定期点検
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
{『サイテーション サクラ 八尾タワー RW27 クリヤード ツウ ランド』}
{『八尾タワー サイテーション サクラ RW27 クリヤード ツウ ランド』}
管制と通信するローザには、小ぶりな飛行場の短い……1500メートル弱……滑走路が正面に見えている。
『ギヤダウン』
左に座ったタマーシュから指示が出た。
『ギヤ ダウン……』
ローザは、タイヤの形の握りをしたレバーを下げた。
足元から「ゴン、ゴン」と音がして、計器盤のランプが点く。
『……ランディングギヤ オール グリーン』
サクラを乗せた「セスナ サイテーション X」は、ランディングギヤを下ろし、フラップを最大に下げて、八尾飛行場のRW27に着陸した。
空港を出たサクラとイロナは、近くのビルの中でソファに並んで座っていた。
「これが今回の作業内容です……」
二人の前に座った中村が、資料をテーブルに広げた。
「……特に何も無かったようで、ま……いつもと同じかな?」
「ええ、そうですね……」
サクラは、資料を手に取った。
「……はい、問題ないようですね。 それじゃ、支払いを済ませましょう。 イロナ……」
サクラは、資料をイロナに渡した。
『……この金額の小切手を用意して』
いったい、何の支払いなのか……
実は、飛行機は一年に一回、点検が義務付けられている。
去年サクラが高知に帰って直ぐに点検に出した「エクストラ300LX」だが、それから一年経って再び点検の時期が来たのだった。
『分かったわ』
イロナは、バッグから分厚い小切手帳を取り出した。
「やあ、サクラさん……」
サクラたちが格納庫に来ると、ごま塩頭の男が声をかけてきた。
「……点検は、バッチリだよ。 なかなか調子が良さそうだね」
「こんにちは、塩頭さん……」
サクラは、右手を出した。
「……お陰さまで、不安なく飛ばせてます」
「あははは……そう言ってくれると、嬉しいね。 っと、まあ機体の方は、問題ないんだが……」
塩頭は、右手でサクラの手を握った。
「……エンジンが……そろそろオーバーホールの時期じゃないかと思うんだが?」
「そうですね。 そろそろなんですが……予備エンジンが、まだ手に入らないんです」
飛行機に使っているエンジンは使用期限が決められていて、それを超えるとオーバーホールをしなければならない。
サクラの使っている……吉秋が使っていた……「エクストラ300LX」は標準のエンジンでなく、少しチューンしてあるものなのだ。
そのため「欲しい」と言っても、直ぐに手にはいる物ではなかった。
「そうだね。 標準の物なら、ウチにもあるけど……」
塩頭は、格納庫の奥を見た。
そこには、大きな木箱が何個か積み上げられていた。
「……やっぱりパワーが違うと、練習が上手く行かないんだろうね」
「はい。 まあ……あと数十時間は使えますから……もう少し待とうと思います。 交換するときは、またお願いします」
サクラは「ぴょこっ」と頭を下げた。
「はい。 その時は、また持ってきてね」
さあ、出そう……と塩頭は若い整備員を呼んだ。
「また、ごっつい飛行機で来たね……」
塩頭は、目の前のジェット機を見上げた。
「……これは……サイテーションX+(プラス)かな?」
そう……「エクストラ300LX」を引き出した格納庫の前に、サクラのサイテーションが駐機していたのだ。
「はい。 そうです……」
フライトスーツに着替えたサクラは、頷いた。
「……これならヨーロッパに行くのも、一回の給油で済みますから」
「HA-SKLか……HAって事は、ハンガリー?」
「はい。 私の実家があります」
「んで……SKLは、サクラかな?」
塩頭は、サクラの横顔を見た。
「そうらしいですね。 お父さんのプレゼントなんです。 なんか……親ばかですよね」
サクラは塩頭を見て、苦笑を浮かべた。
「あははは……親ばかで良いじゃないか。 娘ってのは、何時までも可愛いもんだよ。 もっとも……こんな数十億もするものを贈るなんてのは……世界でも少数だろうなぁ」
塩頭は、サクラに向かって破顔した。
『イロナ!』
「エクストラ300LX」の周りを回りながら点検をしていたサクラは、ふとサイテーションの方に歩いていくイロナを見つけた。
『……!』
ビクリ、とイロナが固まった。
『何処に行くの?……あなたは、私と一緒に行くんだよ』
サクラは、ゆっくりと近づいた。
ギギギ、と軋む様にイロナが振り返る。
『……そっちに乗らなくちゃ、ダメ?』
『当然でしょ。 貴女は、私の秘書なんだから……何時も一緒に行動するんだよね。 自分から言ってたじゃない』
そう……ニコレットは妊娠したことにより、第一秘書をイロナに譲ったのだ。
更に、ニコレットは新しい会社のCOOに就任する事になっていて、秘書に復帰することは無い。
会社の役職を全て断ったイロナは『私は、一生サクラの側から離れない』と宣言したのだった。
『そ、そうだけど……』
イロナは「ちらちら」と視線をサイテーションに送った。
『……こっちのだと、トイレが付いてるから……飲めるじゃない?』
『確かに「ルクシ」には、トイレは無いけど……』
サクラは、半眼でイロナを見た。
『……途中でお酒を飲まなけりゃ、良いんじゃない?』
『飲みたい!……』
イロナは、頭を振った。
『……空の上で飲む酒、って美味しいのよ』
『はぁ……イロナってアル中? 1時間ぐらい我慢できるでしょ!』
溜息を吐くと、サクラはサイテーションの乗降口に立っているローザに合図をした。
一礼をしたローザが機内に入り、ゆっくりとドアが引き上げられ始めた。
『あ、あああああ……』
イロナが、膝から崩れ落ちた。
『……行っちゃう……希望の船が行ってしまう』
『何、大げさな事を言ってるのさ……』
サクラは、回れ右をして歩き出した。
『……イロナもフライトスーツに着替えるんだよ。 早くしないと置いて行っちゃうよ』
『……酷い……サクラは、暴君だわ』
よろよろと、イロナは立ち上がった。
「エクストラ300LX」のコックピットで、サクラは首を回して周囲の確認をした。
「(……周囲、OK……ブレーキ、OK……操縦桿を引いて固定……)」
誰も居ない事を確認して、スティックをお腹につくまで引いてベルトで留める。
「(……メインスイッチ、ON……)」
サクラは電気系統のスイッチを入れた。
電気で動く計器の針が動き出す。
「(……スロットル フル フォワード……プライミング……燃料ポンプON……)」
スロットルを全開位置にして燃料ポンプを始動する。
「(……ポンプOFF……)」
数週間動かしてなかったエンジンは、何時に無く中が乾いている。
サクラは、少し長くポンプを回した。
「(……スロットルを下げて……混合気リーン……)」
ガソリンが流れやすいように全開だったスロットルを下げ、同じく濃くしていた空燃比を始動位置にする。
「(……マグネトーON……スタート……)」
サクラはキーを捻ってセルモーターを回した。
「ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ……ズドドドドドド……」
541.5ci ……約8800cc ……もの排気量を持つライカミング製AEIO-580エンジンは精々700kg程度の機体を震わせて始動した。
「(……マグネトーBoth……ミクスチャーFull Rich……)」
揺れるコックピットで、サクラはエンジン始動後の確認をする。
「(……オイルプレッシャーOK……アイドル……)」
オイルも順調に送られているようだ。
サクラは暖気運転のため、スロットルをアイドリングの位置にした。
「ストストストスト……」
低速に下げられたエンジンは、先ほどと変わって静かに回りだした。
『イロナ……お酒臭い』
離陸前のチェックをしていたサクラは、前席から流れてくる臭いに気が付いた。
『あら、そう?』
イロナの返事は、素っ気無い。
『あら、そう……って、何か飲んでる? またおしっこを漏らしちゃうよ』
そう……夏に笠岡に飛んだときに、イロナは大変な思いをしたはずだった。
『大丈夫よー あの時はー薄い酒を沢山飲んだから……いけなかったの。 今回は「ウォッカ」よ。 少量で酔えるわー』
何だか、イロナの声は……呂律が怪しくなってきている。
『あ、そう……悪酔いしないでね』
もう、突っ込むのも疲れたサクラだった。
{『八尾グランド JA111G エクストラ300LX』}
サクラは、無線機の周波数を121.8に合わせ、管制を呼んだ。
{『エクストラ111G 八尾グランド ゴーアヘッド』}
サクラ達の様子を見ていたのだろう……直ぐに返事が返る。
{『八尾グランド エクストラ111G リクエスト RW27へのタキシー 情報Eを確認済み』}
{『エクストラ111G 八尾グランド RW27へのタキシー許可 サイテーションXに続いて下さい』}
どうやらサクラ達の離陸は、サイテーションの後になるようだ。
見ると、サイテーションがタキシーして行く。
{『八尾グランド エクストラ111G RW27にタキシー サイテーションに続きます』}
サクラは、スロットルレバーを進めた。
サクラが誘導路をタキシーしていると、先を行くサイテーションがRW27に入っていくのが見えた。
{『エクストラ111G 八尾グランド ランウェイ ホールドポジション にて待機』}
どうやら、サイテーションが離陸する為に「エクストラ300LX」を滑走路に近づけないつもりらしい。
{『八尾グランド エクストラ111G ホールドポジションで待機』}
サクラは、滑走路の手間で機体を止めた。
{『エクストラ111G 八尾グランド 126.2にてタワーに連絡してください』}
少し早いが、此処からはタワーが管制をするようだ。
{『八尾グランド エクストラ111G 126.2でタワーに連絡』}
サクラは、グランドに返事をして周波数を126.2に合わした。
{『サイテーション サクラ 八尾タワー クリヤード フォー テイクオフ』}
{『八尾タワー サイテーション サクラ クリヤード フォー テイクオフ』}
途端に、サイテーションとタワーの通信が飛び込んできた。
「(あらま……切り替えるのが早すぎたかな? って言うか……私が止まるのを待ってたんだな)」
そう……サイテーションは、滑走路の中で待機していたのだった。
エンジンをフルパワーにしたサイテーションは、見る間に加速して目の前を通過した。
{『エクストラ111G 八尾タワー クリヤード フォー テイクオフ』}
サイテーションがゴマ粒のようになった頃、タワーから離陸許可が来た。
{『八尾タワー エクストラ111G クリヤード フォー テイクオフ インターセクションテイクオフします』}
今、待機しているのはRW27の途中……端から1/3程度……なのだが、それでも1000m程残っている。
「エクストラ300LX」にとって離陸するのに十分すぎるので、サクラはここから離陸することにしたのだ。
サクラは、ブレーキを外しスロットルレバーを進めた。
「エクストラ300LX」はゆっくりと滑走路に入った。
「(……もう少し……そろそろ……)」
滑走路のセンターラインが近づいてくる。
「(……よし……)」
サクラは右のブレーキを掛けた。
「エクストラ300LX」は右に向きを変える。
「(……スロットル……)」
そして機体が滑走路に正対したとき、サクラはブレーキを離しスロットレバーをイッパイ前に倒した。
所謂……ローリングテイクオフである。
「エクストラ300LX」は弾かれたように加速を始めた。
反動トルクで機首を振ろうとするのをラダーで押さえ、スティックを軽く押す。
直ぐにテールは上がる。
「(……Vr……)」
ほんの100m程で「エクストラ300LX」は地面を離れた。
『……サクラ……』
『ん、何? イロナ』
『……今、何処?』
『淡路島の辺りだよ』
『……後、どの位で付く?』
『ん~ 30分位? かな』
『……ゴメン……持たないかも……』
『持たないって……もしかしておしっこ?』
『……違う。 気持ち悪い……』
『気持ち悪い? って……わーーー! 待って、まって……』
『……うぇ……うぇっぷ……出そう……』
『イロナ! 右側に備え付けられているバッグの中にビニール袋があるから……それを使って』
『……こ、これね……*****(イロナの名誉の為に音声規制)……』
{『徳島アプローチ JA111G エクストラ300LX』}
{『エクストラ111G 徳島アプローチ ゴーアヘッド』}
{『徳島アプローチ エクストラ111G 現在東方20海里 着陸したい 情報Bを確認済み』}
{『エクストラ111G 徳島アプローチ 飛行計画には無いが?』}
{『徳島アプローチ エクストラ111G 同乗者の体調が悪い』}
{『エクストラ111G 徳島アプローチ そのままRW29に進入してください 5海里手前でタワーに連絡して下さい』}
{『徳島アプローチ エクストラ111G RW27にストレートイン 5海里前でタワーに連絡』}
『イロナ……徳島空港に降りるから、もう少し頑張って』
『……わ、分かった……』