたな? グライダーに気を付けてくれよ』}
{『わかりました。 このままストレートインしても良いですか?』}
今の位置から「ぐるぐる」回ってパターンを飛ぶのは面倒だ。
{『ああ、許可しよう。 降りたらビールを奢ってくれな』}
さすがはドイツである。
{『シュライスハイムインフォ HA-YCT 了解』}
『ビールだって。 イロナ、頼むね』
マイクのスイッチを切って、サクラはイロナに苦笑を見せた。
ゴルフ場が左翼の下に隠れていく。
「(……ここで良いよな……あそこの森を目標にして……)」
サクラは、コントロールホイールの左に付いているボタンを押して、そのまま左にそれを回した。
「ムーニーM20C」は左にバンクをして、旋回を始めた。
「(……ん……いい所に向いた……ヘディング250……)」
そう……丁度このゴルフ場が、RW25の延長線上にあるのを、サクラは予め調べていたのだ。
{『シュライスハイム トラフィック HA-YCT 現在8.5マイル東 ALT3000 着陸のため接近中』}
どうやらグライダーが飛んでいるらしい。
サクラは、いつも以上に丁寧に機体の位置を無線に吹き込んだ。
{『シュライスハイム トラフィック D-3327 機種はASW19 南西15マイル ALT4000』}
「(……居たよ……って言うか……大分遠いよね……)」
サクラの無線を聞いたのだろう……グライダーが同じように位置を報告してきた。
「(……先に下りても良いかな?……聞いてみようか……)」
相手はグライダーだ。
もしかしたら、先に下りるかもしれない。
{『D-3327 HA-YCT 先に下りても良いですか』}
{『HA-YCT D-3327 良いぞ。 上昇気流の中に居る、大丈夫だ。 後でビールに付き合ってくれよ、お嬢ちゃん』}
またまたビールのお誘いである。
「(……はぁ?……こいつ等、飲みすぎだろ……)」
{『D-3327 HA-YCT 了解』}
『イロナ~ どうしよう』
余所見が出来ない状態なので、前を向いたままサクラは情けない声を上げた。
小さな川を斜めに横切った。
「(……ここから5マイル……降下開始……)」
サクラは、スロットルレバーを手前に引いた。
機体は、ゆっくりと降下を始める。
サクラは、チェックリストを開いた。
「(……電動ポンプ……ON……)」
手を伸ばしてスイッチを入れる。
「(……ミクスチャー……フルリッチ……)」
三本並んだスティックのうち、一番右側のレバーをイッパイ前に倒す。
「(……キャブレーターヒート……ON……)」
スロットルレバーの下にあるツマミを、ヒート位置に動かす。
「(……速度……104ノット以下……えーっと……今は、時速180キロだから……大体100ノットだから……OK……)」
速度計に時速の目盛が付いているのに……チェックリストの記載は、何故かノットのままになっていてややこしい。
「(……プロペラピッチ……最低……)」
真ん中のレバーもイッパイ前に倒す。
「(……ランディングギヤ……ダウン……)」
離陸したときはイロナに操作してもらったスイッチだが……今は余裕があり……サクラは自分で下に動かした。
「(……グリーン……OK……)」
ランプが灯り「ムーニーM20C」は、「ぐぐっ」と減速した。
「(……フラップ……一段目……)」
ミクスチャーレバーの上にある小さなレバーを、一段下げる。
機首が下がり、前方の見晴らしが良くなった。
「(……時速150キロ……80ノットぐらい……78ノットで進入だから、大体良いな……)」
車輪を出し、フラップを下ろしたことで……抵抗になり……「ムーニーM20C」は良い具合にグライドスロープに乗っていた。
小さな林の向こうに滑走路が見えてきた。
{『シュライスハイムインフォ HA-YCT オンファイナル』}
もう2マイル程度しかない。
{『HA-YCT シュライスハイムインフォ ランウェイ イズ クリアー』}
着陸してOKなようだ。
{『シュライスハイムインフォ ランウェイ イズ クリヤー 了解』}
{『シュライスハイム トラフィック HA-YCT 着陸します』}
此処からなら、失敗するはずは無いだろう。
「(……フラップ……フルダウン……)」
サクラは、フラップスイッチを一番下まで動かした。
揚力と抵抗を増した機体は、更に減速した。
そして……
{『シュライスハイム トラフィック D-3327 現在ダウンウインドレグ』}
グライダーも後ろから来ていた。
林を飛び越え、広々とした草原に出た「ムーニーM20C」は、その中央にある舗装された滑走路の端を通過した。
「(……アイドル……)」
サクラは、スロットルレバーを一番手前まで引いた。
プロペラの回転が少なくなり……推力を失った機体は、降下しようとする。
「(……フレア……ゆっくり……)」
いきなり高度を下げないように、サクラはコントロールホイールを少しずつ引く。
「(……右を踏んで……エルロン左……)」
これまで左からの風に対応して機首が左を向いていたのを、滑走路に対して真っ直ぐにする。
「……ビーーー……」
失速警報がなった途端……「トン・トン」とメインギヤが滑走路に付いた。
そのまま機首を上げて数秒走り……「トン」とノーズギヤが下りた。
誘導路は、滑走路の反対側にある。
サクラは、滑走路エンドまで機体を走らせた。
「(……あそこで呼んでる……)」
誘導路を駐機場に向けて走っていると、先の方で一人手を振っている。
その辺りには、他に飛行機は置いてないようだ。
「(……あそこがビジターの駐機場かな?……)」
サクラは、其方にノーズギヤを向けた。
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軽飛行機やグライダーが置かれた駐機場を、サクラたち三人は二人の男……無線に出ていた男と、グライダーに乗っていた男……にエスコートされて歩いていた。
『いやー 綺麗で可愛い声だったから、そうだと思ったけど……三人とも美人だねー』
『お世辞はいいわ。 私の事は、私が分かってるから』
主に相手をしているのは、イロナだった。
『フロイライン イロナ。 そんなことは無いよ。 君は体は大きいかもしれない、けどドイツ人は、そんな丈夫な女性が好きなんだ』
『ふん……よく言うわ……何?サクラ……』
隣からサクラが肩を突いた。
『良かったね。 もてるよ、イロナ』
男達に分からないように、サクラはハンガリー語で言った。
『馬鹿ね。 こいつ等は、貴女が目的よ。 何だかんだ言っても、サクラのレベルは並みじゃないんだから』
『そっかなー 私なんて、彼らにしたら若すぎるんじゃないかなぁ。 子供にしか見えないよ、きっと』
『なになに? 何の話をしてるんだい。 大丈夫だよ、フロイライン サクラ。 ビアガーデンといっても、ソフトドリンクだって飲めるから』
そう……この飛行場には、ビアガーデンがある。
そして男達は、そこにサクラたちを案内しているのだった。
『そうね。 サクラはビールを飲まないほうが良いわ。 この間は大変な事になったもの』
『やだよ。 ドイツに来てビールを飲まないなんて……「さわち」に巻き寿司が入ってないようなものだよ』
『ぷ! なにその例え。 何となく分かるけど』
『なに? サクラお嬢ちゃんは、何か可笑しなことを言ったのかい?』
『何でもないわよ。 サクラは、ビールを飲まない。 決めたわ』
『嫌だ。 飲む』
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『さあ、此処だ』
男の一人がドアを開けて、サクラたちを誘った。