ダニエル
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遠くに模型エンジンの音が響き、時々「おお!」や「あー!」等の群集の声が聞こえていた。
しかし、サクラの座ったテントの中は、水を打ったように静かだった。
「(……どうすりゃいいんだよ……)」
肩を窄めて項垂れたサクラは、目を瞑って考えを巡らせていた。
『……それでハーネスは、いつ届きましたか?……』
少し離れた場所で、鈴木がクルーに英語で聞いているのが聞こえる。
『……昨日ですね。 夜遅くだと思います……』
メカ担当のクルーは、そのままを答えているようだ。
「(……少しは、空気を読めよ……)」
『はい!サクラ。 どうした? 元気が無いな』
そんな所に、落ち着いたハンガリー語が聞こえてきた。
『え!……』
驚いてサクラは、顔を上げた。
『……ダ、ダニエル……どうして此処に?』
そこにはイロナと共に、いつもは……サクラの父の……アルトゥールの側に居て、通訳をしているダニエルが立っていた。
『はは、驚いたか?……』
ダニエルは、心底可笑しそうな笑みを浮かべた。
『……実はな、今回の事が……ハーネスの事だけじゃないぜ、一連のエンジン不調全般の事だ。 どうもおかしな動きが見えたんだ』
『ん? 何故ダニエルが知ってる?』
サクラは、特に実家に報告した事はない。
『私が報告してたわ……』
イロナは、椅子を二つ持って来た。
『……ダニエル様、座りましょう』
『そうだな』
慣れた様子でダニエルは、イロナの引いた椅子に座った。
聞き取りをしている鈴木の声が聞こえる中、サクラはイロナの淹れた紅茶を飲んでいた。
『やれやれ……Mr.鈴木は、職務に忠実だね』
目の前ではダニエルが、同じ様にティーカップを持っていた。
『ダニエルは、鈴木さんを知ってる?』
確か、サクラは彼の名前を、教えてないはずだ。
『ああ、知ってるよ。 と言うか……彼はヴェレシュ家に関係があるね』
『え! 関係者?』
『そうだよ……』
ティーカップを置いて、ダニエルは頷いた。
『……彼は、ヴェレシュ家の調査官。 日本支部のね』
『はぁ……そんな人が居るんだ……』
サクラは、一つ息を吐いた。
『……それじゃ……私に訪ねてきたのは? ヴェレシュの為? それとも航空局の役人として? 凄く怖かったんだけど』
『それは、俺が頼んだ……』
ダニエルは、黒い笑みを浮かべた。
『……あんまりサクラがノホホンとしてるから、現実の怖さを教えようと思ってね。 お前は、もうチョット世間に対して、危機感を持った方がいい』
『むぅ……そんな事分かってるよ。 何よ、お前なんて言って。 私をそんな風に呼べる立場なの?』
サクラは、頬を膨らませた。
『ちょっと、サクラ』
何故かイロナが、咎める様に口を挟んだ。
『ああ、良いよイロナ……』
ダニエルは、イロナに掌を向けた。
『……サクラは、記憶が無いんだから』
『何? なんか、意味深な言い方だけど』
サクラは、首を傾げた。
『そうだね。 今まではっきり言ってなかったから、知らなかったんだね……』
ダニエルの顔に影がさした。
『……大変な事故だったよね。 俺も心配してたんだぜ。 なんせ可愛い妹だからなぁ』
『ん? 妹? 私が? それじゃ、ダニエルは、お兄さん?』
サクラの頭に、疑問符が飛び回った。
『そうだったんだ。 御免なさい、生意気なこと言って』
イロナから詳しく聞いたサクラは、ダニエルに頭を下げた。
『気にしなくていいよ。 一生懸命強がる所が可愛かったからね……』
ダニエルは、サクラを見てニッコリとした。
『……本当は、威張るのは苦手なんだろ? 日本語だと、大人しい話し方だよな』
『う、うん。 ニコレットが、そういう話し方をするべきだって……そう言うから』
見つめられ、サクラは少し頬を染めた。
『そうだね。 それはこれからも実践したほうがいい……』
ダニエルは、頷いた。
『……ヴェレシュは、サクラが継ぐ事になるから』
『え! ダニエルが継ぐんじゃないの? 長男でしょ。 私は三人目だよ』
サクラは、首を傾げた。
『そうだけどな……俺とフランティシュカは、正式に結婚した相手との子供じゃないんだ。 今は大人しいけど……若い頃、親父は随分と荒れた生活をしてたらしい。 家のメイドにも手を出して……それで俺とフランティシュカが生まれた。 妊娠が分かった途端に、そのメイドは首にしたらしい。 そして、その後サクラの母親である、ツェツィーリアと結婚した』
ダニエルの語り口は、そんな話の割りに「淡々」としていた。
『酷い……あのお父さんが、そんな事したなんて』
『そう思うよな。 ツェツィーリアもそれを知ったときに、激怒したそうだ。 親父を締め上げて、メイドたちを家に呼び戻した……』
ダニエルは、口角を上げた。
『……想像すると面白い絵図らだよな。 サクラと良く似たツェツィーリアが、あの親父を叱り飛ばすんだぜ』
『私って、お母さんに似てる? 以前お父さんも言ってたけど』
『良く似てるよ。 もっとも、もうちょっとサクラが歳を重ねたら、だけどね』
思い出す様に、ダニエルは頷いた。
『Mr.鈴木と話をしてくる』とダニエルは、席を離れた。
『ねえ、イロナ。 さっきの話で出てきたメイドだけど……ダニエルのお母さん……今はどうしてるの?』
鈴木と握手をしているダニエルの後姿を見ながら、サクラは尋ねた。
『今はメイドを辞めてるわ。 結婚してるの……』
イロナは、ニッコリした。
『……サクラは、優しいわね。 大丈夫よ、ちゃんとヴェレシュから援助もしてるから』
『そうなんだ。 よかった……きっと子供もいるよね』
そう……結婚したなら、ダニエルの弟か妹がいるに違いない。
『いるわよ……』
イロナは、テーブルの上に乗り出した。
『……ここにね』
『ここって……誰もいないじゃない。 私とイロナとクルーだけだよ』
サクラは、首を傾げた。
『……ふふっ……貴方の目の前よ』
イロナは、ウインクをした。
『え! イロナ? イロナって、ダニエルの妹なの?……』
サクラは、目を剥いた。
『……似てない、よね』
『それは、私が父に似たからなの。 母に似たなら、美人だったんだけど……って、何を言わせるのよ』
イロナは、肩を竦めた。
『お姉さんのお母さんは? 今の話だと、その方もメイドだったんだよね』
イロナの自虐ネタを、とりあえず無視してサクラは尋ねた。
『無視したわね……まあ良いわ……』
イロナは、肩を落とした。
『……フランツィシュカ様のお母様も、今は結婚してメイドは辞めてるわ』
『やっぱりそうなんだね。 今の暮らしは? ダニエルのお母さんと同じ境遇だと思って良いかな?』
『ええ、全く同じよ。 結婚してから、男女一人ずつ子供が生まれたわ』
『そうかー 良かったね』
『因みにその娘って、誰だか分かる? 貴方の良く知ってる人よ』
『えー 私の知ってる人? ……』
サクラは、組んだ手の上に顎を乗せた。
『……んーー……あ! ひょっとして……もしかして、ニコレット?』
『あたり……』
イロナは、ニッコリした。
『……如何? なかなか複雑でしょ』
『うん、こんがらがっちゃうね。 ダニエルとフランツィシュカは、私の異母兄と異母姉なのは確かだけど……イロナとニコレットは……異母、異父姉妹? って、それじゃ他人と同じじゃないかな?』
こういう関係は、如何言えば良いのか……再びサクラの頭の中を、クエスチョンマークが飛び回った。
『サクラ……』
ダニエルが、クルーの一人を連れて来た。
『……今回のトラブルは、どうやら解決したよ』
『え? 解決?』
サクラは、ダニエルとクルーを交互に見た。
『申し訳御座いません、サクラ様……』
クルーが、頭を下げた。
『……私が、全て悪いのです』
『と、言うわけだ。 この男が、エンジンに悪さをしていた……』
ダニエルは、苦々しく顔を顰めた。
『……サクラは、信用していたようだが……この男は修理、調整、部品交換、それらをまともにしてなかった』
『え! まさか……』
サクラは「ぽかん」と口をあけた。
『……ちゃんと部品は使った分だけ、在庫が減ってたよ』
『ばれない様に、アパートに持って帰ってたんだ。 そして、少しずつ売ってた』
『そ、そうなんだ……』
サクラの瞳に、光る物が溜まってきた。
『……信用してたのに……何故?』
『申し訳御座いません……』
クルーは、更に頭を下げた。
『……私の心が弱かったので御座います』
『サクラは、ヴェレシュと敵対……とまでは言わないが、仲の良くない家があるのは知ってるか?』
ダニエルが、サクラを見た。
『何となく……』
サクラは、イロナからハンカチを受け取った。
『……詳しくは知らない』
『まあ、その名前までは、今は知らなくていい。 ただ、その家の人間が、この男に接触していた。 どうやら、かなりの金額を提示されていたようだ……』
ダニエルは、握りこぶしに力を込めた。
『……何の報酬だと思う?』
『ん……』
サクラは、目を押さえたハンカチをイロナに返した。
『……私の邪魔をする事?』
『違う。 それ位だったら、まだ可愛い……』
ダニエルの拳が「ブルブル」と震えだした。
『……お前の事故だ。 死ななくてもいい、しかし事故にあって大怪我をしたら……日本円で数千万円だそうだ』
『そんな……その程度のお金で』
『ふははは……』
突然クルーが、下を向いたまま笑い出した。
『……そうだろうよ。 お前らヴェレシュの奴には、端金だろうよ。 でもな、俺達下働きの者には、大金なんだよ! くそう! あのままドナウ川で死んでいれば良かったのによ』
『とうとう、本性を出したな……』
ダニエルが、クルーの胸倉を掴んだ。
『……サクラの優しさに付け込みやがって』
『ダニエル様。 その先は私達が行います』
気が付くと、ガタイのいい黒服の男が3人、周りを取り囲んでいた。
クルーが黒服達に連れ去られ、テントの中には静けさが戻っていた。
『……どうして……私の何処がいけなかった……』
残されたサクラといえば、イロナに抱きつき胸に顔を押し付けていた。
『……ちゃんと給料は……ヴェレシュの標準より少しは多く出してたのに』
『そうね。 私が思うには、サクラは悪くないわ……』
イロナは、優しくサクラの頭を撫ぜた。
『……ただ、あのクルーがおかしかったのよ。 十分な給料を貰っているのに……サクラやヴェレシュのお金に目が眩んだんでしょうね。 結局は、唯の嫉妬よ。 自分でも言ってたじゃない、心が弱いって。 正にその通りね』
『私は、この先も今まで通りで良いのかな? 私の使用人達には、不満は無いのかな?』
『大丈夫よ。 ほら……』
イロナが、サクラを自分の胸から起こした。
『……見てごらん』
『サクラ様。 私達は、サクラ様に付いていきます……』
顔を起こしたサクラの前に、残った3人のクルーが並んでいた。
『……サクラ様は、大きなミスを犯した私達を許して下さいました。 更に、お側で仕える事も許して下さいました。 あのようなミスを犯した者は、ヴェレシュから追放されてもおかしくないのです。 それをサクラ様は、わずかな罰で終わらせて下さいました……』
クルー達は、揃って頭を下げた。
『……私たちは決めたのです。 私たちは、サクラ様の為ならこの身を惜しまないと』
『ありがとう……みんな、ありがとう』
サクラの頬を伝って、涙がパンツ(ズボン)に落ちた。
競技が全て終わり、静かになった飛行場のエプロンで、サクラは「エクストラ300LX」のエンジンカウルを付けていた。
「これで良いか?」
砕けた口調になった鈴木が、それを手伝っている。
「はい、それで良いです……」
サクラは、素早くボルトを入れた。
「……はい、OK……すみません、手伝ってもらって」
「別に良いよ。 一人減って、メンテが大変だろ? 一応、俺も整備の真似事は出来るんだ」
鈴木は、ポンポンとカウルを叩いた。
「そうなんですねー ただの文官じゃないんですね」
サクラは、レンチでボルトを締めた。
「いや、ただの文官だよ。 趣味で飛行機を触ってるだけさ……」
鈴木は、別のパーツを持ち上げた。
「……だからハーネスの事も分かるんだ」
「え、っとー やっぱりダメ?」
「ん? 何のことかな~ 俺は、おかしな物は見てないんだけどな~」
「良かったー 鈴木さんって、良い人ですね」
サクラが鈴木の手を握り、鈴木は持っていたパーツを落としそうになった。
「鈴木さん、って安全に関する部署ですよね」
「何だい、サクラちゃん」
「友達に聞いたんですけど、彼女の知ってる人が航空局から目を付けられているらしいんです」
「ん? 何を仕出かしたのかな?」
「もう数年前ですけど……台風で閉鎖されてる高知空港に、ヘリコプターを着陸させたそうなんです」
「そりゃ、問題にされるよ」
「でも……その時は、沈没する船から乗員を救助して帰って来たところだったんです」
「そうか……確かに早く着陸したいよなぁ。 そのパイロットの名前は?」
「井上さんです。 今は名古屋の海上保安庁にいます」
「井上……聞いたことがある。 かなりの凄腕パイロットだ」
「何とかなりませんか」
「それは、ヴェレシュからの要請と思って良いかな?」
「そ、そこまでは……私のお願いということで」
「サクラちゃんのお願い? そうだなー 今度夕食でも一緒に行かないかい?」
「えっ! そんな~」
「はは、冗談だよ。 そんな事をしたら賄賂で捕まっちまう」
「はぁ……冗談ですか」
「そっ……サクラちゃんは、ヴェレシュの次期当主だぜ。 不敬で追放だな」
「だ、大丈夫です。 そんな事しません」
「冗談だよ。 そんな事、心配してないさ。 っで、井上の事だね……そうだなー 動いてみるかな」
「ありがとうございます。 よろしくお願いします」