『お酒は御座いません』
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
淡い色の天蓋に包まれたベッドの中で、サクラは目を覚ました。
「(……知らない天井だ……)」
そんな筈は無い……日本に行く前に、ここでは何度も寝ている。
サクラは、胸に手を当てた。
「(……ある……)」
当たり前だ。
サクラは、手を下に伸ばした。
「(……無い……)」
当然である。
「(……なんちゃって……これはお約束だよな……)」
サクラは、昨日のフライトの間にラノベ……異世界TS物……を1本読みきったのだった。
「(……ふぅ……ここは異世界でもないし……現実だよな……)」
『サクラ様、お目覚めで御座いますか?』
不意にドーラの声が聞こえた。
「(……ぉわ!……)」
慌てて下にあった手をお腹の辺りに動かし、サクラは横向きに寝返りを打った。
薄いカーテン越しに、ドーラがドアの近くに立っているのが見えた。
『お、おはよう、ドーラ。 今起きたわ』
サクラは、腕を突いて上体を起こした。
体に掛かっていたブランケットが滑り落ちて、パジャマが露になった。
『おはよう御座います。 御召し替えの補助は、必要で御座いましょうか?』
お腹に手を当てて、ドーラはゆっくりとお辞儀をした。
『んっと……今日は、どんな服装にするのかな?』
そう……着る服によっては……例えばドレス……サクラは、一人では着れないのだ。
『後ほど、スーツをお召しになる必要が御座いますが……今はルームウェアで宜しいかと』
『そう。 じゃ、一人で着られるよ』
『畏まりました。 食堂に朝食の用意ができております』
ドーラは、お辞儀をして出て行った。
ゆったりとしたパンツ(ズボン)に、これまたゆったりとした長袖のシャツを着たサクラは、食堂にやって来た。
『おはよう、シャロルタ』
『お嬢様、おはよう御座います……』
テーブルの横に立っていた、年嵩のメイドが頭を下げた。
『……昨日は、長旅で御座いましたが……ご気分は、いかがで御座いましょう?』
『ん、大丈夫よ。 なんの問題もないわ』
サクラは、軽く顎を引く程度に頷いた。
『それは、良う御座いました……』
シャロルタは、椅子を引いた。
『……お嬢様は、何をお飲みになられますか?』
『そうねー……』
サクラは、引かれた椅子とテーブルの間に立った。
『……コーヒーを貰おうかしら』
『畏まりました』
サクラの座るのに合わせて椅子を押したシャロルタは、後ろに控えている若いメイドに合図をした。
朝食後、サクラはルームウェアのまま執務室……この屋敷には、アルトゥールやガスパルの物とは別に、サクラの部屋がある……のデスクに座っていた。
『……ええ、それで良いわ。 そっちの方向で進めて……』
部屋にはイロナのデスクもあって、今、彼女は電話で今日の予定の最終確認をしていた。
『……OK。 よろしくね』
『準備できた?』
イロナが電話を終えたのを見て、サクラは声をかけた。
『ええ、全て予定通りに進んでるわ……』
イロナは、自分のデスクを回りこんで歩いてきた。
『……この通りね』
『ん! それじゃ……えっと、明日は何時までに行くんだっけ?』
イロナの見せたファイルは、物凄い書き込みで本文が読みにくくなっていた。
『11時に開始するから……10時40分には着きたいわね』
『10時40分かー んじゃ、ホテルは10時ごろに出ればいいね』
『そうね……それなら十分だわ。 って言っても、貴女が過半数の株を持ってるんだから……貴女が居ないところでは、何も決まらないわよ……』
イロナは「ニヤリ」と笑った。
『……つまり、遅刻しても大丈夫!』
いったい何があるのか……
『ダメでしょ! 皆、貴重な時間を費やして株主総会に集まるんだから』
そう……サクラの会社の臨時株主総会が行われるのだ。
午後1時、スーツに着替えたサクラは、イロナとドーラと共にゲデレー飛行場にやって来た。
此処は、ヴェレシュの所有する飛行場で、芝生の滑走路になっている。
「(……さーってと……どれかな?……)」
小さな建物の前に軽飛行機が並んでいた。
『サクラ様! お久しぶりで御座います。 ようこそ御出で下さいました』
きょろきょろ、と見渡していたサクラに大声で近づいてくる……肥った……男が居た。
『誰?』
サクラは、隣に立つイロナに尋ねた。
『彼は、この飛行場を任せている者よ。 名前はフゴー。 「ふごー」だけど富豪じゃないわよ』
イロナも、日本語の語彙が増えたようだ。
『そっ』
サクラは、軽く答えると……
『久しぶりね、フゴー。 今日はよろしく頼むわよ』
目の前まで来た男に話しかけた。
『お任せ下さい。 しっかり整備をしておきました。 古いですが、調子は抜群で御座います』
此方で御座います、とフゴーは歩き出した。
並んだ軽飛行機を縫って歩き、サクラたちは白地に赤のストライプの描かれた低翼機……主翼が胴体の下側に付いている……の前に着いた。
『こいつを使って下さい。 燃料もたっぷり入れておきました』
フゴーは、右手でその飛行機を指した。
『これは「ムーニーM20C」ね。 良いわ。 これなら140ノットで400海里は飛べる』
『良くご存知で。 古いですが、良い飛行機です』
何故だか自慢げなフゴーだ。
『何年製?』
さっきから「古い古い」と言うのが、イロナは気になった。
『1976年製です。 ざっと40年ですね』
『40年! 古すぎでしょ』
『いやいや……40年なら、まだまだ使えますよ。 エンジンは、定期的に交換してますし』
『そうなの? サクラ』
イロナは、サクラを見た。
『んー そうねー ……』
サクラは、胴体を触った。
『……ちゃんと整備してれば、問題ないと思うよ。 この子は全金属機だから』
『整備に関しては、問題ありません。 この私が、保証いたします』
フゴーは胸を張った……胸より腹が突き出してはいたが。
「(……フュエルセレクター R……ドレインハンドル プル 5秒……)」
操縦席に座ったサクラが、ハンドブックを見ながらプリフライトチェックをしている。
「……フュエルセレクター L……ハンドル プル……OKだな……さて……)」
サクラはコックピットから出ると、機体の周りを歩き出した。
「(……エレベーター……ラダー……OK……)」
舵のガタや緩み、引っ掛かりが無いかを確かめる。
「(……うん、綺麗に磨かれてる……)」
フゴーが自慢するだけあって、機体は「ピカピカ」に磨かれていた。
「(……フラップ……OK……エルロン……OK……翼端灯……OK……燃料……OK……)」
サクラは、左翼を周りエンジンの所に来た。
「……カウル……OK……プロペラ……んっ!……OK……ノーズギヤ……OK……)」
しゃがんで前輪の確認をしたサクラは、立ち上がると右翼のチェックを始めた。
「(……前縁に傷はなし……燃料……OK……サンプル……OKだな……翼端灯……OK……エルロン……OK……フラップ……OK……荷物室……閉まってるね、OK……ふぅ……)」
これでやっと外部の点検が終わった。
サクラは、ドアを開けてコックピットに入って行った。
『失礼いたします』
サクラが、エンジン始動前チェックをしていると、ドーラが乗り込んできた。
『はいドーラ。 持てる?』
後ろからイロナが、蓋の付いた大きなバスケットを差し込んできた。
『大丈夫です』
後部席に座ったドーラは、手を伸ばしてそれを受け取った。
『大きいね。 それは何?』
一人分の座席を占領するバスケットを見て、サクラは尋ねた。
『数時間掛かると聞いておりますので、飲み物と軽く摘めるもので御座います』
バスケットをシートに縛り付けながら、ドーラは答えた。
『飲み物ね。 お酒も入ってるの?』
サクラは、イロナのことを考えてしまったが……
『お酒は御座いません』
どうやら違ったようだった。
少しして、イロナがサクラの右側に乗り込んできた。
『準備OKよ、サクラ』
体にシートベルトを回しながら、イロナは言った。
『ん……じゃ、エンジンを掛けるね』
サクラは、膝に付けてあるチェックシートを見た。
『……マスタースイッチ ON……』
サクラは、トグルスイッチを指先で跳ね上げた。
計器盤が動き始める。
『……フュエルインジケータ チェック……OK……』
計器盤中央右側に並んだメーターは、右に振り切っている。
『……アナンシェータライト プレスチェック……OK……』
サクラの正面上のスイッチを押す。
これは、玉切れの確認だ。
『……ランディングギヤ……スリーグリーン……OK……』
中央左に引込脚のスイッチとインジケーターがある。
『……フュエルポンプ ON……』
さっきの引込脚スイッチの隣に並んでいる、スイッチの一つを入れる。
『……ミクスチャー フルリッチ……』
混合気調整レバーを前に押す。
『……スロットル 始動位置……』
スロットルレバーを4分の1ほど前に押す。
そしてサクラは、左サイドの窓に付いている小さな引き戸を開け……
『プロペラから離れて!』
外に向かって大声で言った。
『……マグネトー ON……スターター ON……』
サクラは前に人が居ない事を確かめると、左下に刺してある……まるで車のそれのような……キーを回した。
フロントシールド越しに見えるプロペラが、ユックリと回り始める。
数回転もしただろうか……
「ブォン……ブォン……ボボボ……ブォーーー……」
180馬力を出すライカミングO-360エンジンは、白煙を上げて始動した。
『……1200にセット……』
サクラは、スロットルレバーを少し戻し、回転数を1200rpmにした。
『……オイルプレッシャー……最低25PSI……』
油圧系の針は……
「(……早く上がれよ!……)」
少しずつ動いている。
「(……よ、よっし……上がった……)」
30秒待っても上がらない場合、エンジンを止めるようにハンドブックは書いてあった。
「(……ふぅ……良かった……次は……)」
ホッとして、サクラはハンドブックに目を落とした。
『……キャブヒート……ON……』
このエンジンは「エクストラ300LX」の物とは違って、燃料噴射式でなくキャブレーターを使っている。
そのため、気温が下がると凍り付いてしまう危険があった。
それを防ぐのが、キャブレーターを排気ガスで温める装置なのだ。
「(……少し下がったな……OK……)」
ただ、欠点として……吸入する空気が温まる所為で、パワーが僅かに下がるのだった。
もっとも、その性質を利用して……こうして動作確認が出来ている。
『……フュエルプレッシャー……グリーンエリア……』
燃料は、十分送られている。
『……ライト ON……』
左右の翼端灯と尾灯を点ける。
『……アンチコリジョンライト ON……』
そしてサクラは、胴体に付いているフラッシュライトを点けた。
『……ピトーヒーター チェック……』
速度を計るピトー管も凍る事がある。
『……ラジオ ON……トリム 離陸位置……OK……フュエルコック チェック OK……』
ふぅ……これでやっと「ムーニーM20C」は、タキシーが出来るようになった。
サクラは、左翼端に立っているフゴーを見て……
『車止めを外して』
小窓から叫んだ。