Mr.森山
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
9月も中ごろになり、日中の暑さも少し……ほんの少しマシになってきた。
海で遊んでいた子供達は、今は学校に行っているはずで……海岸線は、人気が無くなっている。
そんな静かな砂浜に向かって、高速回転するエンジンの音を響かせた「エクストラ300LX」が近づいてきた。
波打ち際から10m海に入った辺りには、天辺に丸いバルーンを付けた高い……20メートルほど……ポールが5本、間隔をあけて立っている。
「エクストラ300LX」のコックピットでサクラは口を引き結び、瞬きもせずに端のポールを見つめていた。
眼下には、まるで触れるような所を海面が……筋を引いて……流れていく。
秒速100mで近づくポールの手前25m……そんな物、計れる訳は無い……時間にして0.25秒……
「っく!」
サクラは気合と共に、スティックを両手で左に倒した。
1秒間で400度ロールする「エクストラ300LX」は……操作の遅れを加味して……凡そ90度左にロールする。
「ふっ!」
透かさずサクラはスティックを……お腹に当たるまで……引いた。
「(……っくううううぅ……)」
途端に掛かる「G」を体に力を入れて耐え、首を上げて頭上に見えるバルーンを見つめる。
「っく!」
そのまま3秒弱、サクラは引いていたスティックを戻すと、右に倒した。
機体は、右にロールして水平になった。
「ふぅ……っく!」
ホッとする間も無く、サクラはスティックを右に倒した。
右前に見える次のポール、そしてその次のポール、その間に向けて「エクストラ300LX」は鋭く旋回をした。
「(……っくううううぅ……)」
3本のポールをスラロームで抜け、5本目のポールでサクラは再び「G」に耐えていた。
「っく!」
1本目と同じ3秒弱の旋回で機体を水平に戻す……
「(……よっし!……良い方向だ……)」
前方やや右に、2隻の漁船が並んでいた。
2隻の間に、サクラは「エクストラ300LX」を向けた。
「(……200ノット……OK……)」
チラッ、と速度を確かめると……
「(……水平……OK……今だ!)」
「ふっ!」
漁船を通過するのに合わせ、サクラはスティックを引いた。
「(……っくううううぅ……)」
Gメーターの表示は跳ね上がり、サクラはシートに押し付けられる。
負荷のかかったエンジンは唸り……「エクストラ300LX」は、大きく宙返りをした。
「(……もう少し……)」
宙返りの頂点……速度は落ちて「G」は小さい……サクラは、首を上に向けて2隻の漁船を真上……裏返しなので、実際は真下……に見ていた。
それが段々と前方に移動してくる。
「(……サイド……良いか?……)」
サクラは、素早く左の主翼端を見た。
そこには変わらず、サイティングデバイスが付いている。
45度降下姿勢を確かめると……
「(……この辺か……)」
サクラは、再び漁船の見える位置を確かめた。
どういうことか……つまり、レース時は抵抗になるのでサイティングデバイスは外すのだ。
そのため、景色の見え方で機体の姿勢を判断しなくてはならない。
その準備を、サクラはしていたのだ。
スロットルレバーはフルフォワードで固定しているので、45度の降下により「エクストラ300LX」は、ドンドン速度が上がる。
見る見る迫る海面を見ながら、サクラはスティックを半分ほど左に倒した。
機体は左にロールする。
「(……引くか?……まだか?……)」
昇降計はマイナスに振り切って、高度計の針は凄い勢いで左に回っている。
「(……そろそろ良いかな?……)」
此れと言って目標は無いのだが、サクラはスティックを引いた。
あまり大きな「G」が掛かる事無く「エクストラ300LX」は水平飛行になった。
「(……ん~ 少しズレちゃったかー……)」
理想では、正面右側にさっき最後にターンしたポールが見えているのが良いのだが……今は正面左に見えていた。
「(……仕方がない……)」
サクラは、少しだけ左旋回をした。
「……ハアハア……」
コースを2往復……スラロームを4回、ループを3回……したサクラは、大きく高度を上げた「エクストラ300LX」のコックピットで荒い息を吐いていた。
僅か3分程度の飛行だったのだが、全身に汗をかいている。
「……ハアハア……んっ……」
{「コーストサイド こちらルクシ 感度ありますか?」}
無理やり息を整え、サクラは無線に話しかけた。
{「ルクシ こちらコーストサイド 良く聞こえる」}
直ぐに男の声で、日本語が返ってきた。
「(……はぁ……日本語で話せるのは、楽だな……)」
見た目は違っても、やはり日本人である。
何も考えなくても言葉が出るのは、それだけでストレスが減る。
そんな事を考えながら……
{「コーストサイド データは取れました?」}
サクラは、飛行の目的の一つを確かめた。
{「ルクシ 全て順調だった。 完璧だ」}
{「コーストサイド んじゃ、帰ります。 撤収おねがいします」}
汗でベトベトだし、腕も重くなってるし……サクラは、さっさと帰ることにした。
{「ルクシ 了解」}
一言答えると、無線は沈黙した。
『お帰りなさいませ』
格納庫前に「エクストラ300LX」を停め、サクラが降りるといつもの様にクルー達……一人へって3人になった……が揃っていた。
『ただいま。 機体の整備をおねがい。 私はシャワーを浴びるわ』
『畏まりました』
その前を通りながらサクラが言うと、クルー達は一斉に動き始めた。
『Mr.森山は、まだ帰ってないわね』
真っ直ぐ前を見たまま、サクラは聞いた。
『はい。 まだで御座います』
直ぐ後ろを付いて歩く、女性のクルーが答えた。
『そう……戻ったら格納庫で待ってるように伝えて』
『畏まりました』
礼をして離れるクルーを置いて、サクラはターミナルビルに向かった。
件のVIPルームでシャワーを浴びたサクラが格納庫に戻ると、シミュレーターの側で森山が待っていた。
「お待たせしました、森山さん」
「いや、丁度セッティングが出来たところだ」
「そうですか。 直ぐに見られます?」
「ああ、出来る。 んじゃ、座って」
森山に促されて、サクラはシミュレーターに座った。
シミュレーターの画面の中では右に左にと、激しく海面と空、砂浜が回り、流れていた。
「(……うへ……目が回る……)」
気持ちが悪くなりそうで、サクラは画面から視線を外した。
「これが、さっきのフライトだな。 それを視覚化した」
そんな様子を気付いたのかどうか……森山が言った。
「んー? これをGPSのデータと……合成開口レーダー?……のデータで作ったの?」
「ああ。 GPSデータはテレメトリーで受信した。 それと海岸に置いたXバンドレーダーのデータを統合して……ヴェレシュのスパコンで、だけど……その位置と運動データを元に画像を合成したんだ」
森山は簡単に言うが……そんなシステムなど、世界中どこにも有りはしない。
「今は、横滑りなんかは表現できてないな」
「それでも凄いよ。 特に、この軌跡表示は役に立つもの」
そう……ぐりぐり再生されている画面の下側に「エクストラ300LX」の飛んだ軌跡が表示されていた。
「ここだ……」
森山が、再生を停止させた。
「……バンクが小さくて、そのためGが小さくなっている。 ん~ 8Gかな?」
「そうだね。 その辺りは……」
サクラは、タイムテーブルを読んだ。
「……疲れて、スティックを倒す速さが遅くなってるんだ」
「そうだな。 バンクが小さいのに、エレベーターを引く量が同じなので……機体が上昇している」
「あ~ それでかー 機体が浮き上がってきて、困ってたんだ」
サクラは、うんうんと頷いた。
「さて、次は……」
森山は、マウスを使って次のシーンに移動させた。
「……ここなんだが。 宙返りのスタート時に傾斜している」
「あー ほんとだ」
さっきまでのコックピット視点と違って後方からの視点に切り替えた事で、機体の傾斜がはっきりしていた。
「ふぅ……」
ソファに座って、サクラは一つ溜息を吐いた。
「……何か……凹むね。 こんなに無駄やマイナスポイントがあるんだ」
「そうだな。 まあ、まだ初心者なんだから、そんなもんじゃないのか?」
問題の場所をプリントしたファイルを持って、森山が対面に座った。
「でも、もう4ヶ月以上練習してるんだよ……」
サクラは、ファイルを受け取った。
『……紅茶をもってきて。 Mr.森山にはコーヒー』
「何て言ったんだ?」
いきなりハンガリー語が飛び出して、森山は驚いたようだ。
「紅茶とコーヒーを頼んだんです……」
サクラは、森山を見た。
「……森山さんも、勉強始めたんですよね」
「あ、ああ……そうだけど……ハンガリー語、ってのは難しい」
森山は、頭を掻いた。
「そうですねー でもヴェレシュで働くには、必要ですから……頑張って下さい」
「了解……『megertes』」
森山は、何とかハンガリー語をひねり出した。
「さてと……」
フライトの分析を終わらせると、サクラはテーブルの下から大きな封筒を取り出した。
「……これが、明々後日からハンガリーに行く航空券、諸々です」
「お、おお。 もうそんなに直ぐなんだな」
森山は、テーブルに置かれた封筒に手を伸ばした。
「本当に良いんですね? ヤスオカを辞めてヴェレシュに来るのは……」
サクラは、森山を真っ直ぐに見た。
「……今なら、何とか……ちょっと苦労しますけど……無かったことにできますよ」
「ん! 大丈夫だ……」
森山は、大きく頷いた。
「……十分考えた。 実際のところ……サクラちゃんも、この間の選手権大会で見たと思うんだが……スタント機は、この先電動化していくと思うんだ。 博美ちゃんは、多分エンジンで行くだろうけど……決勝に残ったトップ選手は、8人中2人しかエンジンを使ってない……」
そう……つい先日の日本選手権大会の決勝に出た選手は、博美と本田以外は全員電動モーターを使っていたのだ。
優勝と2位の機体がエンジン機なので、パッと見はエンジン機優勢に見えるが……実際は、電動化の波は直ぐそこまで来ている。
「……俺は、エンジンのチューンナップの為に、ヤスオカに居たようなモノなんだ。 勿論、いろんなアイテムも考えたけどな……基本はエンジン屋だと思ってる……」
森山は、少し遠くを見る目をした。
「……そこへサクラちゃんのこの話が来た、って訳だ。 実機なら、当分の間……もしかしたらズット……エンジンが使われるだろう。 俺は、それに掛けてみる事にしたんだ」
「そうですか……そうですね、多分エンジンが使われなくなることは無いでしょうね……」
サクラは、頷いた。
「……分かりました。 奥さんは、納得してますか?」
「ああ、それは大丈夫だ。 純子は旅行会社に勤めてるから、海外も平気だそうだ」
森山は、ニッコリした。
「向こうに着いたら、イロナが待ってるはずですよ、森山さん」
「そうか。 それは助かる……って、何処で待ってるんだ? サクラちゃん」
「勿論、ブダペスト空港です」
「えっと……関空からの飛行機は、何処に着くんだったっけ?」
「ルフトハンザですから、フランクフルトです」
「フランクフルトってドイツだよな? そこからどうやってブダペストに行くんだ?」
「ん? フランクフルトからトランジットしてください。 簡単ですよ? 同じEU加盟国ですから」
「そ、そりゃな……簡単だろうよ、サクラちゃんなら。 俺は、一人で行った事が無いんだぜ」
「一人じゃないでしょ。 純子さんと啓ちゃんが一緒なんだから」
「啓一は、まだ2歳だぜ。 役に立つもんか」
「純子さんが、居るじゃないですか」
「はぁ……ま、そうだな。 純子に頑張ってもらうか……」
「何かあるんですか?」
「いやな……あいつ、事あるごとにマウントを取って来るんだ。 ずっと覚えてて、この先ネタにしてくる」
「へー そうなんですか?」
「ああ……始めて会ったときにナンパした事を、今でも言うんだぜ。 そろそろ勘弁してもらいたいもんだ」
「はー それは恥ずかしいですねー あ! でも、今回のことで上書きされれば……」
「上書きなんてされないよ。 どんどん追記されていくんだ。 もう、彼是10件ぐらいある」
「あははは……それは、ご愁傷様です」